紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode16 笑顔の心臓

 拠点のキャンプに戻る頃には、空は深い藍色に沈みかけていた。

 

 瓦礫の街の中心に作られた広場には、いくつもの焚き火が灯っている。壊れたドラム缶を囲み、復興作業を終えた者たちが、粗末なスープを分け合っていた。どこかでフランが斧の手入れをしている音が聞こえ、遠くではライツの光が仮設の通路を照らしている。

 

 そんな広場の片隅で、キョウカは煤だらけのガントレットを外していた。ハルカはその隣で、小さな鍋を見守りながら、風で火加減を整えている。

 

「おかえり、ヴェロニカ」

 

 キョウカが顔を上げる。

 

 そして、すぐに眉をひそめた。

 

「……って、おい。なんだそのガキ。新しい迷い人か?」

 

 ヴェロニカの後ろには、白いワンピースの少女が立っていた。

 

 砂埃に汚れた姿。

 

 けれど、その顔には完璧な笑顔が張り付いている。

 

 ルナ。

 

 ヴェロニカが西の空虚地帯で見つけた、過去も感情も持たないように見える少女。

 

 ハルカも鍋から視線を上げ、静かにルナを見つめた。

 

 その瞬間、彼女の表情がわずかに強張る。

 

「……ヴェロニカ。その子……」

 

「何か分かるか」

 

「風が、届かない」

 

 ハルカは小さく首を振った。

 

「すぐ隣にいるのに、とても遠くにいるみたい。声は聞こえるのに、心の奥が空っぽの部屋みたい」

 

 ルナは、二人の視線を受けても笑顔を崩さなかった。

 

 ただ一歩、焚き火の方へ進む。

 

「私は、ルナ」

 

 抑揚のない声。

 

「あなたたちは、あたたかいね」

 

 そう言って、ルナはキョウカの腕にそっと触れた。

 

「なっ……!」

 

 キョウカが反射的に肩を跳ねさせる。

 

「いきなりなんだよ、お前。っていうか、なんだその顔。そんなに笑ってて疲れねえのか?」

 

「つかれる……?」

 

 ルナは首を傾げる。

 

「分からない。でも、こうしているのが正しいって、誰かが言ってた気がするの」

 

「誰かって誰だよ」

 

「分からない」

 

「……わけわかんねえな」

 

 キョウカは乱暴に頭を掻いた。

 

 けれど、その声に敵意はない。

 

 ただ、扱い方が分からないものを前にした困惑だけがあった。

 

「おい、ハルカ。とりあえずそいつにスープでも飲ませてやれ。空っぽの腹に温かいもの入れりゃ、少しはまともな顔になるだろ」

 

「……うん」

 

 ハルカは鍋から小さな器にスープを注いだ。

 

「お姉ちゃんの激辛調味料は入れてないから、大丈夫。座って、ルナ」

 

「座る」

 

 ルナは言われた通り、焚き火のそばへ腰を下ろした。

 

 ヴェロニカは少し離れた場所に立ち、彼女を観察していた。

 

 一族を失い、戦い続けてきた騎士。

 

 思考の檻から逃げ出した天才。

 

 異能の呪縛から解放された姉妹。

 

 その四人の輪の中に、何も持たない笑顔の少女が加わろうとしている。

 

 それが救いなのか。

 

 新たな災いなのか。

 

 まだ分からない。

 

「ヴェロニカ」

 

 アリスが横へ並んだ。

 

 彼女の肩には、手製の端末が下がっている。西の空虚地帯から戻る道中も、ルナの周辺に発生する微弱な情報波を記録し続けていた。

 

「あの子、見れば見るほど変だよ。体は普通の人間。少なくとも、今のところ生体反応に不自然な欠損はない。でも感情の波だけがない」

 

「作られた存在か」

 

「可能性はある。もしくは、何かを抜かれた存在か」

 

