地下道の湿り気が薄れ、代わりに重油と錆びた鉄の匂いが濃くなっていく。
崩れた壁の隙間から、かすかに地上の光が差し込んでいた。そこは紅蓮都市の裏側に張り巡らされた廃棄区画の一つ。表の住人が決して足を踏み入れない、スクラップと密輸品と噂だけが積み上がる場所だった。
その一角に、電子ゴミの山へ埋もれるようにして「店」はあった。
店と言っても、看板はない。
あるのは、錆びた鉄扉と、奥から漂う焦げた基板の匂いだけだ。
「……おい、ジジイ。生きてるか」
キョウカが鉄扉を蹴るように開けた。
中からガサゴソと音がしたかと思うと、部品の山の奥から、小柄な老人が這い出してきた。額には古びたゴーグル。肌は機械油で黒ずみ、指先には細かな傷が無数にある。
老人はキョウカの顔を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「チッ。また厄介なガキが来やがった。今度は何を盗んできた、キョウカ」
「盗んでねえよ。上客を連れてきてやったんだ」
「お前の言う上客は、たいてい厄介事の別名だ」
「今回は本物だって」
キョウカが横へどく。
ヴェロニカは一歩前に出た。
そして、カウンター代わりの作業台に、迷いなく装備を置く。
黒い制服。
返り血と煤で汚れてはいるが、組織の最高級素材で仕立てられたものだ。
さらに、予備の短剣。
エルフの魔力伝導率を最大限に引き上げる特注品。
そして、特殊合金製の防具の一部。
本来なら、裏市場に流れることなどありえない品々だった。
「……ほう」
老人の目が、ゴーグルの奥で鋭く光る。
彼は震える手で制服の生地に触れ、短剣を手に取り、重さを確かめた。
「ガーデンの特注品か。それも、相当上の奴が使う代物だな。これを売るっていうのか、アンタ」
「ああ」
ヴェロニカは静かに答えた。
「これをここへ置いていくことが、どれほどのリスクになるかは承知している。だが、今の我々にはこれ以上の対価がない」
彼女は、かつての自分の半身だった装備を見下ろした。
黒い制服。
組織の猟犬としての皮膚。
それを脱ぎ捨てることに、もう迷いはなかった。
「四人分の保存食。目立たない中古の服。可能であれば、少しの現金も都合してほしい。足元を見ても構わん。我々には時間がない」
老人は、ヴェロニカの顔をじっと見た。
次に、アリス。
さらに、キョウカとハルカ。
最後に、もう一度ヴェロニカへ戻る。
「……全財産を投げ打って、ガキ共と心中か。エルフの騎士様も焼きが回ったもんだな」
「騎士ではない」
「じゃあ何だ」
「……逃亡者だ」
老人は鼻で笑った。
「いいだろう。アンタの覚悟、買い取ってやる」
奥の棚から、大型のバックパックをいくつか引っ張り出す。
「ただし、その制服の紋章は今すぐこの場で焼き潰す。ガーデンの印なんざ、残しておくだけで災いを呼ぶ」
「ああ」
「それと、そっちのピンク頭」
老人の目がアリスへ向く。
「指についてるそのリング、置いていけ。発信機代わりになる」
アリスは自分の指を見下ろした。
細いリング。
通信用の予備チップが埋め込まれた、装飾品に偽装した保険だ。
彼女は苦笑する。
「あはっ。やっぱりバレてたか。さすが、ただのスクラップ屋じゃないね」
「褒めても安くはならねえぞ」
「褒めてない。感心しただけ」
アリスはリングを外し、作業台に転がした。
老人はバーナーを点火した。
青い炎が、黒い制服の紋章を炙る。
ガーデンの月桂冠が、熱で歪み、溶け、形を失っていく。
ヴェロニカはそれを無言で見守った。
組織のヴェロニカが死んでいく。
ただのヴェロニカが、生まれ直そうとしている。
そんな儀式にも似ていた。
老人は火を止め、黒く溶けた紋章を作業台の隅へ放った。
「勘違いするなよ、エルフの嬢ちゃん。俺がこれを買い取るのは、情けじゃねえ。リスクへの対価だ」
彼は油染みた袋に包まれた現金の束と、数日分の保存食、地味な市民服を並べる。
