黒い巨塔のような研究施設が、ネオンの雨に濡れながら夜の都市にそびえている。警備用ドローンが一定間隔で巡回し、屋上の赤いセンサーライトが機械の眼のように空を撫でていた。
その壁面に、二つの影が張り付いている。
一人は、金色の長い髪を夜風になびかせるエルフの女。
黒いスーツにネクタイ。髪には大きなリボンと、黒い百合の髪飾り。尖った耳と、左頬に刻まれた星型の痣が、暗闇の中でかすかに浮かび上がっている。
ヴェロニカ。
組織が誇る近接戦闘の猟犬。
もう一人は、ピンクゴールドのような明るい髪をサイドテールにまとめた少女だった。
同じく黒いスーツにネクタイ。黒い革手袋。常に口元には、不敵で不気味な笑みが張り付いている。
アリス。
サイバー戦の天才。
彼女は壁面の警備端末へ手袋越しに指先を触れさせると、楽しそうに目を細めた。
「あはっ。外壁センサー、熱源感知、魔力感知、対異能者用拘束フィールド。盛りだくさんだね。歓迎されてるじゃん、脳筋エルフ」
「その呼び方をやめろ、生意気なガキ」
ヴェロニカは低く返した。
地上から百メートル以上の高さにいるというのに、その声に揺らぎはない。彼女の片手は外壁に食い込んでおり、指先だけで自分の体重を支えていた。
「それで、いつ開く」
「今」
アリスが笑った瞬間、施設の警備システムが一斉に沈黙した。
赤いセンサーライトが青へ変わる。巡回ドローンが一瞬だけ停止し、次の瞬間には何事もなかったように進路を変更する。外壁の一点に、音もなく四角い穴が開いた。
「はい、玄関完成。どうぞ、お堅い先輩」
「任務中に遊ぶな」
「遊んでないよ。楽しく仕事してるだけ」
「同じだ」
ヴェロニカはそう言い捨てると、開いた穴へ躊躇なく飛び込んだ。
アリスもその後に続く。
侵入した先は、施設三十七階の無人廊下だった。白い壁、白い床、白い天井。どこを見ても清潔で、臭いすらしない。人間が働く場所というより、何かを隠すために作られた箱のようだった。
アリスは壁に触れ、目を細める。
「中央データサーバーは地下十二階。エレベーターは全部罠。非常階段は封鎖済み。通気ダクトは小型ドローンでいっぱい。うーん、なかなか性格悪い設計だね」
「最短経路は」
「床を抜く」
「分かった」
「分かったって言うと思った。ほんと、話が早くて助かる」
ヴェロニカは右手をゆっくりと握った。
その瞬間、左頬の星型の痣が青白く輝く。
魔力が皮膚の下を走り、黒いスーツの袖が内側から裂けた。白い腕に浮かぶ筋が、一瞬だけ獣のように張り詰める。
次の瞬間、彼女の拳が床を撃ち抜いた。
轟音。
床が砕ける。
三十七階から三十六階へ。
三十六階から三十五階へ。
ヴェロニカは落下しながら、次々と床を拳で破壊していく。警報が鳴るより早く、壁面の防犯カメラがアリスの操作で明後日の方向を向いた。
「あはっ、豪快。建築基準が泣いてる」
「黙って仕事をしろ、機械憑き」
「してるよ。ほら、敵さん来る」
地下四階へ落ちたところで、ようやく警備部隊が到着した。
灰色の戦闘服に身を包んだ兵士たち。腕や首元には金属の接続端子が見える。肉体の一部を機械化した、対異能者用の強化兵だ。
「侵入者を確認。排除――」
兵士が銃を構える。
その瞬間、アリスが右手をひらひらと振った。
「遅い」
黒い手袋の指先が空中をなぞる。
強化兵たちの義眼が一斉に赤く点滅した。
「なっ、視界が――」
「右腕の補助筋肉、制御奪取。左脚ジャイロ、反転。脊髄補助チップ、三秒だけお昼寝」
兵士たちの体が勝手に動いた。
銃口が互いに向き合い、足が絡まり、何人かがその場で転倒する。残った者たちも、反応する間もなくヴェロニカに踏み込まれていた。
彼女の拳が、防弾装甲を紙のように砕く。
一撃。
二撃。
