螺旋階段は、生き物の喉のように脈打っていた。
赤黒い肉壁に囲まれた階段を、四人は駆け上がる。足元の段はかつての白い石材を残していたが、その隙間には植物の根がびっしりと入り込み、踏むたびに湿った音を立てた。
先頭はヴェロニカ。
彼女の背後にキョウカとハルカ。
最後尾を、アリスが受信機と壊れかけの基板を抱えながら追っている。
誰も離れない。
誰も置いていかない。
四人は、ひとつの塊のように階段を駆け抜けた。
「上、来るよ」
ハルカの小さな声。
直後、天井の裂け目から毒々しい胞子が降り注いだ。
「ハルカ、流せ!」
「……うん」
ハルカが片手を振る。
冷たい風が階段を駆け上がり、胞子の群れを外壁の裂け目へ押し流した。
「道を開ける!」
キョウカが前へ出る。
突き当たりの大扉は、もはや扉ではなく、分厚い根と金属板が絡み合った肉の蓋だった。キョウカの巨大なガントレットが唸りを上げる。
「おらあああッ!!」
超高密度化した拳が叩き込まれた瞬間、扉は内側から破裂するように砕けた。
視界が開ける。
その先に広がっていたのは、かつての洗練された空中庭園ではなかった。
都市中から吸い上げた生命力と精神エネルギーで肥大化した、悍ましくも美しい真の庭園。
床は白い石ではなく、脈動する根と肉質の蔦に覆われている。巨大な花々が天井の代わりに空を塞ぎ、その花弁の隙間から赤黒い月光が滲んでいた。中央には、巨大な蕾のような玉座。
そこに、ベアトが座っていた。
葉の冠。
毒々しく美しい蝶の翅。
そして、慈愛を装った微笑み。
「あら」
ベアトは首を傾げた。
「あんなに可愛がってあげたのに。もう『ベアト様』とは呼んでくれないのですか、ヴェロニカ?」
ヴェロニカは答える前に、一歩前へ出た。
その手には、中古の剣。
ジジイの店で得た、何の格式もない剣だ。
だが、今の彼女には、それで十分だった。
「貴女をそう呼ぶべき私は、あの日、アリスと共に死んだ」
ヴェロニカの声は低い。
「今の私は、貴女の庭を荒らしに来た害獣だ」
左頬の星型の痣が、蒼く燃える。
「ベアト。ここで終わらせる」
ベアトの微笑みが、ほんの少しだけ歪んだ。
「……そう。残念だわ」
指が鳴る。
庭園中の花々が、一斉に開いた。
黄金色の鱗粉が、空間を埋め尽くす。
「っ、吸わないで!」
アリスが叫ぶ。
「これ、ただの毒じゃない。ナノマシンと有機素子の混合。体に入ったら神経信号を乗っ取られる!」
彼女はジャンク基板を肉壁へ叩きつけ、黒手袋の残存インターフェースを無理やり接続した。即席の反発フィールドが四人の周囲に展開される。
だが、鱗粉の密度が高すぎる。
防壁がじりじり削られていく。
「長く持たないよ、ヴェロニカ!」
「十分だ」
ヴェロニカは即座に判断する。
「ハルカ、風の通り道を作れ。キョウカ、蔦を砕け。アリス、再生周期を読め」
「応よ!」
「……分かった」
「あはっ。無茶振りにも慣れてきたね」
キョウカが拳を振るう。
赤黒い蔦が砕け散る。
だが、砕いた先からまた生える。まるで庭そのものが怒っているかのように、蔦は何度でも四人へ襲いかかった。
ハルカが両手を広げる。
「……汚い空気、こっちに来ないで」
彼女の周囲で空気が回転し、毒鱗粉を外へ押し流す。細い風の回廊が生まれた。
ヴェロニカは、その風に乗って駆ける。
眼前に迫る十数本の蔦を、一閃。
さらに次の蔦を、もう一閃。
剣筋に乗った蒼い魔力が鱗粉を切り裂き、ベアトへの最短距離を切り開いていく。
「無駄よ、ヴェロニカ」
ベアトは玉座から立ち上がりもせず、穏やかに笑う。
「この庭は私そのもの。貴女たちがどれほど足掻こうと、最後には私の根の一部になる運命なの」
背後から、大蛇のような巨大な蔦が振り下ろされた。
ヴェロニカは跳ぶ。
だが、次の蔦が退路を塞ぐ。
「ヴェロニカ、右!」
