紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode14 瓦礫に芽吹くもの

 ベアトの死と共に、紅蓮都市を締め上げていた巨大な蔦は急速に力を失っていった。

 

 摩天楼に絡みついていた赤黒い根が、乾いた音を立ててひび割れる。高架道路を支えていた肉厚の蔦は灰となって崩れ、ビルの壁面を覆っていた触手も、枯れた植物のように力なく垂れ下がった。

 

 だが、それは救いだけでは終わらなかった。

 

 ベアトの根に支えられていたビルは、自重に耐えきれず次々と崩落した。高架は軋み、橋は折れ、道路は大きく沈む。かつてネオンと機械音に満ちていた街は、一夜にして、静まり返った無秩序な瓦礫の海へと姿を変えた。

 

 それでも、空は明るくなり始めていた。

 

 東の地平線に、朝焼けが滲む。

 

 赤黒い月桂冠の光ではない。

 

 ただの朝日だった。

 

「……あはっ」

 

 瓦礫の山の上で、アリスが乾いた笑い声を漏らす。

 

「ひとまず生き延びたのはいいけど、生活の質は地面を突き抜けてるね。これ、どこから片付ければいいの?」

 

 彼女の手元には、ジジイの店で手に入れた壊れかけの受信機がある。画面は半分割れ、もうまともに信号も拾わない。かつて都市中のネットワークを手袋一つで操っていた天才は、今や瓦礫の上でガラクタを叩いている。

 

 それでも、アリスは笑っていた。

 

 キョウカは崩れた壁に腰掛け、ボロボロになったガントレットを眺めている。

 

「いいじゃねえか。誰にも指図されねえ、アタシたちの街だ」

 

 そして、ヴェロニカへ視線を向けた。

 

「な、ヴェロニカ」

 

「……ああ」

 

 ヴェロニカは街を見渡した。

 

 美しくはない。

 

 秩序もない。

 

 配給も命令も、決められた帰還場所もない。

 

 だが、偽りもなかった。

 

「ここが、私たちの新しい家になるのかもしれないな」

 

 かつて彼女が守っていた秩序は、冷たく整えられた檻だった。

 

 一族を再興するという夢も、ベアトが仕組んだ幻だった。

 

 けれど、そのすべてが壊れた瓦礫の下には、奪われたままでいた人々の意思が、まだ確かに息づいている。

 

「……ヴェロニカ」

 

 ハルカが、瓦礫の隙間を指差した。

 

「……あそこ。新しい風が吹いてる」

 

 その先に、小さな芽があった。

 

 ベアトが植えた人喰い花ではない。

 

 毒を吐く花でも、人を縛る蔦でもない。

 

 名前も分からない、ただの雑草だった。

 

 コンクリートの割れ目から、細く、弱々しく、それでも確かに伸びている。

 

 ヴェロニカはその芽を見つめた。

 

「……行くぞ」

 

 静かに言う。

 

「私たちは、生き延びるためにここへ来た。だが、次は誰かを生かす番だ」

 

 アリスが肩をすくめる。

 

「あはっ。壮大な話になってきたね。まずは水と寝床と食料の確保からだけど」

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「……おそらく」

 

「不安すぎる」

 

 キョウカが吹き出し、ハルカも少しだけ笑った。

 

 その笑い声は小さかったが、瓦礫の街には不思議なほどよく響いた。

 

 数時間後。

 

 かつてのメインストリートだった場所に、即席の休憩場所が作られていた。

 

 倒れた看板を風除けにし、崩れたコンクリートを椅子代わりに並べる。キョウカが大きな瓦礫をどかし、ハルカが湿った空気を流して粉塵を散らす。アリスは壊れた街灯から使える部品を抜き取り、簡易ランプを組み直していた。

 

 ヴェロニカは、周辺の負傷者を安全な場所へ誘導していた。

 

 その前に、一人の女性が姿を現した。

 

 泥と埃に汚れた制服。

 

 肩に担いだ斧。

 

 かつてガーデンの同期として任務をこなし、戦場で何度も背中を預けた女。

 

 フランだった。

 

「……ヴェロニカ」

 

 フランは数メートル先で立ち止まった。

 

 冷徹だった瞳には、今は深い疲労と迷いが滲んでいる。

 

