かつて白銀に輝いていた組織の象徴、セントラル・タワー。
紅蓮都市の中心にそびえ立つその塔は、かつては冷たく、鋭く、そして完璧だった。硝子と金属で形作られた高層の城。ガーデンの権力と秩序そのものを示す、白い刃のような摩天楼。
だが今、四人の前にあるのは、そんなものではなかった。
赤黒い巨大な蔦が塔全体を締め上げ、壁面のあちこちから脈動する触手が突き出している。窓は砕け、内部から溢れた肉質の根が、まるで内臓のように外壁を這っていた。
もはや建物ではない。
都市の中心に根を張った、異形の巨塔だった。
「……あはっ。冗談でしょ」
アリスが、ジジイの店で組み直したジャンク受信機を片手に、引きつった笑みを浮かべる。
「私の知ってる構造データが、ひとつも役に立たない。エントランスも、非常階段も、エレベーターシャフトも、全部生き物みたいに書き換わってる。これ、ビルっていうより……巨大な消化器官だよ」
受信機はまともな地図を返さない。
画面にはノイズが走り、塔から放たれる強力なジャミングと、生体電位の乱れが、古い回路を悲鳴のように震わせている。
ハルカは、キョウカの袖を握りながら、青ざめた顔で塔を見上げていた。
「……気持ち悪い」
小さな声だった。
「タワー全体が、誰かの心臓みたいに動いてる。風が、変。上に行くほど、悲鳴が渦になってる……」
「ハルカ、大丈夫か」
キョウカが妹の肩を抱く。
「……大丈夫じゃない。でも、止まったら、もっと怖い」
ハルカは深く息を吸い、震えを押し込めた。
その目に、まだ恐怖はある。
だが、逃げる色はなかった。
キョウカはそれを見て、不敵に笑う。
「上等じゃねえか。中身がどう変わってようが、ぶち抜いて進むだけだ。なあ、ヴェロニカ」
ヴェロニカは返事をしなかった。
彼女は、かつて自分が何度も通った正門を見ていた。
今やそこは、巨大な裂け目だった。白銀の扉は歪み、牙のような蔦が絡みつき、奥から赤黒い光が漏れている。
ここは職場だった。
檻だった。
そして今、自分たちの手で葬るべき戦場になった。
「……待て」
ヴェロニカは一歩前へ出る。
「ここから先は、ベアト様の思考そのものに足を踏み入れるのと同じだ。物理的な障壁だけではない。精神を蝕む罠が張り巡らされていると考えろ」
彼女はジジイの店で手に入れた市民服の襟を整えた。
黒い制服はない。
組織の紋章もない。
それでも、立ち姿だけは変わらなかった。
ヴェロニカは中古の剣を抜いた。
組織の業物のような輝きはない。刃は少し曇り、柄にも古い傷がある。だが、今の彼女には、その不格好な剣の方が似合っていた。
「アリス。生体電位の乱れを読んで、通れる道を探せ。正確な地図でなくていい。行き止まりと罠だけ分かれば十分だ」
「あはっ。注文が雑。でも、今の状況だとそれが一番現実的だね」
「キョウカ。前方の蔦と肉壁は、お前の拳で砕け」
「任せろ」
「ハルカ。気流と温度を見て、精神汚染の胞子や毒性の高い霧があれば流せ。無理はするな」
「……うん。風の通り道、作る」
ヴェロニカは四人を見た。
「私は、前から来るすべての障害を斬る。誰も一人にはならない。四人で進む」
アリスが口角を上げる。
「いいね。今度は一人で格好つけないってこと?」
「そうだ」
「素直すぎて気持ち悪い」
「黙れ」
短い軽口が、四人の緊張を少しだけ解いた。
ヴェロニカは塔の裂け目を見据える。
「行くぞ。ベアト様の夢を、今ここで終わらせる」
崩壊した門をくぐり、四人は脈動する肉壁の中へ足を踏み入れた。
エントランスだった場所は、もはや原型を留めていなかった。
受付カウンターは根に飲み込まれ、床には赤黒い粘液が薄く広がっている。天井から垂れ下がる管のような蔦が、ときおり鼓動のように震え、そのたびに壁の奥から低いうめき声が響いた。
「……足元、右」
ハルカの声。
