がっこうぐらし! 孤高のハンター   作:ディクソンさん

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第二話 助けた少女

 校舎の中は凄惨な有様だった。割れた窓ガラスの破片が散乱し、廊下には引き裂かれたランドセルや血塗れのプリント、上履きが無残に散らばっている。壁には赤黒い手形がいくつも残されていた。

 

 

 陣はガラスの破片を踏まないよう足の裏全体を使って音を殺しながら慎重に廊下を進む。

 

 

「……ひっ、こないで……っ!」

 

 

 上の階から再びあの悲鳴が聞こえた。陣はクロスボウを構えたまま階段を音もなく駆け上がる。

 

 

 2階の廊下を覗き込むが、そこには数体の「かれら」が徘徊しているだけで声の主はいなかった。

 

 

(ここじゃねえ。もっと上だ)

 

 

 陣はさらに階段を上がり3階へと足を踏み入れた。

 

 

 その瞬間、陣は思わず息を呑んだ。3階の廊下には絶望的な光景が広がっていた。

 

 

 悲鳴に引き寄せられたのだろう。廊下を埋め尽くすほどの大量の「かれら」が一つの教室のドアに群がり、バンバンと力任せに叩き続けていたのだ。その群れの大半は小さな体――かつてこの学校に通っていたであろう小学生の子供たちだった。その中に混じってスーツやジャージ姿の教師と思しき「かれら」も数体いる。

 

 

「……」

 

 

 陣は奥歯を強く噛み締めた。いくら「かれら」とはいえ、相手はつい数日前までランドセルを背負って笑っていたはずの子供たちだ。普通の人間ならその姿を見ただけで足がすくみ、武器を向けることを躊躇してしまうだろう。

 

 

 だがこの廊下を通らなければあの教室の中で泣き叫んでいる声の主を助けることはできない。かれらを無視して通り抜ける隙間などどこにもなかった。

 

 

 陣は深く、静かに息を吐き出した。そして心の中にある「人間としての感情」に重く冷たい蓋をした。

 

 

(あれはもう人間じゃねえ。ただの『動く死体』だ)

 

 

 陣の三白眼から一切の感情が消え去り、冷徹な狩人の目へと変わる。彼はクロスボウを構え、群れの最後尾にいた教師姿の「かれら」の頭部を正確に撃ち抜いた。

 

 

 

 

 シュッ! 

 

 

 

 

 鈍い音と共に教師が崩れ落ちる。その倒伏音に気づき、数体の子供の「かれら」が振り返り陣に向かって小さな手を伸ばしてふらふらと歩み寄ってきた。

 

 

 陣はクロスボウを背中に回し腰から狩猟用ナイフを抜き放つ。迫り来る小さな影に対し陣は一切の容赦をしなかった。

 

 

 子供の背丈に合わせて身を沈め、伸びてきた腕を左手で払い除けると同時に右手のナイフを顎下から脳天へと正確に突き立てる。

 

 

「……ッ」

 

 

 声も出さずに崩れ落ちる小さな体。陣はナイフを引き抜き、すぐさま次の標的へと向き直る。

 

 

 斬る、突く、倒す。

 

 

 血飛沫が革ジャンを汚し床に小さな死体が積み重なっていく。大半が元小学生ということもあり彼らの力は弱く、陣の洗練されたナイフ捌きの前には為す術もなかった。

 

 

 数分後、廊下を埋め尽くしていた群れは完全に沈黙し、陣は血溜まりの中に立っていた。陣はナイフの血を払い鞘に収めると悲鳴が聞こえた教室の前に立つ。

 

 

 スライド式のドアに手をかけゆっくりと横に引いた。

 

 

「……っ」

 

 

 教室の隅、ロッカーの影に隠れるようにして小さな小学生の女の子がうずくまっていた。

 

 

 少しウェーブのかかった柔らかい髪にどこかおっとりとした優しげな顔立ち。パンデミック発生からまだ二日。彼女は奇跡的に生き延びていたのだ。

 

 

 陣が一歩足を踏み入れると女の子はビクッと肩を跳ね上げさらに壁へと身を縮めた。

 

 

 無理もない。今の陣は全身に赤黒い返り血を浴び鋭い目つきをした見知らぬ男だ。外をうろつく化け物に怯えているのか、それとも血塗れの人間そのものに怯えているのか彼女は恐怖で声も出せない様子だった。

 

 