 彼女は何かを耐えるように拳を握り、深く頭を下げた。

 

「すまなかった。本当に、すまないことをした」

 

 声は震えていた。

 

 ガーデンの崩壊を目の当たりにし、自分が信じていた正義や、ヴェロニカを裏切り者として追い詰めようとした日々が、虚構の上に成り立っていたことを知ったのだろう。

 

 ヴェロニカはしばらく黙っていた。

 

 そして、静かに言う。

 

「顔を上げろ、フラン。貴様に謝られる筋合いはない」

 

「だが、私は……」

 

「貴様は組織の駒として、命じられた義務を遂行した。かつての私と同じようにな」

 

 ヴェロニカは瓦礫の街を見渡す。

 

「謝罪が必要なのは、私でも貴様でもない。この街で、私たちの傲慢な庭造りの犠牲になった者たちだ」

 

「それでも……!」

 

 フランは顔を上げた。

 

「私は、ベアトが何をしているのか、薄々気づいていた。だが、目を逸らした。お前が一人で真実を背負って戦っている間、私は……」

 

「もういい、フラン」

 

 ヴェロニカは遮った。

 

 声に険しさはない。

 

「過去を悔やんで立ち止まっている時間は、今のこの街にはない」

 

 彼女は、フランへ手を差し伸べた。

 

「見ての通り、ここは瓦礫の山だ。だが、もう主はいない。誰に命じられることもなく、自分の意志で動ける」

 

 フランは、その手を見つめる。

 

「償いたいと思うなら、斧を人へ向けるな。その手と力を使って瓦礫をどかし、明日を生きようとする者を助けろ」

 

 ヴェロニカは続ける。

 

「それが、生き残った私たちにできることだ」

 

「……ヴェロニカ」

 

 フランは潤んだ瞳でその手を見つめ、やがて力強く握り返した。

 

「分かった。私は……私の意志で、この街をやり直す」

 

 その手を握り返したまま、ヴェロニカはふっと視線を落とした。

 

「……フラン。私の方こそ、謝らなければならない」

 

「え?」

 

「私は、自分の意志を貫くために、組織を……お前たちの居場所を壊した。ベアトを倒すという理由があったとはいえ、その結果、お前たちを寄る辺ない自由へ放り出した」

 

 ヴェロニカの声は静かだった。

 

 ガーデンは呪縛だった。

 

 だが同時に、一族を失ったヴェロニカが唯一所属していた場所でもあった。

 

 それは、フランにとっても、他の兵士にとっても同じだったはずだ。

 

「戦う術しか教えられなかった私たちが、今日から、主も家もなく、ただ一人の人間として生きていかなければならない。その過酷さを強いたのは、私だ。すまなかった」

 

 フランは言葉を失った。

 

 そこへ、アリスがひょこりと顔を出す。

 

「あはっ。ヴェロニカ、そんな殊勝なこと言っちゃって」

 

「茶化すな」

 

「茶化してないよ。計算に入れておいてって話」

 

 アリスはフランを見る。

 

「組織っていう檻がなくなった分、これからは自分のために使える時間が増えたんだよ。それは謝ることじゃなくて、本来ならおめでとうって言うべきことなんじゃない?」

 

 ハルカも、フランの汚れた袖をそっと撫でた。

 

「……フラン。風が、もう誰にも縛られてないって言ってる。どこへだって行けるよ」

 

「へっ、そうだぜ」

 

 キョウカが豪快に笑い、フランの背中を叩く。

 

「アタシら自由人の先輩として、いろいろ教えてやるよ。まずは、その湿っぽい顔を洗うところからだな!」

 

 フランは目元を拭った。

 

 それから、今度はしっかりとヴェロニカを見る。

 

「自由になるのが、こんなに心細くて……こんなに清々しいものだなんて、知らなかった」

 

 小さく笑う。

 

「ありがとう、ヴェロニカ」

 

 かつての同期たちは、互いの罪と傷を認め合い、対等な仲間として新しい一歩を踏み出した。

 

 その少し後。

 

 瓦礫の影から、二つの視線がこちらを窺っていた。

 

 ライツとルーゼ。

 

 かつて姉妹の捕縛作戦に従事し、キョウカの剛腕とハルカの気象操作に翻弄されたエージェントたちだった。

 