直後、床の粘液が泡立ち、細い根が刃のように伸びてきた。
キョウカが前に出る。
「おらっ!」
巨大なガントレットが床を叩き割り、根をまとめて潰した。
ヴェロニカは同時に横から伸びる蔦を切り払い、アリスは受信機に繋いだ小型基板を肉壁へ押し当てる。
「あはっ。回路っていうより神経だけど、多少は読める。左の階段は完全に塞がれてる。中央ホールを抜けて、旧警備区画を迂回するしかない」
「なら、そこを行く」
四人は固まって進む。
ヴェロニカが先頭。
キョウカが左側を守り、ハルカが背後の気流を読み、アリスが右側の壁に走る生体信号を追う。
誰も離れない。
誰も置いていかない。
そのまま旧警備区画へ差しかかった時だった。
奥の肉壁が裂けた。
そこから、数人の武装兵を従えたトレスが姿を現す。
彼女はガーデンの制服を身につけていた。
だが、その制服もすでに綺麗ではない。襟元には赤黒い蔦が這い、袖口からは細い根のようなコードが覗いている。顔には焦燥があり、それを覆い隠すように歪んだ優越感が張りついていた。
「ノコノコとやってきたな、ヴェロニカ!」
トレスの声が、脈打つエントランスに響く。
「お前はここで終わりだ。ベアト様の手を煩わせるまでもない。その傲慢なエルフの耳を削ぎ落として、今度こそ私の足元に這いつくばらせてやる!」
トレスが手を振りかざす。
随伴する強化兵たちが一斉に銃口を向け、紫色の精神汚染弾をチャージし始めた。
「……トレス」
ヴェロニカは、かつての同僚を見た。
怒りよりも先に、冷たい憐れみが胸に広がる。
「まだそんな、誰かに用意された台詞を喋っているのか」
「黙れッ! 裏切り者の分際で、私の忠誠を語るな!」
「忠誠ではない」
ヴェロニカは静かに言った。
「それは、ただの思考停止だ」
「あはっ。ヴェロニカ、今のは同意」
アリスが受信機を片手に鼻で笑う。
「トレス、あなたの脳内、さっきからベアト様のノイズでぐちゃぐちゃだよ。生存確率を計算する価値もないくらい、信号が腐ってる」
「黙れ、アリス! お前も同じだ! ベアト様の恩を忘れた裏切り者が!」
「忘れてないよ。ちゃんと覚えてる」
アリスは笑った。
「だから嫌になったんじゃん」
キョウカが拳を鳴らす。
「ヴェロニカ、こいつはアタシが一発ぶん殴って――」
「いや」
ヴェロニカはキョウカの前に立った。
「トレスは私が止める」
「でも、四人で進むんだろ」
「ああ。離れる必要はない」
ヴェロニカは剣を構える。
「お前たちは私の背後を守れ。アリスは汚染弾の制御信号を乱せ。ハルカは毒性の霧を流せ。キョウカは兵を止めろ。私は、トレスを斬る」
キョウカは数秒だけヴェロニカの横顔を見た。
それから笑う。
「いいじゃねえか。今度は一人でやるって言わねえんだな」
「学習した」
「あはっ。偉い偉い」
「褒めるな、アリス。腹が立つ」
ハルカが小さく呟く。
「……トレス、自分では来ないんだ」
その言葉に、トレスの顔が歪んだ。
「フン! お前たち、やってしまえ!」
「……ハルカ。正解だ」
ヴェロニカは、襲いかかってきた強化兵の刺突を最小限の動きで受け流す。
「トレス。貴様はいつもそうだ。自分を安全圏に置き、他者の命を消費して成果だけを欲しがる」
剣が閃く。
重装甲の腕が弾かれ、銃口が切り落とされる。
「そんな臆病な牙が、今の私に届くと思っているのか」
強化兵の一人が背後から回り込もうとした。
キョウカが踏み込む。
「邪魔だ!」
拳が盾ごと兵を吹き飛ばした。
ハルカは片手を上げ、冷たい風を通路に流す。精神汚染弾から漏れた紫の霧が、気流に押し流され、肉壁の隙間へ散っていく。
アリスは壁に手袋を押し当て、焼け残ったインターフェースで強化兵の照準補助を乱す。
「右に二体。下がって、キョウカ」
「分かってる!」
「分かってない動きだったけどね」