「ガーデンのブツを預かるってのは、自分の喉元にナイフを突きつけて寝るのと同じだ。もし連中が嗅ぎつけて来やがったら、俺はこの店ごと全部焼いて逃げる。アンタらのことも知らねえで通す」
「承知している」
「なら忘れるな。アンタらは今、行く先々で火種になる」
老人の声は低かった。
「死にたくなきゃ、さっさと着替えて消えな。アンタのその面、一度見たら忘れられねえほど上等すぎる。汚れた古着の方が、今のアンタには似合うぜ」
ヴェロニカは受け取った服のざらついた感触を確かめた。
地味で、くたびれていて、どこにでもいる誰かになるための服。
組織の制服とは違う。
誰かを威圧するためでも、命令に従うためでもない。
ただ、生き延びるための鎧だった。
「……ヴェロニカ」
ハルカが袖を引く。
「急ごう。ここ、もう危ない」
「ああ」
ヴェロニカは頷いた。
四人は店の奥で手早く着替えた。
黒いスーツは消え、かわりに灰色や茶色の古着が身を覆う。アリスの派手な髪は布で隠し、キョウカのガントレットには布と金属片を巻いて、ただの荷物のように見せた。
ハルカは、まだ少し足元がおぼつかない。
キョウカが自然に支える。
アリスは鏡代わりの割れた金属板を覗き込み、露骨に顔をしかめた。
「あはっ。最悪。私の可愛さが三割くらい下がった」
「まだ余裕あるじゃねえか」
「当然。素材がいいからね」
「自分で言うな」
キョウカが呆れる。
ヴェロニカは軽いやり取りを背に、最後にもう一度、焼かれた制服を見た。
もう戻らない。
その事実を、胸に刻む。
店を出る頃には、廃棄区画に薄い霧が降り始めていた。
狭い路地を進む。
ジジイの言った通り、長居はできない。
だが、その路地裏で、思わぬ声が四人を止めた。
「……キョウカ……ちゃん?」
震える声。
闇の中に、小柄な少女が立っていた。
灰色のローブを深く被り、両肩を小刻みに震わせている。
キョウカの顔が変わった。
「――っ、お前! 無事だったのか!」
今日初めてと言っていいほどの、純粋な喜びだった。
「ヴェロニカ、こいつだよ。前に組織の連中に追われてたところを、アタシが逃がしてやった子だ。よかった、ちゃんと生き――」
「待て」
ヴェロニカの背筋に、悪寒が走った。
「キョウカ、近寄るな」
「は? 何言って――」
「下がれッ!」
ヴェロニカはキョウカの襟を掴み、強引に後方へ引き倒した。
次の瞬間、少女のローブの中から鋭い刃が飛び出す。
刃はキョウカの頬をかすめ、背後のコンクリート壁を削った。
「……えっ?」
尻餅をついたキョウカが、呆然と少女を見上げる。
少女はナイフを握り締めたまま、大粒の涙をこぼしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、キョウカちゃん……!」
少女は狂ったように首を振る。
「でも、こうしないと、お父さんとお母さんが……あの人たちに、殺されちゃうの……っ!」
「……組織か」
ヴェロニカは即座に周囲を警戒する。
最悪の展開だった。
ベアトはキョウカがかつて助けた人間を特定し、その家族を人質に取ったのだ。
そして、その善意を刃に変えた。
「あはっ。やっぱりね」
アリスの声は冷たかった。
「甘いよ、キョウカちゃん。ガーデンが一番得意なのは、力で殴ることじゃない。人の良心を天秤にかける精神的なゲームだよ」
キョウカは何も言えない。
ただ、震える拳を握っていた。
ヴェロニカは、泣きながらナイフを向ける少女を見る。
少女は刺客ではない。
被害者だ。
使い捨ての刃にされた子供だ。
「……キョウカ」
ヴェロニカは問う。
「その子を、斬るか」
キョウカの顔が歪む。
答えはない。
言えるはずもなかった。
「私は、その子を斬りたくない」
ヴェロニカの声は静かだった。
だが、鋼のような意志がある。
かつての彼女なら、一瞬で少女を無力化していただろう。
任務の障害。
罠。
危険因子。
そう分類し、処理していたはずだ。
だが今は違う。
「私はもう、ベアト様の部品ではない」
ヴェロニカは腰のナイフに手をかけず、丸腰のまま少女へ近づいた。
