錆びた鉄の匂いと、冷え切ったコンクリートの湿気が混じり合う廃工場。
そこは、紅蓮都市の北西に広がる廃棄区画の端にあった。かつては何かの部品を大量生産していたのだろう。広大な空間には、壊れたベルトコンベアと錆びた鉄骨、倒れた作業灯が放置され、天井の割れ目から差し込む月光だけが、床に冷たい筋を落としていた。
巨大な棺桶。
ヴェロニカは、最初にそう思った。
だが、今の彼女たちには、棺桶でさえ隠れ家になる。
「……ここなら、外部からの熱源探知も多少は誤魔化せるはずだ」
ヴェロニカは入口付近の影に立ち、外の気配を探った。
黒い組織服は、もうない。
身に着けているのは、ジジイの店で手に入れた地味な古着だ。腰のナイフも、組織の紋章を削り落とされ、布で巻かれている。武器としての性能は落ちていない。だが、かつてのような「ガーデンの猟犬」としての威圧感は消えていた。
「アリス。周辺の電波を拾えるか。追跡ドローンや監視ビーコンの反応があれば、すぐに知らせろ」
アリスは埃を被った木箱に腰を下ろし、ジジイから手に入れたジャンク受信機を膝に置いていた。
それは、かつて彼女が使っていた多機能端末とは比べものにならない代物だ。画面は傷だらけで、操作パネルの半分は反応が鈍い。だが、アリスの手にかかれば、そんなガラクタでも十分な耳になる。
「あはっ。了解。……ただ、こいつ、信号を拾うたびにノイズで泣きそうな音を出すんだけど。私の頭の方が先に壊れたら、ヴェロニカのせいだからね」
「生きているなら文句を言うな」
「生きてるから文句を言うんだよ」
アリスは軽口を叩きながら、受信機の裏蓋を開け、細い導線を指先で組み替えていく。黒い手袋も、もう万全ではない。重力制御デバイスの過負荷で一部は焼け焦げ、機能も制限されている。
それでも彼女は、いつものように笑っていた。
キョウカは工場奥の資材置き場に、ハルカを寝かせていた。古い梱包材を重ね、比較的柔らかい場所を作っている。
「……へっ。ガーデンの白いベッドに比べりゃ、こっちの方がずっとマシだな」
「……うん」
ハルカは小さく丸まり、キョウカの服の裾を握った。
「お姉ちゃんの隣なら、どこでも大丈夫」
そう言うと、すぐに瞼が落ちた。
極限状態が続いたせいで、体力は限界だったのだろう。気象操作の反動も、まだ完全には抜けていない。
キョウカは妹の寝顔を見下ろし、少しだけ表情を緩めた。
それから、ヴェロニカの方を見る。
「ヴェロニカ。あんたも少しは寝ろよ。明日はもっとひどいことになるんだろ」
「私はエルフだ。人間より睡眠時間は少なくて済む」
「便利な体だな」
「それに……今は、目を閉じるのが少し怖い」
キョウカは、それ以上からかわなかった。
「……そうかよ。なんかあったら叩き起こせ。アタシの拳は、目覚まし時計より効く」
「頼もしいな」
「褒めても何も出ねえぞ」
キョウカはハルカの隣に腰を下ろし、壁へ背を預けた。
やがて、彼女も目を閉じる。
工場内に残った音は、アリスの受信機から漏れる微かなノイズと、割れた窓の向こうを吹き抜ける風だけだった。
ヴェロニカは、冷たい壁に背を預けた。
かつて組織の歯車だった頃は、与えられた最適解をなぞるだけで良かった。標的を追い、排除し、報告する。疑問を抱いても、任務の外へ捨てればよかった。
だが今は違う。
真っ白な地図の上に、自分たちで道を描かなければならない。
ベアトの計画を止める。
都市を、あの狂った庭に変えさせない。
それは前提だ。
だが、そのためには力がいる。情報がいる。資金がいる。味方も必要だ。
そして、そのさらに奥には、ヴェロニカ自身が長い間、胸の奥に押し込めていた願いがある。
エルフの一族の再興。
散り散りになった同胞を探し出し、いつか故郷に似た場所を取り戻すこと。
あまりにも遠い。
あまりにも無謀だ。
けれど、逃げるだけだった時には見えなかった未来が、今は霧の向こうにかすかに見えている。
「……ふっ」
思わず、笑みが漏れた。
一人で死ぬつもりだった女が、今や世界の命運と一族の未来まで抱え込んでいる。
課題が多すぎる。
無謀すぎる。
だからこそ、可笑しかった。
「何笑ってるの、ヴェロニカ」
アリスが受信機から顔を上げる。
「寝ぼけたなら、今のうちに観察記録に入れておくけど」
「何でもない。ただ、これからの予定が、私の脳の容量を少し超えただけだ」
「あはっ。それは大変。じゃあ、明日の朝食を確保する分の容量だけは残しておいてよ。バカになるのは一人で十分だから」
「……誰のことだ」
「さあ?」
アリスは悪びれずに笑い、再び受信機へ視線を戻した。
