ガーデンが崩壊してから、数ヶ月が過ぎた。
かつて白銀の摩天楼が支配していた紅蓮都市は、今もまだ瓦礫の街だった。
空を裂くようにそびえていた高層ビル群は折れ、道路はひび割れ、高架はところどころで途切れている。ベアトの巨大な蔦が灰となって消えた後、都市は支えを失い、あちこちが崩落した。
だが、その廃墟にはもう、死んだような沈黙だけがあるわけではなかった。
朝になると、人々の声が響く。
瓦礫をどかす音。
鉄骨を切る音。
簡易発電機の唸り。
仮設の炊き出し場から立ち上る湯気。
誰かが誰かの名を呼び、返事がある。
まだ街とは呼べない。
だが、街になろうとしていた。
「オラァ! どいたどいた! これで道が通るぜ!」
メインストリートを塞いでいた巨大なコンクリート塊の前で、キョウカが拳を振り上げる。
巨大なガントレットが鈍く唸った。
彼女の拳が一瞬だけ異能で超高密度化し、空気が重く軋む。
次の瞬間、拳が叩き込まれた。
轟音。
重機でも動かせなかった塊に亀裂が走り、内部から砕けるように崩れていく。周囲にいた作業員たちが歓声を上げた。
「よし、細かい破片は後で運べ! 通路だけ先に確保しろ!」
キョウカは肩で息をしながらも、満足げに笑う。
「へっ。こういう使い方なら、アタシの拳も悪くねえな」
その横で、舞い上がった粉塵が不自然なほど滑らかに流れていった。
「……埃、あっちに飛ばすね」
ハルカが両手を軽く広げている。
彼女の周囲で風が生まれ、作業員たちの顔にかかる粉塵を遠くへ運んでいく。乾いた瓦礫の匂いを含んだ空気は、彼女の作る清浄な流れに押し出され、代わりに少し冷たく澄んだ風が現場を満たした。
「……みんな、息苦しくないように」
かつて敵を閉じ込め、凍らせ、雷を呼んだ彼女の気象操作は、今や街の肺になっていた。
別の区画では、フランが斧を振るっていた。
巨大な戦斧が、半壊したビルの鉄骨を正確に断ち切る。乱暴な破壊ではない。崩落方向を読み、支柱の荷重を見極め、危険な箇所だけを切り離す。
「三番支柱を落とす。全員、距離を取れ」
フランの声に、作業員たちが一斉に退く。
斧が閃く。
鉄骨が切断され、半壊していた壁が予定通りの方向へ崩れた。
誰も巻き込まれない。
誰の家もこれ以上潰さない。
かつて敵を斬るために振るわれていた力は、今や街を安全に解体するための外科手術になっていた。
ライツは、地下水道の入り口で光を放っている。
彼の異能は強烈な発光だ。
かつては逃亡者の視界を奪い、隠れ場所を暴くために使われた光。今は、電力が届かない地下の修復現場を照らす灯台だった。
「足元、段差がある。右側は崩れてるぞ」
ライツの光が、暗い地下道の奥まで伸びる。
作業員の一人が安堵したように息を吐いた。
「助かった。真っ暗だったら落ちてたな」
「礼はいい。俺は照らしてるだけだ」
ライツはそっぽを向く。
だが、その光は少しだけ柔らかくなった。
ルーゼは、崩れた倉庫の隙間に特殊ワイヤーを伸ばしていた。
影に紛れるように細いワイヤーを滑り込ませ、奥に取り残された物資の箱へ絡める。彼女の得意とする捕縛術は、狭い瓦礫の隙間から必要なものを引き出すのに向いていた。
「引くわよ。ゆっくり、合わせて」
数人がロープを引く。
ルーゼのワイヤーが内部の支点を利用し、箱を崩落させずに外へ引き出した。
中身は、まだ使える医療キットだった。
「……こういう使い方も、あるのね」
ルーゼは自分の手元を見つめ、少しだけ不思議そうに呟いた。
その光景を、少し離れた場所からヴェロニカが見ていた。
彼女は古びた市民服の上から、簡易の防護ベストを身につけている。腰にはジジイの店で買った中古の剣。かつてのガーデンの制服も、紋章もない。
それでも、彼女が立つだけで現場の空気は引き締まった。
