拠点のキャンプに戻る頃には、空は深い藍色に沈みかけていた。
瓦礫の街の中心に作られた広場には、いくつもの焚き火が灯っている。壊れたドラム缶を囲み、復興作業を終えた者たちが、粗末なスープを分け合っていた。どこかでフランが斧の手入れをしている音が聞こえ、遠くではライツの光が仮設の通路を照らしている。
そんな広場の片隅で、キョウカは煤だらけのガントレットを外していた。ハルカはその隣で、小さな鍋を見守りながら、風で火加減を整えている。
「おかえり、ヴェロニカ」
キョウカが顔を上げる。
そして、すぐに眉をひそめた。
「……って、おい。なんだそのガキ。新しい迷い人か?」
ヴェロニカの後ろには、白いワンピースの少女が立っていた。
砂埃に汚れた姿。
けれど、その顔には完璧な笑顔が張り付いている。
ルナ。
ヴェロニカが西の空虚地帯で見つけた、過去も感情も持たないように見える少女。
ハルカも鍋から視線を上げ、静かにルナを見つめた。
その瞬間、彼女の表情がわずかに強張る。
「……ヴェロニカ。その子……」
「何か分かるか」
「風が、届かない」
ハルカは小さく首を振った。
「すぐ隣にいるのに、とても遠くにいるみたい。声は聞こえるのに、心の奥が空っぽの部屋みたい」
ルナは、二人の視線を受けても笑顔を崩さなかった。
ただ一歩、焚き火の方へ進む。
「私は、ルナ」
抑揚のない声。
「あなたたちは、あたたかいね」
そう言って、ルナはキョウカの腕にそっと触れた。
「なっ……!」
キョウカが反射的に肩を跳ねさせる。
「いきなりなんだよ、お前。っていうか、なんだその顔。そんなに笑ってて疲れねえのか?」
「つかれる……?」
ルナは首を傾げる。
「分からない。でも、こうしているのが正しいって、誰かが言ってた気がするの」
「誰かって誰だよ」
「分からない」
「……わけわかんねえな」
キョウカは乱暴に頭を掻いた。
けれど、その声に敵意はない。
ただ、扱い方が分からないものを前にした困惑だけがあった。
「おい、ハルカ。とりあえずそいつにスープでも飲ませてやれ。空っぽの腹に温かいもの入れりゃ、少しはまともな顔になるだろ」
「……うん」
ハルカは鍋から小さな器にスープを注いだ。
「お姉ちゃんの激辛調味料は入れてないから、大丈夫。座って、ルナ」
「座る」
ルナは言われた通り、焚き火のそばへ腰を下ろした。
ヴェロニカは少し離れた場所に立ち、彼女を観察していた。
一族を失い、戦い続けてきた騎士。
思考の檻から逃げ出した天才。
異能の呪縛から解放された姉妹。
その四人の輪の中に、何も持たない笑顔の少女が加わろうとしている。
それが救いなのか。
新たな災いなのか。
まだ分からない。
「ヴェロニカ」
アリスが横へ並んだ。
彼女の肩には、手製の端末が下がっている。西の空虚地帯から戻る道中も、ルナの周辺に発生する微弱な情報波を記録し続けていた。
「あの子、見れば見るほど変だよ。体は普通の人間。少なくとも、今のところ生体反応に不自然な欠損はない。でも感情の波だけがない」
「作られた存在か」
「可能性はある。もしくは、何かを抜かれた存在か」
アリスは焚き火のそばのルナを見た。
「ただの迷子ではないね」
「だとしても、放り出すわけにはいかん」
「分かってる。だから怖いんだよ」
ルナは、ハルカから受け取ったスープをじっと見つめていた。
湯気が彼女の顔を撫でる。
笑顔は変わらない。
「……これは、あたたかい?」
「うん。熱いから、ゆっくり飲んで」
「ゆっくり」
ルナは言われた通り、器に口をつける。
一口。
それから、彼女はふと、自分の手を見た。
何かを思い出したように、両手の指を組み合わせる。
小さなハートの形。
「……きれいな、かたち」
ルナが呟いた。
そして、その手を地面へ向ける。
――ドクン。
地面の底から、音がした。
ヴェロニカは即座に剣へ手をかけた。
キョウカも立ち上がる。
「なんだ、今の……!」
――ドクン。
二度目の拍動。
それは地震ではない。
もっと深いところで、止まっていた何かが目を覚ました音だった。
次の瞬間、拠点周辺の街灯が一斉に瞬いた。
チカ、チカ、と頼りなく明滅した後、温かいオレンジ色の光が広場を包む。
