ここまでの場所がこの町に? と驚くほどに雰囲気があるバーに中学校のクラス・メイトたちが集合していた。欠席したのは数名の消息しらずのみであって、主な全員が三次会のメムバーとしてここにいる。当時と比べて、旧友たちの傾向はおおよそ変わっていない。タバコを吸うにぎやかな男たちはソファーで肩を組みながら向かい合った椅子に座る派手に着飾った女性とお似合いな様子だった。
それよりほかの人間には僕も入っていたのだが、ソファから離れた低い椅子に腰をかけて膝ほどの高さをもつテーブルを囲っていた。もちろん酒を飲んでいた。
零時を過ぎ、場は煮詰まりを迎えていた。
「学歴でいうと早稲田大学と上智がクラスで最高になったのね。そのあとは中央、日大、国士館と帝京あたりか。答え合わせって感じ! 皆タバコなんか吸ってないし、タトゥも刻んでない」
と高崎が言う頃には、ソファにぶんぞりかえって足を崩しながら悪臭を吐く(と彼女は唾棄した)人間はその場を去っていた。どうせ女と楽しんでるだろ、と付け加えてもいた。
「まあまあ、些細なことだよ。僕が帝京なのも、高崎や嶋浦が素晴らしい大学に通えているのも、等しく運の問題だろう。僕だって、面と向かって運ガキがだとか言われたことがあるくらいだ」
「そんなこと理解してるって。だから、こーんなくっだらない話ではなく、もっとニヤニヤしてムフフな話をしましょう! がきの頃より進んだ下世話な話をさぁ!」
高崎はジョッキをテーブルに叩きつけながら宣言した。
当時はなかなかの堅物で知られた彼女の、五年を経て飲み話の音頭を取るにまでなった変容について興味が湧いたが、聞けるはずもない。その勢いに対して、対抗できるメムバーはなかった。おおよそ思考がアルコールに犯されていた点と、一生に一度しかない雰囲気により話題は加速していく。
「このなかで彼氏・彼女がいるのは伊藤ちゃんと大引くんだけか~、二人はちょっと端に逃がしてあげる」
そう言われて座席が入れ替わる。僕と同じく交際相手持ちらしい伊藤さんが右横に座った。ここは背もたれを倒したソファで、上半身を寝かせられる設計であった。向かい側では、既に酔いつぶれた森田くんがコートを被せられている。
「あの頃は不適切異性交際、とか言われていたね。大引くんもなんだ」
伊藤さんが僕に言う。彼女は成人式の振袖とは変わって蘇芳色のドレスで着飾っていた。それは高崎といった他の女性と変わらないが、酔わずにいる姿は高貴であり、魅力的だった。相手がいるという身同士であったから、もちろん不適切な話をする気はさらさら起きなかった。むしろ情人を思い浮かべて、振袖とドレスを用意することが成人式の参加条件としてある風潮への嫌悪を抱いた。僕の彼女はその二つを用意する金銭がなく、先ほど「バイト終わった」という連絡を受けていた。
自らの特権性が恥ずかしい。
それを表明したところで、彼女は「偽善でしかないね」と冷笑するに違いないが。
「大引くんは何か月?」
「もう少しで半年。あっちゃんは?」
表立って言うのはほとんど十年ぶりの愛称に、彼女は少し笑みをこぼした。
「一年と三か月だよ」と小声で教えてくれた。
「それはネタにはできないな」
「だよね……」
二人で向こうを見ると、「このメンバーのなかで中学時代に好きだった人はいる?」といった話題で盛り上がっている。
「私もそーだけど、あっくんも半年だから真面目なお付き合いだよ。うまくいってる。高崎ちゃんは気遣いできる人だね。ああいった話する割に」
伊藤さんが言う。
あっくん。それを聞いた僕の脳裏に、彼女と二人で妖怪ウォッチ2やバスターズに興じていた日々が浮かんだ。午前中から近所の公園に集まり、お昼で解散しても午後にまた集まった。公民館の影にあるベンチに並んでいた。特に六月はヤマモモの実が食べ頃だった。公園の脇に植えられた木が恵んでくれる赤黒い果実。木に登って実をもぎ取るのが僕で、それを流水で洗うのが彼女だった。
「そこの二人は高見の見物だねぇ~」
そう声をかけてきたのは寺地さんだ。彼女は八千代のアパレル店に高卒で就職し、すでに店舗を任されているらしい。そして、あっちゃんこと伊藤さんの大親友でもあった。
「真姫こそ、横内くんとはどうなのよ。まだ好きなんでしょ? あの子のこと」
伊藤さんはそう言ったのだという。あの時は僕に聴こえないヒソヒソ声だった。どうやら寺地さんは恋人がいない者同士の会話のなかで押し黙っている横内くんが気になっているらしく、伊藤さんはそれを応援しているのだ。
「私が連れてくるから!」
と彼女が言って、横内くんの席に向かった。
彼が僕の正面……つまり寺地真姫の横に座るまでに大した時間はかからず、結局のところ「最後にシたのはいつ?」「胸か尻か?」といった過激な領域に突入しつつある高崎らと比べても、大概劣らない淫らさをはらんだ空間が成立したのである。
……少なくとも飲みの場においては、それからどう話したのかはあまり覚えていない。とにかく、お互いに古い愛称で呼び合うほどの、恋心を抱いていたかもしれない幼馴染と過ごした、美しい少年期の記憶と、お互いの情人との関係性を破壊してしまわぬように立ち回っていた。
街は南西から北東にかけてをJRと私鉄に横断されている。その象徴として、町にある二つの小学校はJR線を境に区割りされていた。小学生の時分、JR線を超える行為は教師に叱られる重罪だった。