「フラン、東地区の解体は昼までに一度止めろ。支柱の熱が上がりすぎている」
「ああ、分かった」
「ライツ、夜勤班の交代時刻を早める。地下は酸素が薄い。長時間入れるな」
「了解した」
「ルーゼ、医療キットを仮設診療所へ。破損がないか確認してから渡せ」
「ええ」
指示は短く、的確だった。
かつて冷徹な処刑人として恐れられた統率力は、今やばらばらだった生存者たちを繋ぎ止めるために使われている。
その横で、アリスの声が仮設テントの奥から飛んできた。
「あはっ。ヴェロニカ、外の指揮もいいけど、こっちの心臓部もそろそろ構ってよ」
ヴェロニカはテントの中へ入る。
そこには、廃材を組み合わせて作られたサーバーラックが並んでいた。綺麗な設備ではない。古い基板、焼け残った光ファイバー、拾い集めたバッテリー、手作りの冷却ファン。
そのすべてを、アリスが半ば力技で繋ぎ合わせている。
彼女の黒手袋は以前ほど万能ではない。組織の端末も、多機能デバイスも、もうない。
だが、アリスは瓦礫の中から部品を拾い、自分の手で街の神経を作り直していた。
「北ブロックの光ファイバー、三十二箇所断線。だけど、旧地下鉄の通信線がまだ生きてる。そこを迂回すれば、仮設診療所と配給所、居住区の三点は繋げられる」
アリスは基板に指を走らせながら続ける。
「情報が流れれば、人が迷わなくなる。人が迷わなければ、無駄な喧嘩も減る。今の街には、食料と水と同じくらい、情報が必要なんだよ」
「……一歩ずつだな」
ヴェロニカは、テントの外に広がる街を見た。
ベアトの庭のような完璧な美しさはない。
だが、ここには命令ではなく、自分の意志で汗を流す者たちがいる。
壊れた都市の中に、確かに鼓動が戻り始めていた。
「ヴェロニカ」
アリスが顔を上げる。
「西の空虚地帯、まだ通信が戻らない。昨日から、こっちの仮設網に妙なノイズが混ざってる。自然発生にしては、ちょっと綺麗すぎるノイズ」
「ベアトの残滓か」
「可能性はある。もしくは、まだ誰かが地下で信号を出してる」
ヴェロニカは頷いた。
「見に行く。キョウカとハルカは現場から外せない。フランたちも復旧作業中だ。今回は私と貴女で行こう」
「あはっ。二人きりの散歩にしては、場所が荒れすぎだけどね」
「油断するな」
「してないよ。油断できるほど平和じゃないし」
西の空虚地帯。
そう呼ばれる場所は、都市の中でも特に崩壊が激しい区画だった。
ベアトの根が最も深く地中へ食い込んでいた場所であり、彼女の死後、支えを失った建物が連鎖的に崩れた。今は広大な瓦礫の平原のようになっている。
風が吹くたび、粉塵が薄く舞った。
遠くで、傾いたビルが軋む。
ヴェロニカは剣の柄に手を添え、慎重に進んだ。
アリスは肩掛けのジャンク端末を覗き込みながら歩く。組織の機器ではない。自分で組んだ不格好な端末だ。
「ノイズ、近い」
「どの方向だ」
「左前方。崩れかけたビルの影。……でも変だな」
「何がだ」
「信号みたいで、信号じゃない。心拍みたいで、心拍じゃない。まるで街そのものが、小さく寝言を言ってるみたい」
ヴェロニカの眉が動く。
その時だった。
崩れかけたビルの影から、少女が現れた。
足音はなかった。
ふらり、とそこに立っていた。
ボロボロの白いワンピース。
砂埃で汚れた細い手足。
だが、その顔には完璧な笑顔が張り付いていた。
あまりにも綺麗で、あまりにも不自然な笑顔。
アリスが即座に一歩下がる。
「あはっ……ちょっと待って、ヴェロニカ」
端末の表示を確認し、彼女の声から笑いが薄れる。
「生体反応は正常。脈も呼吸もある。だけど、感情の揺れが見えない。恐怖も驚きも好奇心も、ほとんどゼロ」
少女は二人を見る。
笑顔のまま、口を開いた。
「私は、ルナ」
声には高低がなかった。
