倦怠感に包まれて目を開く。
見慣れたリノリウムの白い天井が夕日に照らされている。
「先生、起きましたね。タクシーで気絶するから驚きましたよ!」
これは……34点か。
腕に違和感があり、そちらを見ると点滴が繋がれていた。首を回せば、見慣れた病院の個室のようだ。いや、扉から除く手すりの色が違う。
「それにしても驚きましたよ。
お医者さんが栄養失調と心理的ショックによる意識混濁なんて言ってましたよ。
先生は売れっ子なのに、ご飯食べてなかったんですか?
モンマントルでもないのに、そんなことあるんですねぇ」
あぁ……私は失格だ。
売れない同胞ですら身を削って美を追い求める。
芸術家として成功したダリでさえ命を削っていた。彼は天才を追い求め、故意に奇行を繰り返した。彼は凡人が空想する天稟を体現し、そのセルフプロデュースの経験を作品に表現してみせた。
なのに、私は他の探究者に魅せられて自らのレゾンデートルすら失ってしまった。
「まあ、そんな落ち込まないでください。
あんなネタ曲に本気になるなんて馬鹿らしいですから」
病室に、34点の声だけが残る。
―――――
美を、何かを追い求める者であればそんなことは口が裂けても言えない。あのような御仁を父に持つ女が発してはならない言葉だ。あの料理人は自らの不明を自覚しながらも、真剣に向き合い、汚名を恐れず挑戦してみせた。
「34点、いや貴様はただの女だ! 二度と私の前に顔を出すな!」
「えっ……急にどうしたんですか……。
まだ病み上がりなんですから、落ち着きましょう」
「求道を否定するな!
熱に浮かされたことがないのか!
自らを超越し、されど肉に縛られ現実に戻される我が身を恨んだことはないのか!
貴様は芸術家どころか、人間ですらない!」
「うん……? ……はぁ‼
あんなもんに価値なんてないでしょ‼
読み方も分からん黄色をエロい目で見れる訳ない‼
先生の方こそ変態を超えた変態じゃないですか‼ 馬鹿でしょ‼」
これ以上、仮にも同胞であろうとした者の悲鳴を聞きたくない。
美は人を狂わせる。いわんや、探究する者は壊れやすい。この女は落伍してしまった。
……私も似たようなものだな。対話の道半ばで倒れてしまった。未だ何も掴めない。
「止めろ!
……私は……どうしても
どうして、人々はあれにエロスを感じるのだ……」
「……教えてくれ、私にはどうしても共感も体感できない。
共通幻想を理解できねば、型を破ることも出来ない。ただの型知らずは、美しくない。
自然体な美ではなく、偽りの粗野にしかならないんだ……」
「何度動画を見返しても……私には何も理解できない……。
何故、卵白をカブトムシに吸わせるんだ。意味のない動物虐待だ。
逆マジッ●ミラー号とはなんだ。対偶マジッ●ミラー号はあるのか。
回転テーブルで
女の瞳から怒りの色が失せていく。
師と仰いでいた者が何一つ理解出来ない蒙昧であったことに失望しているのだろう。
「何よりも……中華屋に行ったのに、歌詞のシチュエーションを体験することすら忘れてしまった自分が分からない……」
女は、何も返さない。
―――――
私の肩に手が乗せられる。
「……先生、考えすぎです。私なりの作品解説を聞いてください」
女が一度咳ばらいをした。
「あれはネタ動画です。モダン・タイムズじゃないです。
そもそも、
初めて聞く意味不明な
「……だが動画の最後に、作った
「そんなことありません。あったとしても異常性癖です」
仮に女の主張が正しいとしても、一つ大きな問題が残されている。
「だが、貴様も分かるだろう。一つの作品を作るのにどれだけの熱量が必要か。
音楽という別の道であっても変わらないはずだ。
一曲を書き上げるのには相応のパトスがあったことには違いない」
中身がどうあれ、作品の背後には確かな熱があった筈だ。
そのことだけは誰であろうと否定できない。
「知ってます。
……絵画に追加の一筆入れるか不安になるけど、それでも楽しいですよね。
私は講評でボロカスに言われますけど、それでも作業は苦しくて気持ちいいんです」
「あの曲は美や主張ではなく、笑いを求めているんじゃないですか?
作者の気持ちなんて知りませんが、歌詞を字面の通りに受け止めなくてもいいと思います」
「……だとしても、理解できない……」
鑑賞者は十分な知識や資格を持っていてこそ作品との対話が行える。その前提を必要とせず直観に語りかけるものもあるが、あの曲がそうだとは思えない。
私に、その土台が欠けていることは変わらない。
モダンアートと同じで、共通する前提が無ければ解釈も出来ない。
「別にいいじゃないですか。
見る人は変な事言ってるって笑うんです。理解なんて必要ありません。
感覚で笑えばいいんですよ。ほら、もう一回見ましょう?」
女が私のスマホを手渡してくる。受け取り、画面をタップする。
……そうとも捉えられるか。
不可知の美、それと同類項であったか。
有名だが、ミロのヴィーナスの評価の一つに、腕が欠けているから美しいというものがある。その余白が鑑賞者の想像を掻き立て、無限の回答を生みだす。いわば、一方的な対話でその作品を強化するものだ。受け手の素養に関わらず、解釈を可能とする。
「
この曲も疑似的に同じ形式を採用している訳だ。
言葉を尽くして、一見理解が出来るように装い共感を引こうとしている。だが、エロスを見出す対象は
私の取り組みには答えは存在せず、独り相撲だった。どう回答しようが、無限に生まれる解釈に押しつぶされ続ける終わりのないメビウスの輪。私はそこから抜け出そうと無駄にもがいていただけだった。
「シャバダバダバ、
初歩の初歩に立ち返る、そんなしょうもない作業だった。
だとしても、視野は広がった。私のパトスを発散したくてしょうがない。
「エチエチ感じるな~!」
34点を跳ねのけ、点滴の針を引きはがす。
病室を飛び出してエレベーターのボタンを押す。遅い!
階段を跳び下り、入口のガラス扉を跳ねのけ外へ出る。
「ドライバー! アトリエだ!」