七月中旬。
夜の帳が下りた頃、小西浩平は自宅の書斎でパソコンの電源を入れた。
黒いスーツを脱ぎ、伊達眼鏡も外している。
教師としての一日を終えた今からが、もう一つの仕事の始まりだった。
画面には『ライフ・ライン』の管理画面が表示される。
相談件数――五十七件。
そのうち四十九件は一般オペレーターへ自動転送済み。
残る八件だけが、小西自身による確認対象だった。
「今日も多いですね」
黒いルームウェア姿の椎名小春が、冷たいアイスコーヒーを机へ置く。
「ありがとう」
小西は礼を言い、受話器を手に取った。
最初の相談者は、勤務先への不満を口にする男性だった。
小西は数分間話を聞くと、静かに通話を終える。
「一般オペレーターへ戻してください」
「承知しました」
続く相談者は、近隣住民との騒音トラブル。
三人目は金銭問題。
どれも殺意には至っていない。
小西は感情を交えず、淡々と振り分けていく。
「先生」
椎名が静かに尋ねる。
「どのような基準で選別されているのですか」
小西は画面から目を離さないまま答えた。
「憎しみではない」
「絶望だ」
「怒りだけなら、人は時間と共に忘れる」
「だが、絶望は違う」
「人は何かを失った時、本当に壊れる」
椎名は静かに頷く。
「だからこそ、本物だけを相手にするのですね」
「ああ」
「嘘を見抜くためだけではない」
「救えない人間を見極めるためでもある」
その時、一件の回線が転送されてきた。
『……もしもし。』
若い男の声だった。
震えている。
「お話を伺います」
『娘が……いじめで、殺されました。』
小西は目を閉じる。
声色。
呼吸。
沈黙。
そこに演技はない。
『警察は事故だって言いました。』
『学校も何もしてくれませんでした。』
『私は、どうすればいいんでしょう。』
しばらく沈黙が続く。
やがて小西は静かに口を開いた。
「まずは、すべてを話してください」
「それから、一緒に考えましょう」
相談者は嗚咽を漏らしながら語り始めた。
小西は最後まで一言も遮らず、耳を傾け続ける。
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通話を終えると、小西はヘッドセットを外した。
「小春」
「はい」
「身辺調査を始めてくれ」
「相手方全員ですか」
「ああ」
「相談内容に虚偽はなかった」
「復讐へ至る可能性は高い」
椎名はメモを取りながら頷く。
「いつもの手順で進めます」
「頼んだ」
それだけ言うと、小西は椅子へ深く腰掛けた。
「小西先生」
「どうした」
「もし、この方が最後まで復讐を決断できなかったら」
小西は少しだけ考えた。
「その時は、それでいい」
「犯罪は勧めるものではない」
「選ぶのは、最後まで本人だ」
その言葉に嘘はなかった。
ライフ・ラインは犯罪を強制する場所ではない。
選択肢を与える場所だった。
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翌朝。
帝丹高校。
いつものように黒いスーツへ袖を通した小西は教壇に立つ。
黒板へ数式を書き始める姿は、昨夜の電話相談とはまるで別人だった。
生徒たちにとっては、少し口は悪いが授業の上手い数学教師。
その裏で、日本中の絶望へ耳を傾ける男であることを知る者は、椎名小春ただ一人だった。
そしてこの日もまた、誰にも知られぬまま、一つの運命が静かに動き始めていた。