六月下旬。
帝丹高校へ赴任して数日が過ぎた。
小西浩平はいつもと変わらぬ黒いスーツに身を包み、職員室で試験問題の作成を進めていた。
「小西先生」
隣の席から椎名小春が声を掛ける。
「二年B組の工藤くん、本日も欠席だそうです」
「ああ」
短く返事をする。
それだけだった。
職員室では他の教師たちが何気ない世間話をしている。
「工藤君、本当に海外へ行くらしいですよ」
「急な話でしたねぇ」
「高校生探偵だから海外でも活躍するんでしょう」
誰も疑問を抱いていない。
小西だけが静かにコーヒーを口へ運んだ。
(海外留学)
(未来には存在しなかった情報だ)
だが、それだけでは何も断定できない。
未来が変わった可能性。
あるいは、別の事情を隠すための方便。
可能性はいくらでもある。
証拠は、一つもない。
(推測では動かない)
それが小西の信条だった。
---
その夜。
自宅。
黒いスーツを脱ぎ、伊達眼鏡を外した小西はノートパソコンを開いた。
画面には一人の人物について集められた資料が並んでいる。
高校生探偵。
新聞記事。
事件解決の記録。
テレビ出演。
雑誌のインタビュー。
過去の新聞を年代順に整理しながら、小西は静かに分析を続ける。
「六月を最後に情報が途絶えている」
キーボードを叩く。
全国紙。
地方紙。
インターネットニュース。
目撃情報。
どれを調べても、六月以降の足取りは完全に消えていた。
「小西先生。どうぞ」
椎名が冷たいコーヒーを机へ置く。
「ありがとう」
小西は一口飲み、再び画面へ目を向けた。
椎名が静かに尋ねる。
「やはり、本当に海外留学されたのではありませんか」
小西は首を横へ振った。
「可能性はある」
「だが、可能性だけでは何も証明できない」
椎名は黙って続きを待つ。
「僕は証明できない事実を前提に行動しない」
「未来で起きた出来事も」
「現在で確認できなければ、ただの情報に過ぎない」
椎名は静かに頷いた。
「確かに、その通りですね」
---
小西は資料の束を一冊取り出した。
そこには高校生探偵・工藤新一が解決した事件の記事だけがまとめられている。
トリックではない。
犯人でもない。
小西が読んでいるのは、その人物自身だった。
「正義感が強い」
「危険を恐れない」
「人命を最優先に考える」
「そして、自分の推理に絶対の自信を持っている」
記事を読み終え、小西は静かに目を閉じた。
「未来で僕を破滅させた、あの探偵なら」
「姿を消したまま終わる筈はない」
だからこそ違和感が残る。
海外留学。
あまりにも都合が良すぎる。
しかし、それを否定する材料も存在しなかった。
---
その頃。
毛利探偵事務所。
テレビではニュース番組が流れていた。
『高校生探偵・工藤新一さんが海外留学』
その話題を見つめながら、毛利蘭は少しだけ寂しそうに笑う。
「急だったけど……」
「向こうでも頑張ってるのかな、新一」
ソファへ座る江戸川コナンは何も答えられない。
(ごめんな、蘭)
(今はまだ、帰れない)
その想いだけを胸に秘め、テレビから目を逸らした。
---
一方、小西は『ライフ・ライン』の管理画面を開いていた。
今夜も何十件もの電話相談が寄せられている。
その大半は、雇われた一般オペレーターへ自動で振り分けられていく。
しかし。
一件だけ。
ある通話が、小西専用の回線へ転送された。
『……妹を自殺に追い込んだ連中を許せません。』
ヘッドセット越しに震える声が聞こえる。
小西は目を閉じた。
声色。
息遣い。
沈黙の長さ。
そこに嘘はない。
「……続きをお話しください」
静かな声で応じる。
それ以上のことは語られない。
部屋には相談者の嗚咽だけが響いていた。
---
通話を終えた小西は、工藤新一の資料を静かに閉じた。
「情報が足りない」
「調査は続ける」
「証拠が揃うまでは動かない」
窓の外では、梅雨明け前の夜風が街を吹き抜けていた。
「君はどこへ消えた」
「名探偵」
その呟きは静かな夜に溶け、答えが返ってくることはなかった。