 ライツは、光を操る異能者だ。

 

 かつては眩い閃光で敵の視界を奪い、追跡対象を照らし出す役を担っていた。

 

 ルーゼは、影とワイヤーを組み合わせる捕縛術を得意としている。暗がりに身を潜め、影の中から特殊ワイヤーを伸ばして対象を縛るのが彼女の戦い方だった。

 

 二人は瓦礫の片隅で、崩壊した街を呆然と見つめていた。

 

「……おい、どうするんだよ、ルーゼ」

 

 ライツが力なく呟く。

 

「俺たちは、あの姉妹を捕まえるために訓練されてきたんだぞ。なのに、肝心の命令を出す奴がもういない」

 

「分からないわよ」

 

 ルーゼの声は弱い。

 

「警戒しろって言われたから隠れているけれど……ヴェロニカもアリスもあっち側にいるのよ。私たちが今さら何をしたって、無意味じゃない」

 

 組織という羅針盤を失った彼らは、広い瓦礫の海で遭難した小舟のようだった。

 

「そこにいるのは、ライツとルーゼか」

 

 ヴェロニカの声が届く。

 

 二人はびくりと肩を揺らした。

 

「げっ、見つかった」

 

「殺されるのかしら、私たち」

 

 しかし、最初に近づいたのはキョウカだった。

 

「おい、いつまでそこでコソコソしてんだ」

 

 キョウカは腰に手を当て、呆れた顔をする。

 

「もう仕事は終わりだ。アタシらを追いかけ回す必要もねえし、捕まえる理由もねえんだよ」

 

「……キョウカ、お前……」

 

 ライツは困惑する。

 

 ハルカが一歩前へ出た。

 

「……ライツ、ルーゼ。風が、もうあなたたちを敵だって言ってない」

 

 少し考えてから、付け加える。

 

「お腹、空いてない? 少しだけ、食べ物あるよ」

 

 それは武装した元エージェントに向ける言葉としては、あまりにも無防備だった。

 

 だが、だからこそ二人の胸に刺さった。

 

 ヴェロニカも、静かに言う。

 

「ライツ。お前の光は、人を追い詰めるためだけにあるのではない。夜の瓦礫の中で、怪我人の居場所を照らすこともできる」

 

 ライツは目を伏せた。

 

「ルーゼ。お前のワイヤーも、人を縛るためだけではない。崩れた梁を吊り上げ、瓦礫の下から人を助け出すこともできる」

 

 ルーゼは、自分の手の中のワイヤーを見つめる。

 

 兵器としてしか扱われなかった力。

 

 それに、別の使い道がある。

 

「……チッ」

 

 ライツが照れ隠しのように吐き捨てた。

 

「腹が減ってるのは確かだ。手伝えばいいんだろ、手伝えば」

 

 ルーゼも、小さく頷く。

 

「私のワイヤー、重い荷物を引き上げるにはちょうどいいかもしれないわね」

 

 キョウカが笑う。

 

「そうこなくっちゃな」

 

 かつて敵だった者たちが、少しずつ一つの群れへ変わっていく。

 

 命令のない場所で。

 

 けれど、自分たちの意志で動く場所で。

 

 新しい街の芽が、瓦礫の中に少しずつ顔を出し始めていた。

 

 夜。

 

 瓦礫の街に、いくつもの小さな火が灯った。

 

 壊れたドラム缶を囲んで、人々が身を寄せ合っている。フランが斧で大きな木材を割り、ライツが周囲を柔らかい光で照らす。ルーゼはワイヤーで傾いた屋根を仮固定し、キョウカは大きな瓦礫を運び、ハルカは風で粉塵を払っていた。

 

 アリスは、壊れた配電盤の前で、拾い集めた部品を組み合わせている。

 

「……あはっ。世界を救った翌日にやることが、配線の仮復旧っていうのもなかなか地味だね」

 

「地味な仕事ほど重要だ」

 

 ヴェロニカが言う。

 

「分かってるよ、リーダー」

 

 アリスはわざとらしく肩をすくめた。

 

 それから、ヴェロニカの姿が見えないことに気づき、少し周囲を見回した。

 

 ヴェロニカは、高く積み上がったコンクリートの塊の頂に立っていた。

 