 ふと、陣は教室の前方――教卓の横にある生徒用の机に視線をやった。そこにはうつ伏せに倒れた女性教師らしき遺体があった。

 

 

 異様なのはその死に様だ。教師の頭部は机に押し付けられており、その上から鋭く尖った工作用の大型キリのようなものが頭蓋骨を貫通して机にまで深々と突き刺さって固定されていた。

 

 

 そして、教師の首元には生々しい「噛み跡」が残っている。

 

 

(……なるほどな)

 

 

 陣は瞬時に状況を悟った。この教師はあの子を群れから庇って噛まれたのだ。そして自分が「かれら」に変わってあの子を襲ってしまわないよう完全に発症する前に自らの手で脳を破壊し命を絶ったのだろう。

 

 

 机に頭を固定したのは死後、万が一にも自分が立ち上がらないようにするための執念だ。

 

 

 陣は再び女の子へと視線を戻した。大粒の涙をポロポロとこぼし、小動物のようにガタガタと震えている。

 

 

 陣は背中のクロスボウをゆっくりと床に置き、両手に何も持っていないことを示しながら近づいた。

 

 

 そして女の子の数メートル手前で立ち止まると、威圧感を与えないよう静かに片膝をつき極力自分の視線を下げた。普段のぶっきらぼうで冷たい口調を必死に押し殺し、陣は彼にできる限りの不器用で優しい声を絞り出した。

 

 

「……怪我してねぇか」

 

 

 女の子は陣の言葉とその瞳の奥にある確かな「人間の理性」を認識したのだろう。張り詰めていた糸が切れたようにヒック、ヒックと嗚咽を漏らしながら小さく縦に首を振った。

 

 

「……そうか」

 

 

 陣は短く安堵の息を吐くと真剣な表情に戻って言った。

 

 

「……隠すなよ。噛まれてたら終わりだ。見せろ」

 

 

 女の子は涙で濡れた顔のまま再びこくりと頷いた。

 

 

 陣は彼女の小さな手足や首元、服の隙間などを手早く乱暴にならないように慎重に調べていく。

 

 

(……噛まれた跡も目立った傷もねぇな)

 

 

 どうやらあの教師が完全に守り抜いたらしい。

 

 

「大丈夫だ。お前は感染してねえ」

 

 

 陣はそう告げると少しだけ声のトーンを落として尋ねた。

 

 

「……名前はなんだ」

 

 

 しかし女の子は俯いたままギュッと自分のスカートの裾を握りしめるだけで何も答えてはくれなかった。極度の恐怖とショックで声が出ないのか、それともまだ完全に心を許していないのか。

 

 

「……いい。無理して喋んな」

 

 

 陣はそれ以上追及することをやめた。名前なんて生き延びてからいくらでも聞けばいい。

 

 

 彼は立ち上がり、床に置いていたクロスボウを再び背中に背負った。

 

 

「ここは駄目だ、血の匂いでやつらがまた寄って来る。……来るか?」

 

 

 陣が手を差し出すと、女の子は少し躊躇った後その小さな両手で陣の無骨な指をぎゅっと握り返してきた。その手の震えと冷たさに陣はチッと心の中で舌打ちをした。

 

 

(……チッ。放っときゃよかったんだ)

 

 

 陣は女の子の手を引き教室を出ようとして――ふと足を止め、教卓で息絶えている教師の遺体を振り返った。

 

 

「あんたの生徒は俺が連れて行く。……よく守り抜いた」

 

 

 誰に聞かせるでもなく短く呟き、陣は教室を後にした。

 

 

 廊下に転がる「かれら」の死体を女の子に見せないよう陣は自分の革ジャンを脱いで彼女の頭からすっぽりと被せた。

 

 

「……掴まれ。離れんな」

 

 

 革ジャンの下から小さな手が陣のシャツを強く握りしめる。陣は女の子を庇うように抱き寄せながら血塗られた校舎を慎重に下りていく。

 

 

 外には茂みに隠したバイクが待っている。この小さな命を乗せてどこへ向かうべきか。安全な寝床などこの狂った街のどこにあるというのか。

 

 

 孤高のサバイバーの孤独な旅はこの日を境に予期せぬ道へと進み始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから五日が経過した。

 

 

 陣と女の子はオフロードバイクの機動力を活かし巡ヶ丘市内の様々な場所を点々としていた。小さなスーパー、ロードサイドのコンビニ、時には鍵の開いた無人の民家。二人分の食料や日用品を探すため陣は危険を承知で物色を繰り返した。

 