強化兵は壁に叩きつけられ、意識を失って崩れ落ちた。
ヴェロニカは一切の無駄なく前へ進む。拳、肘、膝、足払い。銃弾は彼女の動体視力の前では遅すぎた。避ける。掴む。折る。叩き伏せる。
アリスはその後ろを歩きながら、楽しそうに指を鳴らした。
「あはっ。人間って面白いよね。体を半分機械にしても、ハッキングされたら結局マリオネット」
「無駄口を叩く暇があるなら、サーバー室を開けろ」
「はいはい。ほんとせっかち」
「返事は一度でいい」
「一度でいいなら、先輩も小言は一回にして」
ヴェロニカの額に青筋が浮かんだ。
だが、言い返すより早く、重い隔壁が音を立てて開く。
その先に、中央データサーバーがあった。
無数の黒い柱が円形に並ぶ巨大な部屋。青い光が血管のように走り、床の下を流れる冷却液が淡く輝いている。
アリスは目を輝かせた。
「うわ。いい趣味してる。隠しデータの匂いがする」
「必要なものだけ抜け」
「やだ。全部見る」
「アリス」
「分かってるって。任務データ、研究ログ、出資元、被検体リスト、輸送ルート。あとは――」
アリスは中央端末へ手袋を触れさせた。
彼女の瞳に、無数のコードが流れ込む。
「第十三エリア関連の暗号ファイル。ロック深度、最高レベル。あはっ、当たりだ」
「時間は」
「三十秒」
「追っ手は」
「もう来てる」
部屋の奥の壁が開いた。
現れたのは、通常の強化兵ではなかった。
背丈は二メートルを超え、全身を黒い装甲で覆った大型兵器。人間の形はしているが、顔に相当する部分には赤い単眼だけが光っていた。
対異能者殲滅機。
その腕には、ヴェロニカの膂力を想定した拘束用クローが装備されている。
「へえ。先輩用の玩具だ」
「下がっていろ」
「言われなくても。私、肉弾戦は趣味じゃないし」
大型兵器が床を蹴った。
重い。
速い。
普通の人間なら反応する前に潰されていただろう。
だが、ヴェロニカは逃げなかった。
真正面から踏み込む。
拘束クローが彼女の肩を掴もうとした瞬間、ヴェロニカは身を沈めた。低い姿勢から、装甲兵器の腹部へ拳を叩き込む。
衝撃が金属の腹をへこませた。
だが止まらない。
兵器の腕がヴェロニカの胴を捕らえる。
「ヴェロニカ先輩、圧縮まで二秒」
「十分だ」
ヴェロニカの星型の痣が強く輝いた。
彼女は両腕で拘束クローを掴む。
金属が軋む。
次の瞬間、彼女は力任せにそれを引き千切った。
装甲兵器が初めて後退する。
ヴェロニカは飛び上がり、その頭部へ踵を叩き込んだ。赤い単眼が砕け、巨体が床へ沈む。
「あはっ。やっぱり脳筋エルフは最高火力だ」
「褒めているつもりなら、言葉を選べ」
「選んだ結果これ」
「ならば救いようがない」
アリスは笑いながら、端末から手を離した。
黒い手袋の甲に、小さな青い光が浮かぶ。
「データ奪取完了。証拠隠滅用ウイルスも置いてきた。三分後、この施設のサーバーは空っぽになる」
「任務完了だな」
「まだ。帰るまでがミッション」
その言葉と同時に、施設全体が揺れた。
警報が今度こそ鳴り響く。
廊下から大量の足音。
上階からドローンの羽音。
出口までの経路は、完全に塞がれていた。
ヴェロニカは短く息を吐く。
「突破する」
「うん。そう言うと思った」
アリスは天井を指差す。
「でも今回は、ちょっと派手に行こうか」
彼女が指を鳴らす。
施設内のスプリンクラーが一斉に作動した。
水ではない。
冷却液だ。
床が滑り、追っ手の足が止まる。防火シャッターが誤作動を起こし、敵部隊を分断する。エレベーターは勝手に上昇と下降を繰り返し、廊下の照明が激しく明滅した。
その混乱の中を、ヴェロニカが駆け抜ける。
立ちはだかる敵を拳で沈め、壁を蹴って方向を変え、閉じかけた隔壁を片手でこじ開ける。アリスは彼女の背中にぴったりとつきながら、敵の通信を潰し、ドローン同士を衝突させ、施設そのものを迷路に変えた。
