三不粘のエロスを感じさせてくれ……   作:AKI久

6 / 7
失楽園

熱した鍋に卵液が投入される。鍋肌に触れると弾ける音が立つ。

まだ固まりもしない液体をへらでゆっくりと掬うように混ぜている。徐々に液体がゲル状に変化していく中、一塊になるよう撫でながら整形している。

 

かと思いきや、完全にゲル状になったものを絵具を伸ばすように勢いよくなべ肌に押し付けながら攪拌してゆく。そして、また一つにまとめ、また伸ばす。何度か繰り返した後、男がへらに着いたものを鍋肌で削ぎ取った。

 

「中華は火力って聞いたことがあるかい。

あれじゃ片手落ちってもんだ。油の使い方が分かってねえとただ焦げるだけだ。

大量の油を何度かに分けて入れるってことが多いな。そうさせてもらうぜ」

 

お玉に追加の油を掬い、鍋に投入した。

 

「ここからペチペチしますぜ」

 

鍋を振り、ひとつになった塊を軽く動かす。

その後、それに向けて何度もお玉を叩きつける。動画で聞いた音とは違う。細かく、しかし確実に対象を素早く打ち据えているからだ。金属音とは異なる、低い殴打音。料理というよりは肉を叩いている方が近いように思える。鍋と擦れる音はめったにせず、私達との差が表れている。

 

鍋にへばりついたものをへらやお玉で取り、塊にまとめてゆく。たまに鍋を振り、動かしながら打撃を加える。段々と塊が分裂し、いくつかのブロックに分かれていった。不思議なことに、それでも繰り返していくとまた一つへ集約されていく。

 

殴打、油、攪拌、その繰り返し。だが、次第に鍋に張り付いていた卵はなくなり、お玉に付きながらも、決して後に残らず伸びて離れるようになった。イメージを固めるために使うスライムやアクリル絵の具に近い。

 

同じ食べ物でいえば、トルコアイスのパフォーマンスが思い浮かぶ。あれは決して離れないが、こちらは最後には必ずお玉から綺麗にはがれる。

 

「俺は古い人間だからよ。

科学に詳しくねえが、分子構造を破壊するために叩き続けるんだろうな。

それに砂糖と油の量によっても固さは変わるだろうよ」

 

男が34点に、白地に雷紋で縁取られた皿を要求する。

 

―――――

 

鍋から滑り落とされ、皿の中央に陣座する三不粘(サンプーチャン)

オムレツよりは平らだが、薄焼き卵よりは厚い。見た目はラテックスやシリコンに近い。滑らかとは言い難いが、粗いとも言い難い外観。黄色でなく人皮と同じ色合いであれば、肌にも見えなくはないだろう。

 

「箸でつまんでみてください」

 

男の促しに従って箸で挟んで持ち上げる。粘着しているようにみえるが、箸先を下げると自然に零れ落ちていった。立体作品を展示する前に使う掃除用スライムのようだ。

 

「へっ……よかったぜ。これで三不粘(サンプーチャン)と名乗ってもいんじゃねえか。

鍋・皿・箸にはへばりつかなかったからな。実際は何につかないか知らねえけど」

 

この男――料理人は初見でここまで対応してみせた。

悔しさなど感じようがない。ただ、憧憬が湧いてくる。私のように三不粘(サンプーチャン)から料理を始めた者ですら押し切られてしまうのだ。大衆も芸術性を厨房、いや彼の腕に見出すに違いない。

 

「いつまでも見てないでくれ。冷めきったら味が変わっちまう」

 

「……そうですね。私としたことが、作品を台無しにするところでした。

料理の道、その底知れなさと貴方の研鑽に圧倒されてしまいました。

では、いただきます」

 

手を合わせ、少しでも敬意を示せるよう祈る。

 

―――――

 

私は満たされていた。

昼下がりの日差しが私を優しく包む。どことなく浮遊感まで感じる。

 