「キョウカたちの未来を守るために組織を捨てた私が、その未来のために別の子供を殺すなど……そんな矛盾を許せば、私は本当に抜け殻になる」
「ヴェロニカ、何やってるの!」
アリスが低く叫ぶ。
「その子の後ろには、間違いなく伏兵がいる。今のあなたは丸腰同然だよ!」
ヴェロニカは止まらない。
「来ないで……来ないでよぉッ!」
少女が半狂乱でナイフを振る。
刃先がヴェロニカの頬を裂き、赤い筋が走った。
それでも、ヴェロニカは前へ出る。
「怖いか」
静かな声。
「家族を人質に取られ、恩人を殺せと命じられ、世界がすべて闇に塗り潰されたような心地だろう」
少女の手が震える。
ヴェロニカは、その小さな拳を、自分の血に濡れた手で包み込んだ。
「だが、絶望に負けてここで手を汚せば、お前は一生、その闇から抜け出せなくなる」
ヴェロニカは少女の目を見る。
「それは、私がよく知っている地獄だ」
「……あ、ぅ……」
「お前の家族は、私たちが助け出す」
ヴェロニカの声は揺れなかった。
「だから、これ以上、自分を汚すな」
少女の手から力が抜ける。
ナイフが湿った地面へ落ちた。
彼女はヴェロニカの胸へ顔を埋め、堰を切ったように泣き始めた。
「……チッ。甘すぎんだよ」
キョウカが立ち上がる。
頬の血を親指で拭った。
「でも、そうこなくっちゃな」
その瞳には、迷いはなかった。
「ヴェロニカ、その子の家族はアタシがなんとかする。あんたは周りに潜んでる本物のネズミどもを片付けろ」
「ああ」
ヴェロニカは頷く。
「アリス。周辺通信を遮断しろ。組織の目を潰す」
「了解」
アリスは指を弾く。
さきほどジジイから受け取った安物の妨害チップを、路地の排水溝へ蹴り込んだ。
パチパチ、と街灯が火花を散らす。
路地裏は暗闇へ沈んだ。
「あはっ。生存確率はさらに低下。でも、計算外の方が今は楽しい」
少女――リナに案内され、四人は古いビルの地下へ向かった。
湿ったコンクリートの広間。
錆びた配管が剥き出しの天井。
その中央に、二人の大人が椅子に縛られていた。
リナの両親だ。
背後には、ガーデンの制服を着崩した男が立っている。手には、精神干渉用の細いプローブ。対象の神経へ直接干渉するための、悪趣味な器具だった。
「来たか、裏切り者め」
男はねっとりと笑う。
「いや、今は野良犬のエルフと呼ぶべきかな」
アリスがヴェロニカの隣で肩をすくめる。
「あはっ。やっぱりバレてたね。わざと足音立てて入ったんだから当然だけど」
影から、さらに二人の工作員が現れた。
銃口が向けられる。
「動くな。少しでも魔力を使えば、この夫婦の脳を焼く」
男がプローブをちらつかせる。
父親は恐怖で顔を歪め、母親は声にならない悲鳴を上げていた。
ヴェロニカは両手を上げた。
瞳は冷えている。
「トレスの部下か。相変わらず、主に似て趣味が悪いな」
「……そのプローブを離せ。私たちがここに来た以上、その人質に利用価値はないはずだ」
「価値があるかないかは、僕が決めることだ。ベアト様は仰ったよ。『ヴェロニカには、絶望という名の教育が必要だ』とね」
男が薄笑いを浮かべ、プローブの出力を上げようとする。
空気に紫色のノイズが滲み始めた。
「アリス」
ヴェロニカが短く呼ぶ。
「分かってる」
アリスの指が背後で音もなく動く。
ジジイの店で受け取った古い妨害チップが、配電盤の中で短く火花を散らした。
「〇・〇〇一秒。ズレないでよ」
「十分だ」
ヴェロニカの全身から、蒼白い魔力が吹き上がった。
次の瞬間、空気が裂けた。
アリスの妨害が、プローブの制御信号を一瞬だけ乱す。
男の指が硬直する。
その一瞬を、ヴェロニカは逃さなかった。
低く踏み込み、男の手首を打つ。
プローブが弾かれる。
同時に、キョウカが横から突っ込んだ。拳が工作員の銃を粉砕し、壁へ叩きつける。
ハルカはリナの肩を抱いたまま、小さく息を吐いた。
足元の湿気が冷え、もう一人の工作員の足を床へ貼りつける。
「動かないで」
静かな声だった。