 

 物資は確かにあった。陣のサバイバル能力があれば食いっぱぐれることはない。

 

 

 だが、どこも決して「安全」ではなかった。やつらは生者の立てる僅かな生活音や匂いに引き寄せられてくる。さらに厄介なことにこの数日で陣は「かれら」のもう一つの習性に気づいていた。

 

 

 やつらには生前の記憶や習慣が微かに残っているのだ。

 

 

 夜、安全だと思って鍵をかけた民家で息を潜めていると、かつてその家の住人だったであろう「かれら」が帰宅してきてドアノブをガチャガチャと回し力任せに扉を叩き続ける……そんな薄気味悪い夜が何度もあった。

 

 

 物資は集まるが心から安らげる安全な場所はどこにも決まらない。常に移動と警戒を強いられる綱渡りの日々だった。

 

 

 だが、そんな過酷な日々の中で一つだけ確かな変化があった。女の子が徐々に陣に対して口を開くようになったのだ。最初は陣の背中に隠れ何事にもビクビクと怯えていた彼女だったが、三日前の夜が転機となった。

 

 

 見張りをしながら陣が暇潰しに狩猟ナイフで木切れを削り、不格好なクマの木彫りを作っていた時のことだ。陣が「ほらよ」と無言でそれを放り投げると、彼女は小さな両手でそれを受け取りじっと見つめた後、消え入りそうな声で「……ありがとう」と呟いたのだ。

 

 

 それが彼女が陣に向けた初めての言葉だった。それをきっかけに彼女は少しずつ陣に話しかけるようになった。

 

 

「お腹すいた」「あそこ怖い」といった短い言葉から始まり、陣がクロスボウの手入れをしていると不思議そうに覗き込んでくるようにもなった。

 

 

 そしてつい昨日。安全な建物の屋上で手に入れた缶詰の桃を分け合って食べていた時、彼女はついに自分の名前を教えてくれた。

 

 

「……るーちゃん」

 

 

「あ?」

 

 

「みんなわたしのこと……るーちゃんって呼ぶの」

 

 

 俯きながら、それでもしっかりと陣の目を見て彼女はそう言った。本名ではなく愛称だったが、陣にとってはそれで十分だった。それは間違いなく彼女が陣という人間を信用し、心を開いてくれた何よりの証拠だったからだ。

 

 

「そうか……。陣だ」

 

 

 陣はぶっきらぼうにそう返すと、自分の皿に残っていた桃を無言でるーちゃんの皿に押し付けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そして現在。

 

 

「落ちんなよ、るー」

 

 

「うんっ」

 

 

 陣はバイクを走らせながら背中にしがみつく小さな温もりを感じていた。背中のリュックとバイクの荷台には数日分の食料と水が積まれている。物資は当分問題ない。

 

 

 だがこのまま野宿や空き家を転々とする生活を続ければいずれ陣の体力もるーちゃんの精神も限界を迎える。

 

 

(るーを寝かせられる場所がいるな……)

 

 

 陣は目を細め死の街を見渡した。どこかにやつらが寄り付かず人間が生き延びるための設備が整った場所はないか。

 

 

 そんな都合のいい場所があるわけがないと分かっていながらも、陣はバイクのアクセルを捻り巡ヶ丘市の奥へと進んでいく。

 

 

 陣はバイクを走らせながら住宅街の奥まった場所にある一軒の民家の前でブレーキを握った。

 

 

「……ここなら少しはマシか」

 

 

 陣が目をつけたのは周囲の家とは少し造りの違う堅牢な外観の家だった。敷地の周囲は高いブロック塀で囲まれ、入り口には頑丈な鉄製の門扉(スライド式のゲート)が設置されている。門扉は閉ざされており、外から「かれら」がふらりと侵入してくるリスクは他の家よりも格段に低い。

 

 

「るー、今日はここで休むぞ」

 

 

「……うん」

 

 

 陣はバイクを門扉の脇の目立たない場所に停めエンジンを切った。門扉の隙間から手を伸ばして内側のカンヌキを外し、音を立てないように慎重にゲートを開けて敷地内へと入る。玄関の前に立ち陣はドアノブに手をかけた。

 

 

 ガチャリ、と軽い音がしてドアはあっさりと開いた。鍵はかかっていない。

 

 

 陣は背中からクロスボウを外し肩に構えながら油断なく家の中へと足を踏み入れた。

 

 

「……」

 

 