「うるせえ!」
四人は固まったまま、敵を押し返した。
誰か一人が突出するのではない。
ヴェロニカが切り込み、キョウカが砕き、ハルカが流れを作り、アリスが狂わせる。
かつて追う者と追われる者だった四人の動きは、不格好ながらも噛み合っていた。
「な、何をしている!」
トレスは後退しながら喚いた。
「囲め! さっさと殺せと言っているだろうが!」
だが、部下はもういない。
最後の強化兵がキョウカの拳で壁に叩きつけられ、動かなくなる。
エントランスに残ったのは、四人とトレスだけだった。
ヴェロニカは剣先を下げずに、一歩前へ出る。
「さあ、トレス。次は貴様の番だ」
「ひ、ひぃ……!」
トレスは両手のデバイスを構えた。
「来るな! 私の最高傑作、精神崩壊波で、その誇り高い精神ごとズタズタにしてやる!」
禍々しい紫の光が放たれる。
精神を直接侵す波が、空間を満たした。
ハルカが顔をしかめる。
キョウカが歯を食いしばる。
アリスが受信機を握り潰しそうなほど力を込める。
だが、ヴェロニカは一歩も引かなかった。
紫の光が彼女を包む。
トレスの顔に歓喜が浮かんだ。
しかし、光が収まった時、そこに立っていたのは、膝をついた廃人ではない。
静かに剣を構えた、エルフの女だった。
「な……なぜだ!?」
トレスがデバイスを叩く。
「最大出力だぞ! なぜ狂わない、なぜ膝をつかない!」
ヴェロニカはゆっくりと歩み寄る。
「トレス。一つ訂正させろ」
「何を……」
「貴様は今、その技を私の最高傑作と言ったな」
ヴェロニカの声は乱れない。
「それは違う。貴様の脳も、技も、その姑息な戦術も、すべてはベアト様から与えられた、あるいは模倣しただけの紛い物だ。貴様自身が生み出した価値など、この場所には一つとして存在しない」
「黙れ……!」
「本当の最高傑作という言葉はな」
ヴェロニカの脳裏に、横で不敵に笑うアリスの姿が浮かぶ。
「絶望の淵でも自分の意志で計算を止めず、自分の力で道を切り拓く者にこそ相応しい」
トレスの顔が引きつる。
「私の精神が崩れない理由を知りたいか」
ヴェロニカは剣を低く構えた。
「貴様のような空虚な女が放つ毒など、今の私には……彼女たちがくれた半分の栄養食品ほどの重みもないからだ」
「何を言っている……意味が分からない!」
「ああ、そうだろうな」
ヴェロニカの左頬の痣が、蒼く光る。
「誇り高い騎士だった私は、今や泥にまみれたバカの仲間入りだ。だが、トレス」
その姿が、ふっと消える。
「今の私は、以前の私よりもずっと強いぞ」
蒼い閃光が走った。
トレスが悲鳴を上げる間もなく、デバイスが砕け散る。
続いて、ヴェロニカの一撃がトレスを背後の肉壁へ叩きつけた。
トレスはずるりと床へ崩れ落ち、荒く息を吐いた。
彼女の瞳から、狂信的な光が薄れていく。
砕けたデバイス。
自分の腕に絡む赤黒い蔦。
脈動する塔。
それらを見て、トレスはようやく、何かに気づいたように顔を歪めた。
「……あ、あぁ……」
力ない笑いが漏れる。
「そうか。私は……最初から、ただの肥料だったのか……」
ヴェロニカは剣を引いた。
冷徹な処刑人としてではなく、かつて同じ旗の下にいた同期として。
彼女はトレスへ、静かに手を差し伸べた。
「気づいたのなら、立て、トレス。ベアト様の庭から抜け出すのは、今からでも――」
だが、トレスが震える指先を伸ばそうとした瞬間だった。
「――あ、ああああああッ!」
トレスの喉から悲鳴が迸る。
彼女の全身に、黒い蔦のような筋が浮かび上がった。精神汚染の種が、疑念という不純物に反応して暴走を始めたのだ。
「トレス!」
ヴェロニカが手を伸ばす。
しかし、背後の肉壁から無数の蔦が飛び出し、トレスの体を包み込んだ。
アリスが叫ぶ。
「下がって、ヴェロニカ!」
キョウカがヴェロニカの肩を掴み、無理やり引き戻す。