三不粘(サンプーチャン)は甘かった。砂糖が前面に出ているが、その奥に卵と油の主張が確かにある。何より触感が他とは異なっていた。粘着性はあるのに、歯に付着することはなかった。甘い卵焼きと材料は変わらない。にもかかわらず、三不粘(サンプーチャン)という一種の別料理であった。あれと比べれば、私が作ったものは甘すぎる炒り卵だった。

 

料理人の腕が別側面を引き出して見せた。

自明だが、私と34点が同じ対象を同じ画材で描いたとしても、作品の評価は雲泥の差になる。ブラインドテストであっても、歴然とした差が証明されるだけだ。それと同じだ。守破離の第一段階に足をかけただけの者が、既にレシピから離れた者と比肩できる道理はない。

 

私は天狗になっていた。

自身では常に謙虚を心掛けているが、知らぬ間に変性してしまっていたようだ。あの鉄人の美しさが、私を糺してくれたのだ。

 

思えば、同道の先達である教授を私との実績と作品の差で軽んじてしまっていた。クオリティの優劣はあれど、経験だけは私より多いのだ。だから、今回も気づきのきっかけをくれた。

 

「戻ります。

不敬を承知で申し上げますが、次は最高の一品をお願いしたい。

そして、その対価を私に支払わせていただきたい」

 

店の前で礼を告げる。だが、直接は伝えてはならない。

あのような習作未満のものに感謝をするなど、外道だ。試験的な作品で腕を測られるなど、業腹極まる。私であれば、その不埒者の眼前でその作品を破り捨てること間違いない。

 

「へっ……そんな大層なもんじゃねえよ。

どんな時でも最低限のクオリティは保証して、腹いっぱいにするのが街中華ってもんだ」

 

「ふっ……」

 

「へっ……」

 

料理の道にも様々あるようだ。私のように美の全てを究めんとする者ではないようだ。

だが、その哲学が彼を磨き上げたのだ。

 

目の前をタクシーがゆっくりと通る。

あのドライバーが顔をだし、私の前に後部座席の扉を止めた。

 

三不粘(サンプーチャン)のお客さん、乗りますか?」

 

「戻る」

 

「了解しました」

 

「なんで⁉ 誰も呼んでないよ⁉」

 

34点は青い。

だが、未成熟な視点の重要性を再発見できた旅だった。

 

美の巨匠は歴史を超える。

美術史に蹄跡を残すからだ。マスターピース自体が歴史を変えることすらある。だが、その足元には数知れない無数の作家が転がっている。

その無名達もかつては傑作に触発されて道に踏み入ったのだ。私もモナ・リザを下手くそと感じながらも、それが持つ魔性に見入られて筆を取った。この美しき蟲毒を繰り返す、果ての無い輪廻こそが美の歴史だ。

 

料理人はその原体験を私に思い出させてくれた。

美食とは良く言ったものだ。貪欲に食のイデアを求める姿勢は私達と変わらない。

 

「お嬢ちゃん、俺はプロですよ。

お客さんを逃したら、息子にゲームを買ってやれなくなっちまうよ」

 

自動で開いたタクシーの扉を潜り、後部座席の背を預けて動画のURLを開く。満足感からか勝手に意識が遠のいていく。視界も段々とぼやけてきた。

 

三不粘(サンプーチャン)をエロい目で見るな(怒)」

 

動画の叱責で我に返る。

私はいつの間にか、大衆の集合的無意識内に宿る三不粘(サンプーチャン)の官能的な美、その探究を忘れてしまっていた。

求道者達を前に、我を失ってしまっていた。どうして私は、彼らに対して芸術家面など出来ていたのだ。厚顔無恥にも程がある。

 

私は……道を違えて……。あぁ……エロスはどこに……。

 

スマホが手から零れ落ちる。

 

「先生? ……先生‼」

 

「お嬢ちゃん、横にして気道を確保してあげて。

その後は練馬総合病院に電話してね。俺の方が救急車より早く病院まで連れていけるよ」

「シートベルトをお締めください」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。