 薄暗い玄関ホール。生活感はあるが人の気配はない。陣が靴を脱がずに上がり込みリビングの方へ警戒の視線を向けていると、ふと背後にるーちゃんがついてきていないことに気がついた。

 

 

 振り返るとるーちゃんは玄関の外、ポーチのところで立ち止まりもじもじと身をよじっていた。

 

 

「早く入れ、外は危ねえぞ。………どうした」

 

 

 陣が声をかけると、るーちゃんはビクッと肩を揺らし慌てて首を横に振った。

 

 

「う、ううん……なんでもないの」

 

 

 そう言って彼女は小さな靴を脱ぎ揃えてからおずおずと陣の後ろへとついてきた。

 

 

 陣は小さく息を吐く。彼女がなぜ躊躇したのか理由は分かっていた。

 

 

 るーちゃんはまだ「他人の家に無断で上がり込む」という行為に強い抵抗があるのだ。パンデミックが起きる前、彼女はきっと「よそのお家に勝手に入ってはダメ」と親から厳しく、そして優しく教えられて育ってきたのだろう。

 

 

 だが、今の世界は違う。

 

 

 他人の家を漁り、他人の食料を奪わなければ生きていけない。るーちゃんも幼いながらにその残酷な現実を理解している。だからこそ「入っちゃダメだ」とは言わず、自分の道徳心を押し殺して陣についてきたのだ。何も言わないのではなく、言えないだけ。

 

 

(……チッ。ガキにやらせることじゃねぇ)

 

 

 陣は胸の奥がチクリと痛むのを感じながらも表情には出さずクロスボウを構え直した。

 

 

「俺の後ろだ。離れんな」

 

 

「……うん」

 

 

 陣はるーちゃんを背後に庇いながらリビングのドアをゆっくりと押し開けた。カーテンが閉め切られた室内は薄暗く、静まり返っている。

 

 

 陣は鋭い視線で部屋の隅々まで確認し、ソファーの裏、キッチンの陰、そして二階へと続く階段を見上げた。

 

 

「……一階は問題ねぇな。ここにいろ、上見てくる」

 

 

 陣がるーちゃんにそう告げ、階段に足をかけようとしたその時だった。

 

 

 

 

 ――ガタンッ! 

 

 

 

 

 二階の奥の部屋から何かが床に落ちるような鈍い音が響いた。陣は瞬時に動きを止め、クロスボウを二階へと向けた。

 

 

 るーちゃんが息を呑み、陣の革ジャンの裾を強く握りしめる。

 

 

(……風じゃねぇな)

 

 

 陣はるーちゃんに「声を出さずに隠れてろ」と手振りで指示し、足音を完全に殺して一段ずつ階段を上り始めた。

 

 

 この家にいるのは住人かその成れの果て(かれら)か。それとも自分たちと同じように逃げ込んできた「生存者」か。

 

 

 陣の指がクロスボウの引き金に静かにかかった。木製のドアノブに手をかけ、引き金に指を添えたままゆっくりと音を立てないように扉を押し開ける。そして隙間から差し込む僅かな光が照らし出したのはあまりにも残酷で救いのない光景だった。

 

 

「………」

 

 

 陣は思わず息を呑みクロスボウを下ろした。

 

 

 部屋の中央、天井の太い梁から三本のロープが垂れ下がっていた。そのうちの二本には大人の男性と女性が首を吊ってぶら下がっている。そして床には首に千切れたロープを巻きつけたままの小さな子供が倒れていた。

 

 

(……この家の連中か)

 

 

 部屋の隅には綺麗に整頓された学習机と家族写真が飾られた棚があった。彼らは外の地獄から逃れこの堅牢な家に立て籠もったのだろう。だが助けは来ない。食料も底をつく。外には無数の化け物が徘徊している。

 その絶望と恐怖に耐えきれず、家族全員で自ら命を絶つ道を選んだのだ。

 

 

 そして死後数日が経過し、空中にぶら下がっていた子供のロープが重みに耐えきれずに千切れ床に落下した。それが先ほどの「ガタンッ!」という音の正体だった。

 

 

 床に倒れた子供はピクリとも動かない。噛まれた跡もない。「かれら」になる前に人間のまま死ぬことを選んだのだ。

 

 

「クソッタレが……」

 

 

 陣は低く怒りに満ちた声で吐き捨てた。こんな残酷な結末を強いたこのふざけた世界そのものに対するやり場のない怒りだった。

 

 

