ベアトの死と共に、紅蓮都市を締め上げていた巨大な蔦は急速に力を失っていった。
摩天楼に絡みついていた赤黒い根が、乾いた音を立ててひび割れる。高架道路を支えていた肉厚の蔦は灰となって崩れ、ビルの壁面を覆っていた触手も、枯れた植物のように力なく垂れ下がった。
だが、それは救いだけでは終わらなかった。
ベアトの根に支えられていたビルは、自重に耐えきれず次々と崩落した。高架は軋み、橋は折れ、道路は大きく沈む。かつてネオンと機械音に満ちていた街は、一夜にして、静まり返った無秩序な瓦礫の海へと姿を変えた。
それでも、空は明るくなり始めていた。
東の地平線に、朝焼けが滲む。
赤黒い月桂冠の光ではない。
ただの朝日だった。
「……あはっ」
瓦礫の山の上で、アリスが乾いた笑い声を漏らす。
「ひとまず生き延びたのはいいけど、生活の質は地面を突き抜けてるね。これ、どこから片付ければいいの?」
彼女の手元には、ジジイの店で手に入れた壊れかけの受信機がある。画面は半分割れ、もうまともに信号も拾わない。かつて都市中のネットワークを手袋一つで操っていた天才は、今や瓦礫の上でガラクタを叩いている。
それでも、アリスは笑っていた。
キョウカは崩れた壁に腰掛け、ボロボロになったガントレットを眺めている。
「いいじゃねえか。誰にも指図されねえ、アタシたちの街だ」
そして、ヴェロニカへ視線を向けた。
「な、ヴェロニカ」
「……ああ」
ヴェロニカは街を見渡した。
美しくはない。
秩序もない。
配給も命令も、決められた帰還場所もない。
だが、偽りもなかった。
「ここが、私たちの新しい家になるのかもしれないな」
かつて彼女が守っていた秩序は、冷たく整えられた檻だった。
一族を再興するという夢も、ベアトが仕組んだ幻だった。
けれど、そのすべてが壊れた瓦礫の下には、奪われたままでいた人々の意思が、まだ確かに息づいている。
「……ヴェロニカ」
ハルカが、瓦礫の隙間を指差した。
「……あそこ。新しい風が吹いてる」
その先に、小さな芽があった。
ベアトが植えた人喰い花ではない。
毒を吐く花でも、人を縛る蔦でもない。
名前も分からない、ただの雑草だった。
コンクリートの割れ目から、細く、弱々しく、それでも確かに伸びている。
ヴェロニカはその芽を見つめた。
「……行くぞ」
静かに言う。
「私たちは、生き延びるためにここへ来た。だが、次は誰かを生かす番だ」
アリスが肩をすくめる。
「あはっ。壮大な話になってきたね。まずは水と寝床と食料の確保からだけど」
「分かっている」
「本当に?」
「……おそらく」
「不安すぎる」
キョウカが吹き出し、ハルカも少しだけ笑った。
その笑い声は小さかったが、瓦礫の街には不思議なほどよく響いた。
数時間後。
かつてのメインストリートだった場所に、即席の休憩場所が作られていた。
倒れた看板を風除けにし、崩れたコンクリートを椅子代わりに並べる。キョウカが大きな瓦礫をどかし、ハルカが湿った空気を流して粉塵を散らす。アリスは壊れた街灯から使える部品を抜き取り、簡易ランプを組み直していた。
ヴェロニカは、周辺の負傷者を安全な場所へ誘導していた。
その前に、一人の女性が姿を現した。
泥と埃に汚れた制服。
肩に担いだ斧。
かつてガーデンの同期として任務をこなし、戦場で何度も背中を預けた女。
フランだった。
「……ヴェロニカ」
フランは数メートル先で立ち止まった。
冷徹だった瞳には、今は深い疲労と迷いが滲んでいる。
彼女は何かを耐えるように拳を握り、深く頭を下げた。
「すまなかった。本当に、すまないことをした」
声は震えていた。
ガーデンの崩壊を目の当たりにし、自分が信じていた正義や、ヴェロニカを裏切り者として追い詰めようとした日々が、虚構の上に成り立っていたことを知ったのだろう。
ヴェロニカはしばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「顔を上げろ、フラン。貴様に謝られる筋合いはない」
「だが、私は……」
「貴様は組織の駒として、命じられた義務を遂行した。かつての私と同じようにな」
ヴェロニカは瓦礫の街を見渡す。
「謝罪が必要なのは、私でも貴様でもない。この街で、私たちの傲慢な庭造りの犠牲になった者たちだ」
「それでも……!」
フランは顔を上げた。
「私は、ベアトが何をしているのか、薄々気づいていた。だが、目を逸らした。お前が一人で真実を背負って戦っている間、私は……」
「もういい、フラン」
ヴェロニカは遮った。
声に険しさはない。
「過去を悔やんで立ち止まっている時間は、今のこの街にはない」
彼女は、フランへ手を差し伸べた。