ヴェロニカは、その横顔を見た。
皮肉屋で、計算高く、口が悪い。
だが、あの屋上で彼女は戻ってきた。
ヴェロニカを一人で死なせないために、自分も裏切り者になる道を選んだ。
背後ではキョウカとハルカが眠っている。
ボロボロで、無謀で、計画性も乏しい逃亡者たち。
けれど、今のヴェロニカにとっては、かつての豪華な自室よりも、この廃工場の方がずっと温かかった。
「……おやすみ、みんな」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
それからヴェロニカは、夜の闇へ鋭い視線を向けた。
その頃。
ガーデン最深部、ベアトの空中庭園には、下界の喧騒とは無縁の静寂が満ちていた。
高層塔の上層に設けられたその場所では、月桂樹に似た植物が白い床を覆い、毒々しいほど美しい花々が夜風に揺れている。都市が赤いネオンに濡れていることなど、ここだけは忘れられるようだった。
ベアトは、庭園の中央でティーカップを手にしていた。
その前に、トレスが立っている。
彼の顔には、苛立ちと焦りが浮かんでいた。
「ベアト様。本当によろしいのですか。監視網の断片ログでは、あの女たちは北西の廃棄区画へ逃げ込んだ可能性が高い。今すぐ増援を送れば――」
「いいのよ、トレス」
ベアトは優雅にカップを置いた。
「追わなくて」
「しかし!」
トレスは食い下がる。
「ヴェロニカとアリスを放置すれば、必ず力を蓄えます。キョウカとハルカも奪われたままです。このまま黙って見ていろと……?」
ベアトは、窓の外の夜景を眺めたまま微笑んだ。
「ヴェロニカとアリス。あの二人は、私が手塩にかけて育てた最高傑作よ」
声は穏やかだった。
「今の組織に、あの二人を正面から確実に制圧できる駒がどれだけいると思う? 無理な追跡は、貴重な資源を浪費するだけ」
トレスの顔が歪む。
自分がその駒に数えられていないことを、彼は理解した。
「それに」
ベアトは振り返る。
「彼女たちは不確定要素を抱えている。キョウカとハルカの共鳴。アリスの計算外の行動。ヴェロニカの、あの愚かで美しい反抗心。今、荒野で追い回すより、もっと良い方法があるわ」
「良い方法……?」
その時、トレスの足元から淡い光を放つ花が咲いた。
「あ……」
甘い香りが立ち上る。
それは心を落ち着かせるようでいて、逃げ場のない力を持っていた。トレスの呼吸が浅くなり、膝がわずかに震える。
ベアトは歩み寄り、彼の頬を母親のようにそっと撫でた。
「安心しなさい、可愛いトレス。焦る必要なんてないの」
「ベアト、様……」
「広い荒野で一匹のネズミを追い回すのは効率が悪い。けれど、向こうから私の庭へ戻ってくるのを待つのは、とても簡単で、とても楽しいことでしょう?」
ベアトの笑顔が、月光の下で深まる。
「逃げれば逃げるほど、彼女たちの絶望は熟成される。罪悪感、焦燥、怒り、希望。そうした感情は、プロジェクト・パンドラを完成させるための高純度なエネルギーになる」
彼女は指を鳴らした。
庭園の花々が一斉に赤黒く変色し、脈を打ち始める。
「だから、迎え撃つのよ。最も有利なこの場所で。彼女たちは必ず戻ってくる。世界を救うために。誰かを守るために。自分たちの自由を証明するために」
ベアトは恍惚とした声で囁いた。
「ヴェロニカ、アリス。そして、可愛いキョウカとハルカ。あなたたちが最後にどんな顔をして私の元へ帰ってくるのか、今から楽しみで仕方がないわ」
トレスは何も言えなかった。
ベアトにとって、自分さえも舞台装置の一つにすぎない。
その事実を頭のどこかで理解しながら、彼はただ、甘い香りの中で震えていた。
廃工場での潜伏生活が、数週間を過ぎた頃。
ヴェロニカたちの間には、奇妙な静けさが漂っていた。
追撃が来ない。
あまりにも来なさすぎる。
最初の数日は、誰も眠れなかった。少しの金属音にも身構え、遠くのドローン音に息を殺した。だが、何日経っても、ベアトの猟犬は現れなかった。
「……おかしい」
アリスが、ジジイの店で譲り受けた粗末な受信機を叩く。
「あはっ。私の計算だと、とっくに第二次追撃部隊と接触して、今頃は泥水を啜りながら戦ってるはずなんだけど」
「その計算が外れることもあるのだろう」
「外れ方が気持ち悪いんだよ。ベアトは、こういう時に何もしないタイプじゃない」
ヴェロニカも同意見だった。
ベアトは執拗で、完璧主義だ。
逃亡を許したまま放置するなど、あり得ない。
追ってこないなら、理由がある。
それも、こちらにとって最悪の理由が。
答えは、空から来た。
ゴ、ガガガガガガッ――!!