人々が驚きの声を上げた。
さらに、数ヶ月間沈黙していた配水ポンプが、低い唸りを上げて動き出す。
乾いていたパイプの奥で水が走る音がした。
「な……っ!?」
アリスが手製端末を開いた。
画面に、異常なログが流れる。
「都市のメイングリッドが、外部電力なしで部分起動してる。あり得ない。旧ガーデン系統の深層プロトコルまで勝手に開いてる……!」
彼女はルナを見る。
「しかも、エネルギーラインの再構成パターンが……ハート型?」
地図上で、拠点周辺の電力と水道と通信の微弱な線が、ルナを中心に奇妙な形で繋がっていく。
それは、正確な設計図ではない。
効率的なネットワークでもない。
けれど、まるで生き物の血管のように、必要な場所へ少しずつ流れが戻っていく。
「ルナ」
ヴェロニカは鋭く問いかける。
「今のは、貴女がやったのか」
ルナは自分の指を見つめていた。
「ルナ、分からない」
いつもの笑顔。
「でも、こうすると……街が、うれしいって言ってるみたい」
彼女は顔を上げる。
「ねえ、ヴェロニカ。街も、笑いたいんだよ」
ハルカが目を見開いた。
「……風が、止まったんじゃない」
「ハルカ?」
「街全体が、一つになって息をし始めた」
彼女には見えているのだろう。
ルナの作った小さな形を起点に、目に見えないエネルギーの流れが、瓦礫の街へ広がっていく様子が。
キョウカは明るくなった広場を見回し、呆れ半分、感心半分に笑った。
「へっ。わけわかんねえ力だけど、おかげで今夜は暗闇でスープ啜らなくて済みそうだな」
「笑い事ではない」
ヴェロニカの声は硬かった。
「この力は強すぎる」
「あはっ。同感」
アリスは端末を睨みつける。
「私が数週間かけて繋ぎ直そうとしてたラインを、指の形ひとつで叩き起こした。便利すぎる力は、だいたい裏に面倒な代償がある」
ルナは二人の言葉を聞いても、表情を変えない。
「便利」
そう繰り返すだけだった。
その夜から、ルナは正式に拠点で保護されることになった。
ヴェロニカの判断だった。
「ルナ。しばらく私たちの側を離れるな」
「側」
「一人で動くなという意味だ。危険が多い」
「分かった」
ルナは頷く。
「ルナ、ヴェロニカの側にいる」
アリスは、ルナから放たれる情報波を記録する役を引き受けた。
「あはっ。正直、見てるだけで頭がおかしくなりそうなくらい面白いよ。感情がないのに、街の機能だけを笑顔みたいに整えていく。歩くオーバーライド・プログラムって感じ」
「面白がりすぎるな」
「警戒してるから面白がれるんだよ」
ヴェロニカはそれ以上は言わなかった。
ルナの力は、確かに街を助けた。
灯りが戻り、水が流れ、通信網もわずかに安定した。人々はルナを見て、不安そうにしながらも、どこか救われた顔をした。
だが、その希望はすぐに別の影を落とし始めた。
翌日。
ルナが再び小さなハートを作り、配給所周辺の電力を安定させようとした時だった。
「……っ、ぐ……!」
キョウカが突然、右腕を押さえて膝をついた。
「お姉ちゃん!」
ハルカが駆け寄ろうとした瞬間、彼女自身も胸を押さえた。
「……風が……変……!」
キョウカのガントレットが、勝手に重く沈み込む。
彼女の拳が異能の意思とは関係なく超高密度化し、足元のコンクリートをめりめりと圧壊した。
「クソッ、力が……勝手に入る……! 止まれ、止まれって言ってんだろ……!」
普段なら、キョウカの異能は明確な意志と共に発動する。
殴る。
砕く。
守る。
その単純で強い目的に従って、拳は一時的にあり得ない密度を持つ。
だが今は違った。
ルナの放つ波が、キョウカの異能を勝手に「修正」しようとしている。結果として、出力が乱れ、拳の密度が不安定に膨れ上がっていた。
キョウカの足元がさらに沈む。
「キョウカ、動くな!」
ヴェロニカが駆け寄る。
だが、次の瞬間、ハルカの周囲で空気が鋭くねじれた。
「……っ、息、できない……」
ハルカの風が、彼女の意思に反して乱れている。
穏やかな旋風が急激に細くなり、鋭い気流となって周囲の布を裂いた。ハルカ自身の髪が乱れ、彼女は耳を塞ぐようにしゃがみ込む。
「街の息が……強すぎる……! 私の風が、押し潰される……!」