だからこそ線路の向こうにある国道沿いのマクドナルドのドライブ・スルーに対して「岩森小学校から来ましたうんこです!」などと叫ぶマクナル・ダッシュが英雄行為として持て囃されていた。そうすることで、JR線を挟んで向かい側にある小学校の連中を出禁に追い込める……我々は実にくそがきであった。
最後まで残ったのは八人であった。外に出たのは朝の四時過ぎ。一月の冬の寒さと澄んだ外気が酒に火照った肌を愛撫していく。四人はJR駅の北西にある山で日の出を見に行こうと盛り上がり、その中心にはやはり高崎がいた。一方の四人は僕、伊藤、寺地、横内だった。
駅のプラット・フォームまで登ったところで、寺地さんがこう言った。
「私はいま四街道に住んでて、ここで始発を待たなきゃいけないからここでバイバイだね」
すると、四人では唯一町の北西側に家がある横内くんが「じゃ、俺も……」と言い立ち去る素振りを見せた。落ち着かないような彼に対して、伊藤さんが一喝する。
「真姫をこんな寒い駅の改札に一人で置いていくなんて! ありえない!」
とても朝四時に出してよい声量ではなかった。
「そこは大人な男として一緒に待ってあげるべきでしょ!」
それを聞いた横内くんは目の色を変えて、踵を返してベンチに座っていた寺地さんの横に座った。その凛とした様子には淫靡さや汚らしさは感じられなかった。「これで暖まりな」と言い僕は二本のはちみつレモンを渡した。
僕は最初から伊藤さんを家まで送ろうと決心していたから、わざわざ聞くまでもなかった。適切な距離を取りながらプラット・フォームの階段を下りた。
東口にあるセブン・イレブンを過ぎたあたりで伊藤が発した言葉は予想だにしない内容で、男を呆然と立ち止まらせるほどの威力を発揮した。
「もう性交渉はしたの?」
妙に軽い声。
あっちゃんは数歩進んでいた。
そこから振り返って僕を見つめている。下宿先にいる間に取り換えられたらしい新しめの歩道沿いに並ぶ増して明るくなった街灯の一つが彼女を照らしている。ドレスの上にコートを着込んで。立ち尽くしたのはその美貌に、過去のある一目惚れを思い起こさせるほどにまで胸を打たれていたというのもあっただろう。
「私さ、親が厳しくて」こちらに寄りながら言った。
「もうすぐ一年半にもなるのに……それはダメって、お父さんとお母さんに」
「色々なひどい事例を見てきたから心配なのって言われるの」
最後の声は、弱々しくて。
「確かに……それは重大な事柄だよな」
僕たちは歩き出した。
「妊娠したら……って考えると大変なのはもちろん分かるよ。でも彼のことは好きだし、もっと近づきたい。避妊も絶対にするって。女の子の友達に聞くと、けっこう経験があって……私はしたいの。でも、親がどうしてもとうるさいの」
「時代と逆行してるね」
「男の子はどう思うの? 一年半付き合ってしないのは」
「僕にそんな事を聞かれても」
「……こんな事、大引くん以外には聴けないから」
「どこまで」
「……C」
僕は数年前に死んだノーベル賞作家が、ごく初期の長編に書き残した一文を思い出した。それは、ドーナツ型のいじけた〇〇膜をたびかさなる〇ッ〇ィングをつうじ護持しつづける女子大生。という部分、伊藤はまさにそれにあたるのだ。その本では直後に罵倒表現が並べられていたが、僕にはそのような気分は全く起きず、じっさいに彼女は清廉そのものだった。
「泊まりの旅行もダメだって。酷いよね」
横で歩く彼女の言葉を聞きながら、僕は迫られた。
少年時代と、それに続くティーンエイジに思い悩んでいた過去、童貞であった自己との完全なさよならを、ここで為さなければならない確信。
「僕はすでにしている。それの圧倒的な、狂気的な快楽体験から言わせてもらうと、いま風に表現すると交際関係のそれ抜きになるか。一年半なんて僕には困難だ。だから君の彼氏は男として凄まじく潔白だといわざるをえない。求められたことはある?」
「……ない」
「そうか。賛成する。君と相手がそれに及びたいなら、そうすればいいと思う。そこに誰の文句も介在させてはいけない。僕たちはもう二十歳だから」
ひしひしと悔しさが湧き上がるあたり、僕は実際に伊藤さんをどちらかと言えば好いていたとわかる。ただし、昔は彼女の身体については知らなかった。いまの僕は、知らないふりすらできないのだ。そもそも僕には情人がいる。彼女を絶対に裏切ってはならない。
「幼馴染……とはいっても、すっごく変なこと聞いちゃったね、ごめん」
「まさに成人式って夜だ」
「私たち、もう昔とは違うね」彼女はこちらも見ずに、どこかへ呟くように言う。
「……答えてくれてありがとう。やっぱり、あれをしないのは男の子にとっては大変なんだ」
「繰り返すけれど、するかしないかは伊藤さんと彼が決めることで、僕の意見もまた介在させてはならないよ」と言う頃には、もう彼女は家の前で立ち止まっていた。
「春休みに、北関東の温泉に旅行しようと思う。親に許してもらえるかは分からないけど。あと、ちゃんと彼と話してみる。親がじゃなくて、私がどうしたいかっていうのをさ」
伊藤さんは玄関の明かりの下で僕を見送った。その励まされた笑みは、自分の記憶のなかにはない成熟した女性がするもので。
「またね」
彼女が言い、同じように僕も言った。
玄関の明かりが消えるまで、そこに立っていた。