次の瞬間、トレスの体は赤黒い蔦と融合し、歪な守護獣のような姿へ変わっていった。
そこに、もう人の言葉はなかった。
かつて彼女の瞳があった場所から、皮肉なほど美しい若芽が伸び、小さな花を咲かせる。
「……最悪」
アリスが吐き捨てた。
「ベアト様、自分の部下を予備のバッテリーくらいにしか思ってなかったんだね」
ハルカは顔を背ける。
「……痛い。あの人、もう、自分の声がない」
キョウカは歯を食いしばった。
「ヴェロニカ、下がれ。そいつはもう、あんたが知ってる奴じゃねえ」
トレスだったものが、植物の触手と化した腕を振り下ろす。
ヴェロニカはそれを紙一重でかわした。
芽吹いた花が、彼女を嘲笑うように揺れている。
「……すまない、トレス」
ヴェロニカは剣を握り直す。
「いや、もうその名で呼ぶことすら、貴様への侮辱か」
怒りが胸を焼いた。
ベアトへの怒り。
人の命を、心を、疑念さえも素材に変えるその在り方への怒り。
「……ベアト様」
ヴェロニカは、低く呟いた。
長い間、その名には敬称が付いていた。
忠誠の名残。
恐怖の名残。
そして、かつて自分が信じようとしたものへの、最後の未練。
だが、目の前に転がるトレスだったものを見た瞬間、その未練は音を立てて焼き切れた。
「……そうだ。もはや、様など不要だ」
ヴェロニカの左頬の星型の痣が、蒼く燃える。
彼女は天井の奥、塔の頂上にいるであろう支配者へ向けて、怒りを叩きつけるように叫んだ。
「……ベアト!! 貴女は、人の命をどこまで弄べば気が済むというのだ!!」
その声は、脈動する肉壁を震わせた。
かつての猟犬が、初めて主の名を呼び捨てにした瞬間だった。
「ハルカ、風を! アリス、操られている信号を乱せ! キョウカ、道を開け!」
「応よ!」
キョウカが踏み込む。
拳が蔦の腕を砕き、トレスだったものの体勢を崩す。
「……ヴェロニカの道、誰にも邪魔させない」
ハルカが気流を操り、毒々しい胞子を上方へ流した。
「あはっ。神経信号、ぐちゃぐちゃだけど読めなくはない」
アリスが肉壁に残った導線を突き刺し、ベアトの制御信号へノイズを流す。
「三秒だけ止める。ヴェロニカ、外したら笑うよ」
「笑うな」
ヴェロニカは踏み込んだ。
仲間たちが作った、わずかな隙。
それを逃すはずがない。
「トレス」
蒼い魔力が剣に宿る。
「これが、お前にできる唯一の、そして最後の救いだ」
剣が、トレスだったものの胸部を貫いた。
かつて心臓があった場所。
そこに根を張っていた赤黒い核が、蒼い光に焼かれて崩れていく。
若芽が震え、花が黒く萎れた。
守護獣は大きく揺れ、それから力を失って崩れ落ちる。
エントランスに、静寂が戻った。
ヴェロニカはしばらく、倒れたそれを見下ろしていた。
救えなかった命。
それでも、部品のまま終わらせることだけはしなかった。
彼女は剣を引き抜き、血と樹液を払う。
崩れ落ちたトレスの背後で、上層へ続く螺旋階段が、まるで誘うように脈動を強めていた。
アリスが壊れかけた受信機を叩きながら、苦い顔をする。
「上に行けってことみたいだね。親切な案内にしては趣味が悪すぎるけど」
キョウカが拳を鳴らす。
「行くしかねえだろ。あのクソババア、絶対にぶん殴る」
ハルカは少しだけ不安そうにヴェロニカを見た。
「……ヴェロニカ。大丈夫?」
「大丈夫ではない」
ヴェロニカは正直に答えた。
「だが、進める」
彼女は階段を見上げた。
その先にいるのは、神を気取る女。
自分たちを庭の部品として扱い、都市を根で締め上げ、人の心を燃料にしようとする支配者。
「行くぞ」
ヴェロニカは一度も振り返らず、階段へ足をかけた。
「頂上で、ベアトを止める」
守るべき仲間。
断つべき過去。
そして、この狂った庭の主。
四人の行進は、ついにベアトが待ち受ける最上階へと近づいていった。