ハルカの声に合わせ、ヴェロニカは体をひねった。
蔦が肩をかすめる。
その瞬間、キョウカが横から飛び込んだ。
「邪魔してんじゃねえッ!!」
拳が蔦を粉砕する。
肉片のように砕けた蔦が庭園の床へ散った。
「ベアト!」
ヴェロニカは叫ぶ。
「絶望なら、もう組織で十分に味わった。今の私たちが持っているのは、貴女には決して計算できない……未来への執着だ!」
「未来?」
ベアトの笑みが深くなる。
「なら見せてちょうだい。その美しい言葉が、どれほど高い熱量を持つのか」
庭園の床が膨れ上がった。
巨大な肉厚の蔦が、幾重にもベアトの前へ重なる。
鉄壁の防御。
だが、四人は止まらない。
「――ぶち抜く!」
キョウカが先陣を切った。
両拳を構え、全身の力を一点へ集める。拳が超高密度化し、空気が重く軋んだ。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ! この拳でぶっ壊してやるッ!!」
轟音。
鉄より硬い蔦の防壁に亀裂が走る。
さらに二撃目。
三撃目。
防壁が砕けた。
その瞬間、ハルカが空へ手を伸ばす。
「……吹き荒れて」
庭園全体に、嵐が生まれた。
毒鱗粉が巻き上がり、花々の視界を奪う。ベアトが作り上げた死の霧が、強制的に上空へ押し流されていった。
「アリス!」
「もう入ってる!」
アリスは肉壁へ突き刺した導線を握り締めていた。
彼女の黒手袋から火花が散る。
「月桂冠のエネルギーライン、見つけた。都市全域から吸い上げた精神波を、この庭の心臓に流してる。……気持ち悪いくらい綺麗な設計だね」
アリスは笑う。
だが、その笑みは冷たい。
「だから、壊し方も分かる」
指が跳ねた。
塔全体が一瞬、激しく震える。
ベアトの背後で脈動していた巨大な心臓状の花が、火花のような光を散らした。
「な……!?」
初めて、ベアトの顔に驚愕が走る。
「私の庭が、停止する……?」
「一瞬だけだよ!」
アリスが叫ぶ。
「ヴェロニカ、今!」
「分かっている!」
ヴェロニカの背から、蒼黒い魔力が噴き上がった。
それは翼のように広がり、彼女の体を流星のごとく加速させる。
騎士ではない。
処刑人でもない。
自分の意志で牙を剥く、一人の復讐者。
「ベアト! 貴女の時間は、ここで止まる!」
翼が空を裂く。
剣が一文字に走った。
ベアトの胸元が深く裂け、赤い花弁のように血が散った。
「が、ぁ……ッ!」
ベアトが初めて膝をつく。
四人はその場に立った。
ヴェロニカ、アリス、キョウカ、ハルカ。
誰も欠けていない。
「……見たか、ベアト」
ヴェロニカは剣を構える。
「これが、貴女が馬鹿にした、私たちの絆だ」
「……っ」
ベアトの肩が震えた。
次の瞬間、彼女は笑った。
「……ハッ」
それは、これまでの慈愛をまとった微笑みではない。
怒りと屈辱に塗れた、剥き出しの嘲笑だった。
「やってくれたわね、この出来損ないのエルフが……!」
ベアトは胸の傷を押さえながら、ゆっくり立ち上がる。
仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
「よくも……よくも私の皮膚に触れたわね。このゴミ溜めのネズミどもがッ! どいつもこいつも、私の庭を彩る肥やしの分際で、調子に乗るんじゃないわよ!」
「へっ」
キョウカが吐き捨てる。
「本性出しやがったな、クソババア」
「黙りなさい、失敗作」
ベアトは自らの傷口へ、周囲の蔦を突き刺した。
蔦が彼女の肉体へ入り込み、繊維のように絡み合う。都市から吸い上げた生命力が一点に集まり、傷を塞ぎ、身体を変質させていく。
ベアトの背に、巨大な蔦の翼が広がった。
人の形を残したまま、森の女王のような異形へと変わっていく。
「痛いわ……痛い。けれど、足りないわね」
ベアトは笑う。