 アリスは焚き火のそばのルナを見た。

 

「ただの迷子ではないね」

 

「だとしても、放り出すわけにはいかん」

 

「分かってる。だから怖いんだよ」

 

 ルナは、ハルカから受け取ったスープをじっと見つめていた。

 

 湯気が彼女の顔を撫でる。

 

 笑顔は変わらない。

 

「……これは、あたたかい?」

 

「うん。熱いから、ゆっくり飲んで」

 

「ゆっくり」

 

 ルナは言われた通り、器に口をつける。

 

 一口。

 

 それから、彼女はふと、自分の手を見た。

 

 何かを思い出したように、両手の指を組み合わせる。

 

 小さなハートの形。

 

「……きれいな、かたち」

 

 ルナが呟いた。

 

 そして、その手を地面へ向ける。

 

 ――ドクン。

 

 地面の底から、音がした。

 

 ヴェロニカは即座に剣へ手をかけた。

 

 キョウカも立ち上がる。

 

「なんだ、今の……!」

 

 ――ドクン。

 

 二度目の拍動。

 

 それは地震ではない。

 

 もっと深いところで、止まっていた何かが目を覚ました音だった。

 

 次の瞬間、拠点周辺の街灯が一斉に瞬いた。

 

 チカ、チカ、と頼りなく明滅した後、温かいオレンジ色の光が広場を包む。

 

 人々が驚きの声を上げた。

 

 さらに、数ヶ月間沈黙していた配水ポンプが、低い唸りを上げて動き出す。

 

 乾いていたパイプの奥で水が走る音がした。

 

「な……っ!?」

 

 アリスが手製端末を開いた。

 

 画面に、異常なログが流れる。

 

「都市のメイングリッドが、外部電力なしで部分起動してる。あり得ない。旧ガーデン系統の深層プロトコルまで勝手に開いてる……!」

 

 彼女はルナを見る。

 

「しかも、エネルギーラインの再構成パターンが……ハート型?」

 

 地図上で、拠点周辺の電力と水道と通信の微弱な線が、ルナを中心に奇妙な形で繋がっていく。

 

 それは、正確な設計図ではない。

 

 効率的なネットワークでもない。

 

 けれど、まるで生き物の血管のように、必要な場所へ少しずつ流れが戻っていく。

 

「ルナ」

 

 ヴェロニカは鋭く問いかける。

 

「今のは、貴女がやったのか」

 

 ルナは自分の指を見つめていた。

 

「ルナ、分からない」

 

 いつもの笑顔。

 

「でも、こうすると……街が、うれしいって言ってるみたい」

 

 彼女は顔を上げる。

 

「ねえ、ヴェロニカ。街も、笑いたいんだよ」

 

 ハルカが目を見開いた。

 

「……風が、止まったんじゃない」

 

「ハルカ?」

 

「街全体が、一つになって息をし始めた」

 

 彼女には見えているのだろう。

 

 ルナの作った小さな形を起点に、目に見えないエネルギーの流れが、瓦礫の街へ広がっていく様子が。

 

 キョウカは明るくなった広場を見回し、呆れ半分、感心半分に笑った。

 

「へっ。わけわかんねえ力だけど、おかげで今夜は暗闇でスープ啜らなくて済みそうだな」

 

「笑い事ではない」

 

 ヴェロニカの声は硬かった。

 

「この力は強すぎる」

 

「あはっ。同感」

 

 アリスは端末を睨みつける。

 

「私が数週間かけて繋ぎ直そうとしてたラインを、指の形ひとつで叩き起こした。便利すぎる力は、だいたい裏に面倒な代償がある」

 

 ルナは二人の言葉を聞いても、表情を変えない。

 

「便利」

 

 そう繰り返すだけだった。

 

 その夜から、ルナは正式に拠点で保護されることになった。

 

 ヴェロニカの判断だった。

 

「ルナ。しばらく私たちの側を離れるな」

 