「左から八人」
「見えている」
「右の通路は罠」
「なら正面だ」
「その正面が一番硬いんだけど?」
「一番速い」
「あはっ。そういうとこ、嫌いじゃないよ」
最後の隔壁を抜けると、二人は屋上へ出た。
雨が降っている。
夜の都市が足元に広がっていた。
背後では追っ手たちが階段を駆け上がってくる音がする。
ヴェロニカは屋上の縁へ歩いた。
「アリス」
「何?」
「落ちるなよ」
「先輩こそ」
直後、二人は同時に屋上から飛び降りた。
地上へ向かって落下する。
雨粒が顔を打つ。
アリスが空中で近くの広告ホログラムへ手をかざすと、ビル壁面に非常用メンテナンスリフトがせり出した。
ヴェロニカはその支柱を掴み、片手でアリスの襟首を掴む。
「首が締まる!」
「我慢しろ」
「乱暴者」
「落とされたいか」
「ごめん、今のなし」
リフトを足場にして、二人は隣のビルへ飛び移る。
背後の施設では、サーバー室が青白い光を放ち、やがて全館の電源が落ちた。追っ手の通信も、武器も、警備網も、すべて沈黙する。
アリスはビルの上で振り返り、にやりと笑った。
「あはっ。任務完了。追跡者、全排除。データ回収率百パーセント。お疲れ、脳筋エルフ」
「次にそう呼んだら、貴様を投げる」
「どこに?」
「さっきの施設だ」
「それは困る」
ヴェロニカは雨に濡れた前髪を払い、無言で歩き出した。
アリスは軽い足取りでその隣に並ぶ。
相変わらず、口元には笑みがある。
感情が読めない、不気味な笑み。
だが、ヴェロニカは知っていた。
この生意気なガキの指先がなければ、今の任務は成立しない。
アリスもまた知っていた。
このお堅いエルフの拳がなければ、どれほど完璧なハッキングも現実の壁を破れない。
二人は互いに認めている。
だからこそ、文句を言い合いながらも並んで歩く。
夜のビル屋上に、通信音が鳴った。
アリスの手袋に、組織の紋章が浮かぶ。
「はいはい、こちらアリス。任務は終わったよ。褒めてもいいけど、長話は嫌い」
通信の向こうから、無機質な音声が返る。
『重要データの奪取を確認。任務達成。続いて緊急案件を通達する』
ヴェロニカが足を止めた。
「緊急案件だと」
『特区第十三エリアにて、収容個体二名が脱走。対象は姉妹。高危険度異能者。生死を問わず確保せよ』
アリスの笑みが、ほんの少し深くなる。
「あはっ。次のゲームが来た」
ヴェロニカは不機嫌そうに眉を寄せた。
「任務なら行く。それだけだ」
『対象データを送信する』
アリスの手袋に、二つの少女の顔が映し出された。
一人は、燃えるような目をした姉。
もう一人は、静かな風のような妹。
その姿を見た瞬間、ヴェロニカの頬の星型の痣が、かすかに痛んだ。
理由は分からない。
ただ、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
「……行くぞ、アリス」
「あはっ。了解、先輩」
アリスは黒い手袋をひらひらと振り、雨に濡れた屋上の縁へ足を向けた。
「次は逃げたお姫様たちを捕まえるゲーム、ってわけだ」
「遊びではない」
「分かってるよ。だから面白いんじゃん」
「貴様は本当に性根が腐っているな」
「あはっ。今さら褒めないでよ、お堅い先輩」
二人は雨の中、再び夜の都市へ駆け出した。
この時のヴェロニカは、まだ知らない。
これから追う二人の少女が、自分の運命を変えることを。
アリスも、まだ知らない。
ゲームのように楽しんでいた任務の先で、自分の計算を狂わせるものに出会うことを。
そして都市も、まだ知らない。
この夜を境に、ガーデンという巨大な庭が、内側から静かに崩れ始めることを。