ヴェロニカもまた、左頬の星型の痣が強く疼くのを感じた。
エルフの魔力が波打つ。
体の奥で、外から別の拍動を押し込まれているような不快感があった。
「アリス!」
「分かってる!」
アリスは端末を抱え、ルナと姉妹の間へ即席の妨害器を投げ込んだ。ジジイの店で手に入れた古い部品を組んだものだ。
バチッ、と火花が散る。
一瞬だけ、ルナを中心に広がっていた情報波が乱れた。
キョウカの拳の密度が戻る。
ハルカの風も、荒く揺れながら少しずつ落ち着いた。
それでも二人は、しばらく立ち上がれなかった。
「……ルナ?」
ルナは、苦しむ姉妹を見つめていた。
笑顔のまま。
小首を傾げる。
「苦しいの?」
その声には、心配の色がなかった。
悪意もない。
申し訳なさもない。
ただ、目の前の現象を言葉にしただけだった。
「……ルナ、だめなことをした?」
ヴェロニカは答えるまでに、一拍置いた。
「まだ分からない」
そして、はっきりと言う。
「だが、今の力は危険だ」
「危険」
ルナは繰り返す。
「危険は、笑わない?」
「……今は、笑う必要はない」
「そう」
ルナは笑顔のまま頷いた。
その表情が、かえって場の空気を冷たくした。
アリスは端末のログを見つめ、唇を噛んでいた。
「あはっ……これは、まずい」
「説明しろ」
「ルナの力は、街の機能を整えてる。壊れた配線、止まったポンプ、断線した通信。そういうものを、正常な状態へ戻そうとしてる」
「それが二人に干渉した理由か」
「うん」
アリスはキョウカとハルカを見る。
「キョウカちゃんの超高密度化も、ハルカちゃんの気象操作も、都市の基準から見れば異常なエネルギー変動なんだよ。ルナの波は、それをバグとして認識して、勝手に平らにしようとしてる」
「平らに、だと」
「もっと悪く言えば、異能を消去すべきノイズとして扱ってる」
キョウカが歯を食いしばる。
「街を助ける力が、アタシらを壊すってのかよ」
「ルナがそう望んでるわけじゃない」
アリスは冷たく、しかし慎重に言った。
「たぶん、本人には善悪も意図もない。ただ、力の仕組みがそうなってる。街を正常化する。異常値を修正する。異能者は、その正常化から見れば例外なんだ」
ハルカは、まだ呼吸を整えながらルナを見た。
「……ルナちゃんの中、空っぽじゃない。空っぽに見えるくらい、街の音が大きいんだ」
「ハルカ?」
「たぶん、ルナちゃんは一人じゃない。街のどこかと、ずっと繋がってる」
ヴェロニカはルナを見る。
感情のない少女。
街を笑わせる少女。
そして、異能をノイズとして消そうとする、歩く心臓。
「ルナ」
「なあに、ヴェロニカ」
「貴女はしばらく、私の許可なくハートを作るな」
「ハート」
「さっきの手の形だ。街を動かす力が出る」
「分かった。ヴェロニカが言うなら、ルナはやめる」
即答だった。
それが理解によるものなのか、ただ命令を受け入れた反応なのかは分からない。
ヴェロニカは胸の奥に重いものを感じた。
「ルナを責めるな」
彼女は周囲に向けて言った。
「この子はまだ、自分の力の意味を知らない。だが、近づきすぎるのも危険だ。アリス、遮断手段を作れ。キョウカとハルカは、体調に異変が出たらすぐ離れろ」
「了解」
アリスは端末を閉じる。
「ただ、ヴェロニカ。これ、かなり厄介だよ」
「分かっている」
「街を救う心臓が、私たち異能者にとっては毒になるかもしれない」
焚き火の炎が、小さく揺れた。
ルナはその火を見つめている。
笑顔のまま。
「毒」
彼女は呟いた。
「毒は、笑わない?」
誰もすぐには答えられなかった。
瓦礫の街に戻り始めた情報の鼓動。
その中心に現れた小さな心臓は、希望であると同時に、異能者たちの存在そのものを揺るがす危険でもあった。
ヴェロニカは、ルナの冷たい手と、苦しげに息を整える姉妹を交互に見た。
また守るものが増えた。
また分からないものが増えた。
そして、また選ばなければならない。
誰かを救う力が、別の誰かを傷つける時。
自分たちは、何を守り、何を止めるのか。
夜のキャンプに灯った街灯は、確かに暖かかった。
だがその光は、瓦礫の街に落ちた新しい亀裂を、容赦なく照らし出していた。