「側」

 

「一人で動くなという意味だ。危険が多い」

 

「分かった」

 

 ルナは頷く。

 

「ルナ、ヴェロニカの側にいる」

 

 アリスは、ルナから放たれる情報波を記録する役を引き受けた。

 

「あはっ。正直、見てるだけで頭がおかしくなりそうなくらい面白いよ。感情がないのに、街の機能だけを笑顔みたいに整えていく。歩くオーバーライド・プログラムって感じ」

 

「面白がりすぎるな」

 

「警戒してるから面白がれるんだよ」

 

 ヴェロニカはそれ以上は言わなかった。

 

 ルナの力は、確かに街を助けた。

 

 灯りが戻り、水が流れ、通信網もわずかに安定した。人々はルナを見て、不安そうにしながらも、どこか救われた顔をした。

 

 だが、その希望はすぐに別の影を落とし始めた。

 

 翌日。

 

 ルナが再び小さなハートを作り、配給所周辺の電力を安定させようとした時だった。

 

「……っ、ぐ……!」

 

 キョウカが突然、右腕を押さえて膝をついた。

 

「お姉ちゃん!」

 

 ハルカが駆け寄ろうとした瞬間、彼女自身も胸を押さえた。

 

「……風が……変……!」

 

 キョウカのガントレットが、勝手に重く沈み込む。

 

 彼女の拳が異能の意思とは関係なく超高密度化し、足元のコンクリートをめりめりと圧壊した。

 

「クソッ、力が……勝手に入る……! 止まれ、止まれって言ってんだろ……!」

 

 普段なら、キョウカの異能は明確な意志と共に発動する。

 

 殴る。

 

 砕く。

 

 守る。

 

 その単純で強い目的に従って、拳は一時的にあり得ない密度を持つ。

 

 だが今は違った。

 

 ルナの放つ波が、キョウカの異能を勝手に「修正」しようとしている。結果として、出力が乱れ、拳の密度が不安定に膨れ上がっていた。

 

 キョウカの足元がさらに沈む。

 

「キョウカ、動くな!」

 

 ヴェロニカが駆け寄る。

 

 だが、次の瞬間、ハルカの周囲で空気が鋭くねじれた。

 

「……っ、息、できない……」

 

 ハルカの風が、彼女の意思に反して乱れている。

 

 穏やかな旋風が急激に細くなり、鋭い気流となって周囲の布を裂いた。ハルカ自身の髪が乱れ、彼女は耳を塞ぐようにしゃがみ込む。

 

「街の息が……強すぎる……! 私の風が、押し潰される……!」

 

 ヴェロニカもまた、左頬の星型の痣が強く疼くのを感じた。

 

 エルフの魔力が波打つ。

 

 体の奥で、外から別の拍動を押し込まれているような不快感があった。

 

「アリス!」

 

「分かってる!」

 

 アリスは端末を抱え、ルナと姉妹の間へ即席の妨害器を投げ込んだ。ジジイの店で手に入れた古い部品を組んだものだ。

 

 バチッ、と火花が散る。

 

 一瞬だけ、ルナを中心に広がっていた情報波が乱れた。

 

 キョウカの拳の密度が戻る。

 

 ハルカの風も、荒く揺れながら少しずつ落ち着いた。

 

 それでも二人は、しばらく立ち上がれなかった。

 

「……ルナ?」

 

 ルナは、苦しむ姉妹を見つめていた。

 

 笑顔のまま。

 

 小首を傾げる。

 

「苦しいの?」

 

 その声には、心配の色がなかった。

 

 悪意もない。

 

 申し訳なさもない。

 

 ただ、目の前の現象を言葉にしただけだった。

 

「……ルナ、だめなことをした?」

 

 ヴェロニカは答えるまでに、一拍置いた。

 

「まだ分からない」

 

 そして、はっきりと言う。

 

「だが、今の力は危険だ」

 