アリスは笑い、落ちたプローブを靴で踏み砕く。
「残念。安物の悪趣味玩具は廃棄処分だね」
戦闘は一瞬で終わった。
リナが飛び出す。
「お父さん! お母さんッ!」
両親の拘束を解く。
だが、解放された二人は、喜びより先に恐怖を見せた。
父親はリナの肩を掴み、自分たちの後ろへ引き込む。
母親は震えながら、ヴェロニカたちを睨んだ。
当然だった。
彼らにとって、娘を脅迫の道具にし、自分たちを恐怖へ叩き込んだのは、ガーデンに関わる者たちだ。
ヴェロニカは、その憎悪から目を逸らさなかった。
「……当然の反応だ」
ナイフを収め、深く頭を下げる。
「すまなかった。私の存在そのものが、あなたたちの平穏を壊した。どんな言葉も、受けた恐怖の償いにはならないだろう」
父親は何も言わない。
母親も、リナを抱き締めたまま震えている。
ヴェロニカは、ジジイの店で得た現金の一部と、アリスが紙片に書き出した逃走経路を差し出した。
「これを持って、北の港へ向かえ。ガーデンの影響が薄い古い集落がある。この道順なら、監視を避けられる」
父親は疑念を隠さないまま、それをひったくるように受け取った。
ヴェロニカは最後に、リナを見た。
「約束しよう。私たちは二度と、あなたたちの前に姿を現さない。二度と、あなたたちの人生に影を落とさない」
静かに告げる。
「だから、どうか生き延びてくれ」
キョウカが一歩前に出る。
「おじさん、おばさん……リナ。ごめんな。元気でな」
リナは泣きながら、何かを言おうとした。
だが、ヴェロニカは踵を返した。
「行くぞ。長居すれば、今度こそこの家族の死が確定する」
四人は地下室を後にした。
振り返らない。
振り返れば、余計な未練を残すだけだ。
リナたちが闇へ消えていくのを遠くから確認し、四人は再び廃墟地帯を歩き始めた。
重い沈黙。
最初に口を開いたのは、ヴェロニカだった。
「……キョウカ。お前の善意を利用され、お前の知り合いにまであんな思いをさせた。すべては私が――」
「ストップ」
キョウカが足を止める。
「それ以上言ったら、マジで一発殴るぞ」
ヴェロニカは言葉を止めた。
キョウカは振り返らないまま続ける。
「いいか、ヴェロニカ。アタシがここにいるのは、あんたに守られてるからじゃねえ。アタシが、アタシとハルカの意志で、あんたと一緒に行くって決めたからだ」
彼女は振り返った。
月明かりの下、不敵に笑う。
「組織が家族を人質にするなんて、今に始まったことじゃねえ。そんなクソみたいな世界だって分かった上で、アタシはあんたの手を取ったんだ。覚悟なら、あの隔離層を出た瞬間に決まってる」
「キョウカ……」
「謝る暇があるなら、次に来る猟犬をどう返り討ちにするか考えろ」
キョウカの声は強かった。
「あんたのその甘さは、アタシが嫌いな組織のやり方とは真逆だ。だから、信じてるんだよ」
ヴェロニカは言葉を失った。
騎士道でも、誇りでもない。
もっと荒々しく、泥臭い信頼。
それが、胸の奥を熱く焦がした。
「あはっ。ヴェロニカ、顔が赤いよ」
アリスが茶化す。
「生存確率は相変わらず低空飛行だけど、今ので私のやる気だけは上がったかも」
ハルカも、ヴェロニカの服の裾を小さく引いた。
「……ヴェロニカ」
「何だ」
「次は、みんなで、おいしいご飯食べよう」
小さな声。
「約束だよ」
ヴェロニカは、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷く。
「ああ。約束だ」
謝罪は、もういらない。
必要なのは、共に歩くことだ。
この地獄のような世界で、誰かを踏み台にしない道を選び続けることだ。
ヴェロニカは前を見る。
「行くぞ」
その声には、確かな力があった。
「ベアト様の庭を、跡形もなく踏み荒らす」
四人の足音が、暗い路地裏へ響く。
逃亡者たちは、もうただ逃げるだけではなかった。
誰も斬らないために。
誰も踏みにじらせないために。
ベアトの庭へ、最初の泥を踏み込ませるために。
彼女たちは、紅い夜の奥へ進んでいった。