「ヴェロニカ、貴女の絶望も。アリスの恐怖も。キョウカの怒りも、ハルカの怯えも。全部、私が飲み込んであげる」
「あはっ。最悪」
アリスの声に、いつもの軽さはない。
「自己再生に形態変化。しかも都市からの供給が切れてない。生存確率、また地面にめり込んだよ」
「……お姉ちゃん、気をつけて」
ハルカは風を維持しながら、一歩後ろへ下がった。
「さっきより、ずっと悪意が濃い。世界を全部、自分の中に入れようとしてる」
ヴェロニカは折れかけた剣を構え直す。
「口の悪さこそが、貴女の真実というわけか」
「まだ余裕ぶるの?」
「違う」
ヴェロニカはベアトを見る。
「今の方が斬りやすいと思っただけだ」
ベアトの表情が歪む。
「本当に救いようのない馬鹿ね、ヴェロニカ」
蔦と融合したベアトが、裂けた口で嘲笑った。
「貴女、本当に自分の意志でガーデンに来たと思っているの?」
ヴェロニカの瞳がわずかに動く。
「……何を言っている」
「滅びゆく一族を再興するための資金と力。そんな甘い幻想を、誰に吹き込まれたと思っているのかしら」
空気が凍った。
ベアトの声は甘く、残酷だった。
「貴女の一族を絶滅の淵に追い込んだのは、他の誰でもない。私よ」
ヴェロニカの剣先が、わずかに震える。
「私が貴女たちの里に枯死病を撒き、逃げ場を失った貴女に救いの手を差し伸べた。資金も、復興の約束も、すべては最高傑作を私の庭へ閉じ込めるための餌」
ベアトは笑った。
「貴女は、一族を滅ぼした仇のために、今日まで忠実に牙を研ぎ続けてきたのよ」
「…………」
音が消えた。
ヴェロニカの胸の奥で、何かが崩れ落ちる。
地獄のような任務を耐えた理由。
血に塗れた手を正当化するための希望。
一族を再興するという、唯一の灯火。
それが、最初からベアトの撒いた毒だった。
「あはっ……そんなデタラメを……」
アリスが叫ぶ。
「記録には、そんな――」
「記録なんていくらでも書き換えられるわ」
ベアトはアリスを一瞥した。
「貴女ならよく分かるでしょう? ねえ、アリス」
「……っ」
「ヴェロニカ」
ハルカが悲鳴に近い声を上げる。
「聞いちゃダメ。あの人の言葉、毒が混ざってる」
だが、ヴェロニカは動かない。
ベアトの黒い蔦が、音もなく彼女の喉元へ迫る。
「ヴェロニカ!」
キョウカが踏み出そうとした瞬間。
「……は」
ヴェロニカが笑った。
乾いた笑い。
だが、それは壊れた者の声ではなかった。
「はは……はははははッ!」
ベアトの蔦が止まる。
「何を笑っているのよ、この壊れかけの欠陥品が!」
「感謝するよ、ベアト」
ヴェロニカは顔を上げた。
瞳には、先ほどまでを遥かに上回る光が宿っていた。
「貴女という女の底の浅さを、最後に教えてくれてな」
「何ですって……?」
「私は、自分でも気づかないうちに、貴女に情を抱いていたのかもしれない」
ヴェロニカは剣を握り直す。
「どれほど冷酷でも、行き場のない私を拾い、力を与えてくれた恩人だと。そのわずかな迷いが、私の剣を鈍らせていた」
背後の蒼黒い翼が、怒りではなく静かな決意で燃え上がる。
「だが、今の言葉で確信した。貴女は救う価値も、敬う価値もない。ただの、吐き気を催す邪悪だ」
ベアトの顔から、余裕が消える。
「強がるんじゃないわよ! 全てを失った貴女に、何ができるというの!」
「失った?」
ヴェロニカは首を振る。
「違うな」
彼女は一歩踏み出す。
「私は今、ようやく手に入れたんだ。貴女を微塵の躊躇もなく斬れる、本当の自由を」
「ヴェロニカ……!」
キョウカが息を呑む。
「あはっ……生存確率、計測不能」
アリスは笑った。
「数値が振り切れすぎて、もう笑うしかないね」
「……風が、笑ってる」
ハルカの瞳にも、光が戻る。
「ヴェロニカの風、今までで一番綺麗」
「行くぞ、ベアト!」
ヴェロニカの声が、庭園を震わせた。