「危険」

 

 ルナは繰り返す。

 

「危険は、笑わない?」

 

「……今は、笑う必要はない」

 

「そう」

 

 ルナは笑顔のまま頷いた。

 

 その表情が、かえって場の空気を冷たくした。

 

 アリスは端末のログを見つめ、唇を噛んでいた。

 

「あはっ……これは、まずい」

 

「説明しろ」

 

「ルナの力は、街の機能を整えてる。壊れた配線、止まったポンプ、断線した通信。そういうものを、正常な状態へ戻そうとしてる」

 

「それが二人に干渉した理由か」

 

「うん」

 

 アリスはキョウカとハルカを見る。

 

「キョウカちゃんの超高密度化も、ハルカちゃんの気象操作も、都市の基準から見れば異常なエネルギー変動なんだよ。ルナの波は、それをバグとして認識して、勝手に平らにしようとしてる」

 

「平らに、だと」

 

「もっと悪く言えば、異能を消去すべきノイズとして扱ってる」

 

 キョウカが歯を食いしばる。

 

「街を助ける力が、アタシらを壊すってのかよ」

 

「ルナがそう望んでるわけじゃない」

 

 アリスは冷たく、しかし慎重に言った。

 

「たぶん、本人には善悪も意図もない。ただ、力の仕組みがそうなってる。街を正常化する。異常値を修正する。異能者は、その正常化から見れば例外なんだ」

 

 ハルカは、まだ呼吸を整えながらルナを見た。

 

「……ルナちゃんの中、空っぽじゃない。空っぽに見えるくらい、街の音が大きいんだ」

 

「ハルカ?」

 

「たぶん、ルナちゃんは一人じゃない。街のどこかと、ずっと繋がってる」

 

 ヴェロニカはルナを見る。

 

 感情のない少女。

 

 街を笑わせる少女。

 

 そして、異能をノイズとして消そうとする、歩く心臓。

 

「ルナ」

 

「なあに、ヴェロニカ」

 

「貴女はしばらく、私の許可なくハートを作るな」

 

「ハート」

 

「さっきの手の形だ。街を動かす力が出る」

 

「分かった。ヴェロニカが言うなら、ルナはやめる」

 

 即答だった。

 

 それが理解によるものなのか、ただ命令を受け入れた反応なのかは分からない。

 

 ヴェロニカは胸の奥に重いものを感じた。

 

「ルナを責めるな」

 

 彼女は周囲に向けて言った。

 

「この子はまだ、自分の力の意味を知らない。だが、近づきすぎるのも危険だ。アリス、遮断手段を作れ。キョウカとハルカは、体調に異変が出たらすぐ離れろ」

 

「了解」

 

 アリスは端末を閉じる。

 

「ただ、ヴェロニカ。これ、かなり厄介だよ」

 

「分かっている」

 

「街を救う心臓が、私たち異能者にとっては毒になるかもしれない」

 

 焚き火の炎が、小さく揺れた。

 

 ルナはその火を見つめている。

 

 笑顔のまま。

 

「毒」

 

 彼女は呟いた。

 

「毒は、笑わない?」

 

 誰もすぐには答えられなかった。

 

 瓦礫の街に戻り始めた情報の鼓動。

 

 その中心に現れた小さな心臓は、希望であると同時に、異能者たちの存在そのものを揺るがす危険でもあった。

 

 ヴェロニカは、ルナの冷たい手と、苦しげに息を整える姉妹を交互に見た。

 

 また守るものが増えた。

 

 また分からないものが増えた。

 

 そして、また選ばなければならない。

 

 誰かを救う力が、別の誰かを傷つける時。

 

 自分たちは、何を守り、何を止めるのか。

 

 夜のキャンプに灯った街灯は、確かに暖かかった。

 

 だがその光は、瓦礫の街に落ちた新しい亀裂を、容赦なく照らし出していた。

 

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