大地が震えた。
工場の天井から錆が降り、割れた窓が一斉に鳴る。
「何だ!? 地震かよ!」
キョウカがハルカを抱き寄せ、外へ飛び出した。
ヴェロニカとアリスも続く。
そこで彼女たちが見たのは、悪夢だった。
都市中心部。
ガーデン本部の摩天楼の頂上から、まばゆい赤黒い光が空へ伸びている。
その光は月桂冠のような輪を描き、夜空全体を染め上げていた。
「……馬鹿な」
ヴェロニカの声が震える。
「あれは、ベアト様の月桂冠か」
光に応じるように、都市の地面が割れた。
アスファルトを突き破り、赤黒い巨大な蔦が這い出してくる。蔦は意思を持つ龍のようにうねり、ビルの外壁を掴み、巻きつき、締め上げていった。
数分前まで文明の象徴だった摩天楼が、植物に飲み込まれていく。
それは単なる破壊ではない。
都市が食われていた。
コンクリートも鉄も配線も、人々の生活も、すべてがベアトの庭へ変換されている。
「あはっ……嘘でしょ」
アリスの声から笑いが消える。
「ビルが、飲み込まれてる」
ハルカは耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
「……お姉ちゃん、怖い」
「ハルカ!」
キョウカが抱きしめる。
「風が、泣いてる。みんなの心が、あの根っこに吸い込まれてる……!」
ハルカの感覚は、都市中の悲鳴を拾っていた。
恐怖。
混乱。
怒り。
助けを求める声。
それらが赤黒い根に絡め取られ、どこかへ集められていく。
「追ってこなかったんじゃない」
ヴェロニカは、変貌する都市を見上げた。
「準備をしていたんだ」
ベアトは逃げた四人を追わなかった。
追う必要がなかったのだ。
世界そのものを庭に変えれば、逃げ場などなくなる。
「リブートが始まった」
ヴェロニカの声は低い。
「ベアトは待つことすらやめた。この都市を、文字通り自分の私有地へ作り替えるつもりだ」
赤黒い蔦は、廃棄区画にも触手を伸ばし始めていた。
逃げ場はない。
どこへ逃げても、ベアトの庭が追いついてくる。
「……せっかく逃げてきたのに」
ハルカの声が震える。
「また、あそこに行くことになるなんて」
彼女の瞳には、白亜の塔が映っていた。
かつて自分たちを閉じ込め、心さえ弄ぼうとした場所。
それが今や赤黒い蔦に覆われ、都市全体を喰らう魔窟になっている。
ヴェロニカは、ハルカの肩にそっと手を置いた。
「ハルカ」
その手は、もう処刑人のものではなかった。
共に逃げ、共に泥を啜った仲間の手だった。
「怖いのは当然だ」
アリスも、震えるハルカを元気づけるように、小さな部品を指先で弾いた。火花が空中に散り、淡い幾何学模様を作る。
「あはっ。本当は今頃、もっと遠くで温かいご飯でも食べてる計算だったんだけどね。予定外もここまで来ると笑うしかない」
「ハルカ、怖がることはねえ」
キョウカは拳を鳴らした。
「今度は連れて行かれるんじゃねえ。アタシたちが、アタシたちの足で、あのクソババアの面を拝みに行ってやるんだ」
ハルカは姉を見上げた。
「……逃げるのは?」
「終わりだ」
キョウカは笑う。
「今度は、アタシたちがあいつを追い詰める番だぜ」
ヴェロニカは空を覆う蔦を見上げた。
自分の内にあるのは、かつての騎士としての誇りではない。
組織の猟犬としての忠誠でもない。
一人の女として。
共に歩く者たちを守りたいという、泥臭く、愚かで、眩しい意志だった。
「ハルカ。あそこはもう、お前を縛る檻ではない」
ヴェロニカは静かに告げる。
「私たちが、この悪夢を終わらせるための祭壇だ」
そして、ナイフを抜く。
「私が先陣を切る。お前たちは、私の背中だけを見ていればいい」
「また格好つけてる」
アリスが横から言う。
「今度は一人で死ぬつもりじゃないだろうね」
「死ぬつもりはない」
「ならいい」
アリスは笑った。
「死にそうになったら、また私が計算間違いしてあげるよ」
キョウカがハルカの手を握る。
ハルカはまだ震えていた。
それでも、小さく頷いた。
「……うん。行く」
ヴェロニカは前を向いた。
赤黒い蔦が、廃棄区画へ迫ってくる。
遠く、ガーデン本部の頂上では、月桂冠の光が不気味に輝いていた。
逃げるだけの時間は終わった。
ここからは、踏み荒らす時間だ。
「行こう」
ヴェロニカの声が、夜を裂いた。
「今度こそ、本当の自由を掴み取るために」
四人の影が動き出す。
向かう先は、絶望の根源。
世界を庭へ変えようとする傲慢な支配者が待つ、摩天楼の頂上。
崩壊し、変貌し続ける都市を背に、死にぞこないの裏切り者たちは、最後の戦いへと歩き出した。