「見ての通り、ここは瓦礫の山だ。だが、もう主はいない。誰に命じられることもなく、自分の意志で動ける」
フランは、その手を見つめる。
「償いたいと思うなら、斧を人へ向けるな。その手と力を使って瓦礫をどかし、明日を生きようとする者を助けろ」
ヴェロニカは続ける。
「それが、生き残った私たちにできることだ」
「……ヴェロニカ」
フランは潤んだ瞳でその手を見つめ、やがて力強く握り返した。
「分かった。私は……私の意志で、この街をやり直す」
その手を握り返したまま、ヴェロニカはふっと視線を落とした。
「……フラン。私の方こそ、謝らなければならない」
「え?」
「私は、自分の意志を貫くために、組織を……お前たちの居場所を壊した。ベアトを倒すという理由があったとはいえ、その結果、お前たちを寄る辺ない自由へ放り出した」
ヴェロニカの声は静かだった。
ガーデンは呪縛だった。
だが同時に、一族を失ったヴェロニカが唯一所属していた場所でもあった。
それは、フランにとっても、他の兵士にとっても同じだったはずだ。
「戦う術しか教えられなかった私たちが、今日から、主も家もなく、ただ一人の人間として生きていかなければならない。その過酷さを強いたのは、私だ。すまなかった」
フランは言葉を失った。
そこへ、アリスがひょこりと顔を出す。
「あはっ。ヴェロニカ、そんな殊勝なこと言っちゃって」
「茶化すな」
「茶化してないよ。計算に入れておいてって話」
アリスはフランを見る。
「組織っていう檻がなくなった分、これからは自分のために使える時間が増えたんだよ。それは謝ることじゃなくて、本来ならおめでとうって言うべきことなんじゃない?」
ハルカも、フランの汚れた袖をそっと撫でた。
「……フラン。風が、もう誰にも縛られてないって言ってる。どこへだって行けるよ」
「へっ、そうだぜ」
キョウカが豪快に笑い、フランの背中を叩く。
「アタシら自由人の先輩として、いろいろ教えてやるよ。まずは、その湿っぽい顔を洗うところからだな!」
フランは目元を拭った。
それから、今度はしっかりとヴェロニカを見る。
「自由になるのが、こんなに心細くて……こんなに清々しいものだなんて、知らなかった」
小さく笑う。
「ありがとう、ヴェロニカ」
かつての同期たちは、互いの罪と傷を認め合い、対等な仲間として新しい一歩を踏み出した。
その少し後。
瓦礫の影から、二つの視線がこちらを窺っていた。
ライツとルーゼ。
かつて姉妹の捕縛作戦に従事し、キョウカの剛腕とハルカの気象操作に翻弄されたエージェントたちだった。
ライツは、光を操る異能者だ。
かつては眩い閃光で敵の視界を奪い、追跡対象を照らし出す役を担っていた。
ルーゼは、影とワイヤーを組み合わせる捕縛術を得意としている。暗がりに身を潜め、影の中から特殊ワイヤーを伸ばして対象を縛るのが彼女の戦い方だった。
二人は瓦礫の片隅で、崩壊した街を呆然と見つめていた。
「……おい、どうするんだよ、ルーゼ」
ライツが力なく呟く。
「俺たちは、あの姉妹を捕まえるために訓練されてきたんだぞ。なのに、肝心の命令を出す奴がもういない」
「分からないわよ」
ルーゼの声は弱い。
「警戒しろって言われたから隠れているけれど……ヴェロニカもアリスもあっち側にいるのよ。私たちが今さら何をしたって、無意味じゃない」
組織という羅針盤を失った彼らは、広い瓦礫の海で遭難した小舟のようだった。
「そこにいるのは、ライツとルーゼか」
ヴェロニカの声が届く。
二人はびくりと肩を揺らした。
「げっ、見つかった」
「殺されるのかしら、私たち」
しかし、最初に近づいたのはキョウカだった。
「おい、いつまでそこでコソコソしてんだ」
キョウカは腰に手を当て、呆れた顔をする。
「もう仕事は終わりだ。アタシらを追いかけ回す必要もねえし、捕まえる理由もねえんだよ」
「……キョウカ、お前……」
ライツは困惑する。
ハルカが一歩前へ出た。
「……ライツ、ルーゼ。風が、もうあなたたちを敵だって言ってない」
少し考えてから、付け加える。
「お腹、空いてない? 少しだけ、食べ物あるよ」
それは武装した元エージェントに向ける言葉としては、あまりにも無防備だった。
だが、だからこそ二人の胸に刺さった。
ヴェロニカも、静かに言う。
「ライツ。お前の光は、人を追い詰めるためだけにあるのではない。夜の瓦礫の中で、怪我人の居場所を照らすこともできる」
ライツは目を伏せた。
「ルーゼ。お前のワイヤーも、人を縛るためだけではない。崩れた梁を吊り上げ、瓦礫の下から人を助け出すこともできる」
ルーゼは、自分の手の中のワイヤーを見つめる。
兵器としてしか扱われなかった力。