 陣はクロスボウを背中に回し、部屋の隅にあった毛布を無言で引きずり出した。そして床に倒れた子供の遺体の上にせめてもの手向けとして静かに被せた。天井からぶら下がる両親を下ろしてやる余裕はない。

 

 

「……悪ぃな。一晩だけ借りる」

 

 

 陣は短く呟き部屋を出て扉をしっかりと閉めた。

 

 

 階段を下りてリビングに戻ると、るーちゃんが不安そうな顔でソファーの陰に隠れていた。陣の足音に気づき、ビクッと肩を揺らす。

 

 

「……陣、なにかいたの……?」

 

 

 るーちゃんがおずおずと上目遣いで尋ねてくる。陣は努めて平坦な声を作り、るーちゃんの頭にポンと手を置いた。

 

 

「……何でもねぇ。デカいネズミがいただけだ」

 

 

「……ほんと?」

 

 

「……ああ。上も問題ねぇが今日は下で寝る。こっち来い」

 

 

 陣は決してあの二階の光景をるーちゃんに見せるつもりはなかった。こんな幼い子供にこれ以上の絶望を背負わせる必要はない。この世界の汚い部分は全部自分が引き受ければいい。

 

 

「ほら、飯にするぞ。今日は缶詰のシチューだ」

 

 

 陣がリュックから缶詰を取り出すと、るーちゃんの顔に少しだけ安堵の色が浮かんだ。物理的には安全な家。だがその頭上には悲しい家族の亡骸が眠っている。

 

 

 陣はクロスボウを手の届く場所に置きながらこの狂った世界で「本当の安全な場所」など存在するのだろうかと暗く沈んだ窓の外を睨みつけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 缶詰のシチューを平らげた後、まだ眠りにつくには早く二人は薄暗いリビングでそれぞれの時間を過ごしていた。

 

 

 陣は音を立てないよう慎重に家の中を探索し使える物資をかき集めていた。キッチンの戸棚にあった未開封のレトルト食品、引き出しの奥の乾電池、洗面所で見つけた救急箱の包帯や消毒液。それらを広げたリュックの中に無駄な隙間ができないようパズルのように詰め込めるだけ詰めていく。

 

 

 一方ソファーの上にちょこんと座ったるーちゃんは陣が暇潰しに作って渡したあの不格好なクマの木彫りを両手で包み込むようにして大切そうに眺めていた。

 

 

 物資を大方リュックに詰め終え、陣がジッパーを閉めようとした時だった。ふと視線を感じて顔を上げると、るーちゃんが傍らに木彫りのクマを置きじっと陣の方を見つめていた。

 

 

「……どうした?」

 

 

 陣が手を止め、極力威圧感を与えないよう低い声で問う。

 

 

 るーちゃんは少しだけ躊躇うように視線を彷徨わせた後、ぽつり、ぽつりと語り始めた。自分の大好きな「お姉ちゃん」の話を。

 

 

「わたしのお姉ちゃんね……すごく優しいの」

 

 

 静かなリビングに幼い声が響く。陣は何も言わずただ黙って耳を傾けた。

 

 

「お料理も上手で、いっつもわたしの面倒を見てくれて……すごく頼りになるんだよ。わたしが転んで泣いちゃった時もお姉ちゃんが頭を撫でてくれたらすぐに痛いの飛んでいっちゃうの」

 

 

 るーちゃんの顔にほんの少しだけ温かい笑みが浮かぶ。だが、その笑みはすぐに悲しげなものへと変わっていった。

 

 

「でもね……世界がこんな風になっちゃった日……」

 

 

 るーちゃんはギュッと自分のスカートの裾を握りしめた。

 

 

「お姉ちゃん、高校に行ってたの」

 

 

 陣の眉がピクリと動いた。高校。この巡ヶ丘市にある高校といえば陣もいくつか心当たりがある。

 

 

「……」

 

 

「お姉ちゃん、逃げられたかな……。化け物いっぱいいたのに……」

 

 

 それを語るうちにるーちゃんの大きな瞳にみるみると涙が溜まっていった。限界まで張り詰めていた表面張力が弾け、ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝い落ちる。

 

 

「ひぐっ……お姉ちゃん……あいたいよぉ……っ」

 

 

 一度堰を切った涙は止まらず、るーちゃんは両手で顔を覆い子供らしく声を上げて泣きじゃくり始めた。ずっと気を張っていたのだろう。小学校で一人ぼっちで隠れていた時も、陣に助けられてからの数日間も。彼女は「お姉ちゃんに会いたい」という一番の願いをずっと小さな胸の奥に押し込めて我慢していたのだ。