まるで録音された音声を、正確に再生しているようだった。
「あなたは?」
ヴェロニカは、剣から手を離さず、それでも膝を少し折って視線を合わせた。
「私はヴェロニカだ」
「ヴェロニカ」
ルナは名前を繰り返す。
音の形を確かめるように。
「ルナ。こんな危険な場所で一人で何をしていた。親や保護者はどうした」
「おや……?」
ルナはこてんと首を傾げる。
「分からない。ルナは、ここにいた。それだけ」
「どこから来たかは覚えているか。ガーデンの関係者か、それとも外から迷い込んだのか」
「ガーデン」
ルナは笑顔のまま、少しだけ瞬きをした。
「きれいな名前。でも、分からない。ルナは、ルナ。それ以外は、何もないみたい」
ヴェロニカは眉をひそめる。
この街の惨状を見ても。
自分たちが武器を持っていても。
ルナの表情は一ミリも揺らがなかった。
「空腹はあるか」
「空腹」
「腹が減っているか、という意味だ」
「分からない」
「どこか痛むところは」
「痛む」
ルナは自分の胸に手を当てた。
「ごめんなさい。それも、よく分からないの。でも、心はとても静か」
そして、ヴェロニカをまっすぐ見た。
「ねえ、あなたは笑わないの? 笑っていると、とても楽なのに」
その瞳には、生気があるようでなかった。
好奇心も恐怖もない。
ただ、笑顔という形だけがそこにある。
アリスが低く呟く。
「笑えないね」
彼女は端末の表示を見ながら、さらに言う。
「脳波は外部刺激に反応してる。でも、感情が動いた結果として表情が出てるんじゃない。刺激に対して、笑顔って出力だけが自動で返ってる感じ。まるで感情の蛇口を、根元から持っていかれたみたい」
ヴェロニカはルナの手首にそっと触れた。
脈は安定している。
だが、肌は冷たかった。
死体の冷たさではない。
もっと別の、都市の地下水のような冷たさ。
「ルナ」
ヴェロニカは静かに言う。
「貴女をここに置いていくわけにはいかない。私たちの拠点に来るか。温かい食事と、屋根のある場所がある」
「拠点」
ルナは繰り返す。
「行く。ルナ、分からないことを探しに行きたいの」
笑顔のまま、彼女はヴェロニカの手を握り返した。
「いいかな?」
ヴェロニカは、冷たい手を見下ろす。
感情を持たず。
過去も持たず。
ただ完璧な笑顔だけを貼り付けた少女。
警戒すべき相手なのか。
保護すべき迷子なのか。
それすらまだ分からない。
「……何を考えているのか、さっぱり掴めないな」
ヴェロニカはため息をつく。
「ただの迷子なのか、何かの罠なのかすら判断がつかん」
「あはっ。いいじゃん」
アリスはルナの周りをゆっくり歩きながら、端末で記録を取り続ける。
「効率最優先で生きてきた私たちにとって、この意味不明ってやつは最高に面白い変数だよ」
「面白がるな」
「面白いものは面白いんだから仕方ない」
アリスはルナの顔を覗き込む。
「ルナちゃん。君、案外この街の誰よりも完成されてるのかもね」
「完成」
ルナは笑顔のまま言った。
「ふふ。おもしろい」
その声に抑揚はない。
けれど、その言葉が瓦礫の間に落ちた瞬間、アリスの端末が小さく震えた。
ノイズが走る。
ほんの一瞬。
仮設網に繋がった街の信号が、ルナの声に反応したかのように揺れた。
ヴェロニカはそれを見逃さなかった。
「アリス」
「うん。今の、見た」
アリスの笑みが、少しだけ深くなる。
「この子、ただの迷子じゃないかもしれない」
ルナは二人を交互に見た。
完璧な笑顔のまま、言う。
「行こう、ヴェロニカ。アリス」
まるで最初から、その名前を知っていたかのように。
ヴェロニカはルナの手を引き、崩れたビルの影を後にした。
瓦礫の街に戻り始めた情報の鼓動。
その中心に、得体の知れない小さな心臓が現れたことを、まだ誰も知らなかった。