それに、別の使い道がある。
「……チッ」
ライツが照れ隠しのように吐き捨てた。
「腹が減ってるのは確かだ。手伝えばいいんだろ、手伝えば」
ルーゼも、小さく頷く。
「私のワイヤー、重い荷物を引き上げるにはちょうどいいかもしれないわね」
キョウカが笑う。
「そうこなくっちゃな」
かつて敵だった者たちが、少しずつ一つの群れへ変わっていく。
命令のない場所で。
けれど、自分たちの意志で動く場所で。
新しい街の芽が、瓦礫の中に少しずつ顔を出し始めていた。
夜。
瓦礫の街に、いくつもの小さな火が灯った。
壊れたドラム缶を囲んで、人々が身を寄せ合っている。フランが斧で大きな木材を割り、ライツが周囲を柔らかい光で照らす。ルーゼはワイヤーで傾いた屋根を仮固定し、キョウカは大きな瓦礫を運び、ハルカは風で粉塵を払っていた。
アリスは、壊れた配電盤の前で、拾い集めた部品を組み合わせている。
「……あはっ。世界を救った翌日にやることが、配線の仮復旧っていうのもなかなか地味だね」
「地味な仕事ほど重要だ」
ヴェロニカが言う。
「分かってるよ、リーダー」
アリスはわざとらしく肩をすくめた。
それから、ヴェロニカの姿が見えないことに気づき、少し周囲を見回した。
ヴェロニカは、高く積み上がったコンクリートの塊の頂に立っていた。
一人、冬の星座が瞬く夜空を見上げている。
冷たい夜風が、金色の髪を揺らす。
すべてを失い、すべてを壊した後に訪れた静寂は、あまりにも澄んでいた。
「……ふっ。柄にもないな」
自嘲気味に呟いた時、背後から軽快な足音がした。
「あはっ。何してるの、ヴェロニカ。そんな場所で一人黄昏れて」
振り返ると、アリスが瓦礫を器用に登ってきていた。
腰に手を当て、不敵に笑っている。
「格好つけてるつもり?」
「否定はしない」
「否定しないんだ」
アリスは隣に並び、同じ空を見上げた。
「仮の居住区の割り当てと、配線の最低限の復旧は終わったよ。まあ、まともな都市機能には程遠いけど、今夜を越すくらいならどうにかなる」
「そうか。助かる」
「もっと褒めていいよ」
「よくやった、アリス」
「……素直すぎると怖いんだけど」
ヴェロニカは小さく笑った。
それから、夜空へ視線を戻す。
「アリス。礼を言わせてくれ」
「え?」
唐突な言葉に、アリスが瞬きをする。
「貴女がいなければ、私は今頃、あの閉ざされた庭で誇りも魂も枯らし、ただの抜け殻として死んでいた」
ヴェロニカの声は静かだった。
「貴女が私を現実に引き戻し、共に戦ってくれたから、私は今日、この風を浴びることができている」
アリスは一瞬、言葉に詰まった。
それから、照れ隠しのように顔を背ける。
「あはっ。今さら何を」
少しだけ耳が赤い。
「私の生存確率を引き上げたのは、ヴェロニカのその馬鹿正直な剣だよ。お礼なんて、計算外」
「そうか」
「そうだよ」
二人はしばらく、並んで夜空を見上げた。
ヴェロニカは、自分の手を見る。
数多の命を奪ってきた手。
仲間を守った手。
瓦礫をどかし、誰かを起こし、これから街を作る手。
「一族は、もう戻ってこない」
ヴェロニカは言った。
「彼らを再興するという私の夢は、ベアトという虚像が見せた幻だった」
その声に、悲壮感はなかった。
ただ、事実を受け入れる強さがあった。
「ガーデンも無くなった。戻る場所も、守る規則も、明日を保証する給与もない」
夜風が吹く。
「だが、不思議と心は軽い」
アリスは、何も言わずに聞いていた。
「未来は、誰かに与えられるものではない。この瓦礫の中から、自分たちの手で一つずつ拾い集め、作っていくものなんだな」
「ええ、その通り」
アリスが頷く。
「もっとも、私の緻密な設計図と、ヴェロニカの無鉄砲な実行力があれば、ベアトの庭よりずっとマシな場所は作れるよ」
「保証は?」
「しない」
「だろうな」
「でも、成功率は悪くない」
ヴェロニカは、わずかに笑う。
「ああ。期待しているよ、相棒」
アリスは少しだけ目を丸くした。
それから、いつものように不敵に笑った。
「あはっ。任せて、相棒」
遠くで、火を囲むキョウカとハルカの声が聞こえた。
フランが笑い、ライツが文句を言い、ルーゼが呆れたように返す声も混じる。
かつての敵も、味方も。
猟犬も、脱走者も、エージェントも。
今はただ、明日を生きる人間として、この瓦礫の街で同じ夜を越えようとしていた。
ヴェロニカはもう一度、深く夜の空気を吸い込んだ。
夜明けは、すぐそこまで来ている。
彼女は瓦礫を降りる。
今度は一人ではなく、アリスと並んで。
その先には、まだ何もない。
だからこそ、何でも作れる。
紅蓮都市の長い夜は、ようやく終わりを迎えようとしていた。