「これが、貴女が蹂躙したすべての命の、最後の一撃だ!」
「来ないで……来ないでよッ!」
ベアトが叫ぶ。
「この出来損ないがぁ!!」
第一の壁。
鋼鉄の蔦。
数十本の蔦が絡み合い、鉄より硬い防壁となってヴェロニカの前に立ち塞がる。
「断てッ!」
ヴェロニカの剣が蒼く閃く。
防壁が両断された。
第二の壁。
腐食の茨。
触れるものを溶かす液体を滴らせ、毒の檻が展開される。
「邪魔だよッ!!」
キョウカが横から飛び込み、拳の衝撃で茨の根元を粉砕した。毒液が飛び散る前に、ハルカの風がそれを上空へ押し流す。
ヴェロニカは止まらない。
第三の壁。
精神汚染の肉壁。
タワー中から吸い上げた人々の恐怖と怨念が、肉質の壁となって迫る。視界を埋め尽くす絶望の幻。
「ハルカ!」
「……うん。悲鳴は、私が全部、遠くへ飛ばす」
清浄な旋風が、汚染された意識を裂く。
肉壁に穴が開く。
第四の壁。
偽りの楽園。
ベアトの魔力が空間を歪め、距離と方向を塗り替える。ヴェロニカの目の前に、存在しない庭が幾重にも重なった。
「あはっ。その座標、もう読んだ」
アリスが肉壁へ突き立てた導線を引き抜き、即席基板を叩き割る。
「現実に戻れッ!」
歪んだ空間が、ガラスのように砕け散った。
視界が開ける。
その先に、剥き出しのベアトがいた。
「あり得ない……」
ベアトが後退する。
「私が作った完璧な防御を、どうして……!」
「言ったはずだ」
ヴェロニカは空中で蒼黒い翼を大きく広げた。
「これは、貴女が蹂躙した命すべての重みだ」
剣先に、四人の意志が収束する。
ヴェロニカの怒り。
アリスの計算。
キョウカの拳。
ハルカの風。
すべてが、一撃へ集まる。
「これで最後だ、ベアト!!」
蒼白い閃光が爆ぜた。
ヴェロニカの剣が、ベアトの身体を貫く。
同時に、庭園全体を満たしていた赤黒い脈動が、大きく揺らいだ。
「認めない……!」
ベアトは崩れながら、憎悪に満ちた目でヴェロニカを見る。
「こんな結末、認めないわ! 私は、私は神になるはずだったのよ!」
蔦が砂のように崩れる。
毒の鱗粉が光の粒子へ変わっていく。
「ヴェロニカ……アリス……覚えておきなさい……私の庭は、いつか必ず……」
「終わりだ」
ヴェロニカの声が、その呪詛を断ち切った。
「貴女の庭に、もう誰も根を下ろさない」
ベアトの体が、光の中で崩れていく。
最後に残ったのは、女王でも神でもない。
ただ、自分以外の命を部品としてしか見られなかった、一人の支配者の空虚な表情だった。
そして、それも消えた。
空中庭園の脈動が止まる。
都市を締め上げていた巨大な蔦が、力を失って崩れ落ちていく。
長い沈黙が訪れた。
「……終わったな」
ヴェロニカは、折れかけた剣を静かに下ろした。
アリスがその場へ座り込む。
「あはっ……ターゲット消滅、確認。生存確率、計測不能から……ひとまず生存、に再計算」
「曖昧だな」
「今の私は現実主義者なんだよ」
キョウカが空へ拳を突き上げた。
「やった……やったんだよな! アタシたち、あのクソババアに勝ったんだよなッ!」
ハルカは目を閉じる。
風が、静かに吹いていた。
「……うん。風が、笑ってる。みんな、自由になったんだよ」
崩壊していく空中庭園の向こう側。
雲の間から、朝焼けの光が差し込んだ。
紅蓮都市を縛っていた赤黒い蔦は、枯れ、灰となり、瓦礫の上へ降り積もっていく。
だが、その灰の下には、まだ街がある。
人がいる。
自由になった、傷だらけの世界がある。
ヴェロニカは朝日を見つめた。
一族は戻らない。
失ったものは、二度と戻らない。
それでも、隣には仲間がいる。
ここから先は、誰かに与えられた未来ではない。
自分たちで拾い集め、作っていく未来だ。
「行くぞ」
ヴェロニカは振り返る。
「地獄は終わった。……次は、生きる番だ」
四人は、崩れゆく庭園を後にした。