 一人、冬の星座が瞬く夜空を見上げている。

 

 冷たい夜風が、金色の髪を揺らす。

 

 すべてを失い、すべてを壊した後に訪れた静寂は、あまりにも澄んでいた。

 

「……ふっ。柄にもないな」

 

 自嘲気味に呟いた時、背後から軽快な足音がした。

 

「あはっ。何してるの、ヴェロニカ。そんな場所で一人黄昏れて」

 

 振り返ると、アリスが瓦礫を器用に登ってきていた。

 

 腰に手を当て、不敵に笑っている。

 

「格好つけてるつもり?」

 

「否定はしない」

 

「否定しないんだ」

 

 アリスは隣に並び、同じ空を見上げた。

 

「仮の居住区の割り当てと、配線の最低限の復旧は終わったよ。まあ、まともな都市機能には程遠いけど、今夜を越すくらいならどうにかなる」

 

「そうか。助かる」

 

「もっと褒めていいよ」

 

「よくやった、アリス」

 

「……素直すぎると怖いんだけど」

 

 ヴェロニカは小さく笑った。

 

 それから、夜空へ視線を戻す。

 

「アリス。礼を言わせてくれ」

 

「え?」

 

 唐突な言葉に、アリスが瞬きをする。

 

「貴女がいなければ、私は今頃、あの閉ざされた庭で誇りも魂も枯らし、ただの抜け殻として死んでいた」

 

 ヴェロニカの声は静かだった。

 

「貴女が私を現実に引き戻し、共に戦ってくれたから、私は今日、この風を浴びることができている」

 

 アリスは一瞬、言葉に詰まった。

 

 それから、照れ隠しのように顔を背ける。

 

「あはっ。今さら何を」

 

 少しだけ耳が赤い。

 

「私の生存確率を引き上げたのは、ヴェロニカのその馬鹿正直な剣だよ。お礼なんて、計算外」

 

「そうか」

 

「そうだよ」

 

 二人はしばらく、並んで夜空を見上げた。

 

 ヴェロニカは、自分の手を見る。

 

 数多の命を奪ってきた手。

 

 仲間を守った手。

 

 瓦礫をどかし、誰かを起こし、これから街を作る手。

 

「一族は、もう戻ってこない」

 

 ヴェロニカは言った。

 

「彼らを再興するという私の夢は、ベアトという虚像が見せた幻だった」

 

 その声に、悲壮感はなかった。

 

 ただ、事実を受け入れる強さがあった。

 

「ガーデンも無くなった。戻る場所も、守る規則も、明日を保証する給与もない」

 

 夜風が吹く。

 

「だが、不思議と心は軽い」

 

 アリスは、何も言わずに聞いていた。

 

「未来は、誰かに与えられるものではない。この瓦礫の中から、自分たちの手で一つずつ拾い集め、作っていくものなんだな」

 

「ええ、その通り」

 

 アリスが頷く。

 

「もっとも、私の緻密な設計図と、ヴェロニカの無鉄砲な実行力があれば、ベアトの庭よりずっとマシな場所は作れるよ」

 

「保証は?」

 

「しない」

 

「だろうな」

 

「でも、成功率は悪くない」

 

 ヴェロニカは、わずかに笑う。

 

「ああ。期待しているよ、相棒」

 

 アリスは少しだけ目を丸くした。

 

 それから、いつものように不敵に笑った。

 

「あはっ。任せて、相棒」

 

 遠くで、火を囲むキョウカとハルカの声が聞こえた。

 

 フランが笑い、ライツが文句を言い、ルーゼが呆れたように返す声も混じる。

 

 かつての敵も、味方も。

 

 猟犬も、脱走者も、エージェントも。

 

 今はただ、明日を生きる人間として、この瓦礫の街で同じ夜を越えようとしていた。

 

 ヴェロニカはもう一度、深く夜の空気を吸い込んだ。

 

 夜明けは、すぐそこまで来ている。

 

 彼女は瓦礫を降りる。

 

 今度は一人ではなく、アリスと並んで。

 

 その先には、まだ何もない。

 

 だからこそ、何でも作れる。

 

 紅蓮都市の長い夜は、ようやく終わりを迎えようとしていた。

 

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