八月下旬。
夏休みも終わりに近づき、米花町には夕立が降っていた。
阿笠博士の家では、コナンが新聞を読み比べていた。
数日前、ある事件が新聞の片隅に小さく掲載されていた。
『傷害事件未遂 被害者軽傷』
事件そのものは大きく扱われていない。
だが、コナンは記事を見つめたまま動かなかった。
「博士」
「なんじゃ?」
「この事件、おかしい」
阿笠博士が新聞を覗き込む。
「普通の傷害事件じゃないか?」
コナンは首を横に振った。
「違う」
「被害者は去年、社員を自殺に追い込んだって噂があった人物なんだ」
「加害者は、その社員の父親」
「でも……」
記事を指でなぞる。
「凶器は持ってた」
「復讐する動機も十分ある」
「なのに、最後の最後で手を止めてる」
博士は首を傾げた。
「気が変わったんじゃないか?」
「……かもしれない」
そう答えながらも、コナンの違和感は消えなかった。
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その頃、小西浩平の自宅。
ライフ・ライン専用回線へ一本の電話が入る。
『……先生。』
聞き覚えのある声だった。
先日相談を受けた、娘を亡くした父親である。
「お話を伺います」
しばらく沈黙が続く。
やがて男性は、静かに口を開いた。
『私は……やっぱり人を殺せません。』
『何日も考えました。』
『設計図も読みました。』
『でも、娘が望むことじゃないと思ったんです。』
小西は何も言わず、最後まで耳を傾ける。
『先生は、一度も殺せとは言いませんでした。』
『最後は自分で決めろ、としか言わなかった。』
『だから、自分で決めます。』
『私は警察へ行きます。』
『暴力を振るってしまったことも、自分で償います。』
静かな沈黙。
そして小西は穏やかに答えた。
「それが、あなたの出した答えなら」
「僕から申し上げることは何もありません」
男性は震える声で続けた。
『先生。』
『私は、あなたのことは誰にも話しません。』
『私の話を最後まで聞いてくれたのは、先生だけでした。』
『この恩は、一生忘れません。』
小西は静かに目を閉じる。
「ありがとうございます」
「どうか、ご自身の人生を大切になさってください」
『……はい。』
通話は静かに切れた。
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椎名が書斎へ入ってくる。
「終わりましたか」
「ああ」
小西は机の上の封筒へ目を向けた。
中には、男性へ渡していた完全犯罪の設計図が入っている。
最後まで使われることはなかった。
小西は封筒を裁断機へ入れる。
細かな紙片となって、静かに屑箱へ落ちていく。
「使われなかった数式に価値はない」
その言葉に、椎名は小さく微笑んだ。
「事件が起きなくて、良かったですね」
「ああ」
小西も静かに頷く。
「人が自分で答えを選び、犯罪を思いとどまる」
「それ以上の結果はない」
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翌日。
ニュースでは、傷害事件を起こした男性が自ら警察へ出頭したことが報じられていた。
「容疑者は単独犯とみられています」
画面の向こうでアナウンサーが淡々と伝える。
毛利探偵事務所では蘭が安堵の表情を浮かべた。
「ちゃんと自首したんだね」
「良かった」
コナンはニュースを見つめたまま考え込む。
(何かがあった)
(でも、その何かが見えない)
事件を起こそうとした男が、なぜ途中で思いとどまったのか。
その答えへ辿り着く証拠は、どこにも残されていなかった。
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夜。
小西は窓を開け、夏の終わりの風を受けていた。
ライフ・ラインで犯罪を相談した者は、誰一人としてその存在を口外しない。
脅したことは一度もない。
命令したこともない。
それでも彼らは、小西を裏切らなかった。
絶望の底で、自分の話を最後まで聞き、最後の選択を自分自身へ委ねてくれた唯一の相手。
それが、小西浩平という存在だったからである。
静かな夜空を見上げ、小西は小さく呟いた。
「運命は、数式どおりにはいかないな」
その言葉を聞く者は、椎名以外に誰もいなかった。