動画を流しながら
「
何度も何度も聞いたが、まだ理解できない。だからこそ、ループ再生を続ける。
この難解なエロチシズムに向き合うにつれ、私自身に新たな技能が身に付いた。
最初はこのIHコンロの使い方も分からず、用意させたマネージャーを呼びつけていたが、今ではガスコンロを用いて自分一人で
砂糖40g、片栗粉40g、水120cc、油20ccを計量器で計る。小数点2桁の誤差が生じやすいのでこの作業には神経を使う。そして、卵を割り、卵白分離機を用いて卵黄3個を取り分ける。
「コメ欄がグラドルのソレに近い」
どうして卵黄だけは正確な数値が記載されていないのだろうか。
スーパーに材料を求めに行くようになって知ったのだが、卵には色々なサイズがある。そして、種類もある。動画から鶏卵と判断したが、どのサイズかまでは私には分からない。ここにどういった意図が潜んでいるのだろうか。
思いつくものとしては、唯一加工されていない材料ということだ。他は製粉や精製といった工程を経ている。だが、卵だけは違う。だとしても、L玉やS玉、茶色なのか白なのかといったことは記載しても良いだろう。それなのに明示されていない。私はここに言い知れない不安を感じる。
「逆マジッ●ミラー号みたいやなあ~」
精密な材料選定は美術の基本だ。
どのようなものであっても、美の前では平等だ。
自動車工場で偶然生まれた人造鉱物フォーダイト。
天の配剤から始まったものであっても、定量化され再現性を高められていった。
ミイラを材料としたマミーブラウン。
たとえ、一般社会では忌避されるようなものであっても、使い方次第で美を表出する。
それなのに、
レシピという、それこそ芸術性を排除し再現性のみを追い求めるものにおいては、致命的な欠陥と言わざるを得ない。生ものである以上多少の差異は生じてしまうが、それでも目安になる基準は設けるべきだ。
動画に倣い、コンロの上にボウルを置いて材料を混ぜる。それをお玉で撹拌し、均一にする。
これも本来ミキサーを使えばよい。手の微細な感覚を動員するのであれば泡だて器の方が向いている。どうもこのレシピは不完全に思えて仕方がない。
材料を中華鍋に流し込み、固まるまで少し待つ。固まってきたら、動画のようにお玉でペチペチする。ある程度固まったら皿に移す。
動画には手順が記載されている。だが、工程の詳細な説明はない。
どの程度固まるまで待つのか、ペチペチは何度行うべきなのかも分からない。
完成品を観察する。
黄色の塊が皿の上で湯気が立ち昇っている。突いてみると弾力があり、少し揺れる。
油によってもたらされた光沢もある。
「その淫猥な目つきが全てを物語ってる」
官能的には私には思えない。
だが、大衆受けしたあの動画から考えるに、多くの日本人はこれにエロスを見出すのであろう。歌詞に中国語字幕が併記されていたから、アジアの共通幻想なのかもしれない。
……千利休が提唱した一期一会の文脈だろうか。
毎回作成するたびに誤差が生じる。その差を尊び、趣深さを見出すことに重きを置くためにあえて定量的にならないようなレシピもどきを提示している可能性がある。
偶発的に遭遇した光景は、意図された物より心に響くことがある。
美術では再現できないが、それも確かな美だ。雨上がりの虹やエンジェルラダーといったものが証明している。
官能的な観念として、チラリズムというものもある。
通常想定しないような状況で性的な部位を目にした際、高い興奮を掻き立てるものだ。
この文脈は私にも理解できる。だが、この黄色の塊にエロスを見出すことは出来ない。理論は間違っていないはずだが、何かがずれているようだ。
これまで、私と大衆の間にこれほど大きな感覚的差異はなかった。だからこそ、私は名声を得られたのだろう。完全に外れる狂人でも、均一化されきった凡人でもない。その中間にいるからこそ、この歳でアトリエを持ち、制作助手も居る。
だが、まだ見ぬ新たな美の境地が存在する。それが民意によって保証されている。私は証明された楽園への道筋を切り開くのだ。
私はコロンブスと同じ境地に居るのだろう。プレスター・ジョンや東方見聞録のような幻想ではない、データ化された真実の地があるのだ。
美は探究するものである。だが、これほど安楽な探検など、史上どこにもないだろう。
「シャバダバダバ
―――――
体験や作業を通じてインスピレーションが湧くことはある。
効率や理論を重視する現代社会では軽んじられることもあるが、これは科学的に証明されている事実だ。
この数日、毎食
であれば、要素を分解し論理的に考察する方策を取るべきだ。
「
丸っこいとかすべすべしてるとか
フォルムの考察が多い」
食と性は一般的に切り離される傾向にあるように思う。
だが、芸術ではそうとは限らない。文学においても、桃のような尻という比喩表現がある。つまり、果実である桃を性的対象としてみることが成立し得るという訳だ。絵画においては言うまでもない。
反対に食物から女性を想起することもある。
聖ドロテア、別名カエサリアのドロテア、または聖致命女ドロフェアのアトリビュートは林檎や果実、薔薇の入った籠だ。
西洋芸術では、しばしば性的な絵画を宗教画とすることで社会的な非難から逃れる方便とした。したがって、食物と性は芸術において近しい立ち位置にあるとも捉えられる。
「君が中華屋の回転テーブルで
アリストテレスに倣い、シンプルにいこう。
食物はエロスの対象となりうる。
従って、
……これにも論理的な破綻はないはずだ。抽象の梯子を登り過ぎたか?
突如スマホの動画が止まり、リマインダーが音を立てて時間を告げる。
今日は美大予備校に行く日だったな。あそこは退屈だ。だが、
タップしてアラームを止める。
「エッチになったり
ならなかったりしてるの
マジでなんなんすか?」
今度は生徒達に
中華屋の娘なら、私より美味な
「つまりエロいってことだ~
つまりエロいってことだ~」