 

 

 陣は無言のまま立ち上がり、泣きじゃくるるーちゃんのそばへと歩み寄った。慰めの言葉など陣は持ち合わせていない。「生きているさ」と無責任な気休めを言うことも、「諦めろ」と残酷な現実を突きつけることも今の陣にはできなかった。

 

 

 陣はただ、るーちゃんの小さな頭に無骨な手をポンと乗せ、彼女が泣き止むまで不器用な手つきでゆっくりと撫でてやることしかできなかった。

 

 

(……高校、か)

 

 

 るーちゃんの泣き声を聞きながら陣は暗い窓の外へ視線を向けた。この地獄のような街で女子高生が生き延びている確率など万に一つもないだろう。

 

 

 だが、もし万が一その高校が「安全な拠点」になり得る場所だとしたら――。

 

 

 孤高のサバイバーの胸の内に一つの明確な目的地が浮かび上がろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして次の日。カーテンの隙間から薄暗いリビングに朝の光が僅かに差し込んでいた。

 

 

 るーちゃんがゆっくりと目を覚ますと、そこにはすでに起き上がりいそいそと外に出る準備をしている陣の姿があった。

 

 

 あの後、るーちゃんは陣に頭を撫でられながら泣き疲れそのままソファーで眠ってしまったのだ。毛布がしっかりと掛けられているのを見て陣が寝かしつけてくれたのだと子供心に理解した。

 

 

 クロスボウの弦を確かめ、リュックを背負い直していた陣はソファーで身を起こしたるーちゃんに気がついた。

 

 

「起きたか」

 

 

 陣は短くそう言って近づいてくると、傍らに置いてあったるーちゃんの小さな靴を差し出した。

 

 

「ほら、早く出るぞ」

 

 

 その言葉にるーちゃんはギュッと毛布を握りしめた。またあの化け物がうろつく怖い外の世界へ出なければならない。この家はまだ安全なのに、またあてのない旅が始まるのだ。

 

 

 るーちゃんは不安げな声で陣を見上げて問う。

 

 

「……次は何処に行くの……?」

 

 

 陣は動きを止めた。そしてるーちゃんの目の前で静かに片膝をつき、極力彼女と視線を合わせる。昨日と同じように、その無骨で大きな手をるーちゃんの頭にポンと乗せ優しく撫でながら陣ははっきりと答えた。

 

 

「……お前の姉ちゃんがいるとこだ」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、るーちゃんはハッと息を呑み大きな目を見開いた。

 

 

「……えっ?」

 

 

「もしかしたらそこが『安全な寝床』かもしれねえからな」

 

 

 陣はあくまで「自分たちの拠点探しのためだ」という口ぶりだったが、それがるーちゃんを安心させるための不器用な嘘であることは明白だ。生存確率が絶望的に低い女子高生を探すためにわざわざ危険な場所へ向かう。それはこれまで「自分の身は自分で守る」と嘯き、他人の命を背負うことを避けてきた孤高のサバイバーにとってあり得ない選択だった。

 

 

 だが、陣は決めたのだ。この小さな女の子の涙を止めるためなら少しぐらい無茶をしてやってもいいと。

 

 

 るーちゃんの見開かれた目から再びポロポロと大粒の涙が溢れ出した。だがそれは昨日のような絶望の涙ではなく、確かな希望の涙だった。

 

 

「じんっ……!」

 

 

 るーちゃんは陣の胸に飛び込み、その革ジャンを小さな両手でぎゅっと握りしめた。

 

 

「おい、鼻水つけんなよ……。行くぞ」

 

 

 陣は悪態をつきながらもるーちゃんの背中を軽くポンポンと叩き立ち上がった。

 

 

 二人は家を出て門扉を静かに閉める。朝の冷たい空気が肺を満たす。陣はるーちゃんをバイクの後ろに乗せしっかりと自分に掴まらせた。

 

 

「しっかり掴まってろよ」

 

 

 バイクのエンジンが低く唸りを上げる。

 

 

 どんな地獄が待っていようと、あるいはどんな奇跡が待っていようと。陣とるーちゃんは一縷の望みを懸けて死の街を走り出した。




お読みいただきありがとうございました!

何とるーちゃん生存ルートです!ちゃんとした名前が分からないので、名前はるーちゃん固定で行こうと思います。

ウォーキング・デッドを見たこと…?

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