翌朝、拠点の中心に仮設の観測場が作られた。
場所は、かつて噴水広場だった場所だ。今は噴水も水盤も砕け、代わりにアリスが拾い集めた基板、古い配線、焦げた端末の残骸、ジジイの店から譲り受けた妨害チップが、円を描くように並べられている。
その中心に、ルナが立っていた。
白いワンピースは洗われ、砂埃は落ちている。だが、顔に張りついた完璧な笑顔は変わらない。
ヴェロニカはその正面に立ち、腕を組んでいた。
「ルナ。昨日言ったことは覚えているな」
「覚えている」
ルナは笑顔で頷く。
「ヴェロニカが言うまで、ハートは作らない」
「ああ。今日は、アリスの準備が整っている。少しだけ力を使い、すぐに止める。いいな」
「少しだけ」
ルナは繰り返した。
「分かった」
アリスはその横で、手製のコンソールを叩いている。かつてのガーデン製デバイスではない。瓦礫の街で拾った部品を組み合わせ、何度も修理した不格好な機械だ。
それでも、アリスの指が触れれば、そこは街の神経へ繋がる窓になる。
「あはっ。遮断器、仮設シールド、信号の逃がし先、全部準備済み。理論上は、ルナちゃんの出力が昨日の三倍くらいまでなら受け止められる」
「理論上、か」
ヴェロニカが目を細める。
「そう。実際には、予想外が起きたら壊れる」
「不安しかないな」
「でも、何も調べない方がもっと不安でしょ」
アリスは肩をすくめた。
少し離れた場所に、キョウカとハルカもいた。
キョウカはガントレットを外している。ルナの波動が異能を乱す可能性を考え、できる限り負荷を減らすためだった。それでも、右腕には包帯が巻かれ、昨日の暴走の痕が残っている。
ハルカは姉の隣で、じっとルナを見ていた。
「……お姉ちゃん、無理しないで」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ、変な風を拾ったらすぐ言えよ」
「うん」
ハルカは小さく頷く。
だが、その瞳には不安がある。
ルナの中には、風が届かない。
なのに、街全体の風はルナへ集まろうとする。
それが、ハルカには恐ろしく感じられた。
「始めるぞ」
ヴェロニカが言った。
「ルナ。ハートを作れ。ただし、私が止めろと言ったらすぐに止める」
「うん」
ルナは両手を胸の前へ上げた。
白い指がゆっくりと組み合わさり、小さなハートの形を作る。
「ドクン……ドクン……」
ルナが呟く。
「聞こえるよ。みんなの、こえ」
――ドクン。
地面の底から、拍動が響いた。
コンソールが一斉に光る。
アリスの画面に、天文学的な量のログが流れ込んだ。信号機、下水管理システム、旧地下鉄通信網、倒壊したビルの管理AI、個人端末の残骸、壊れた監視カメラ、消えかけた医療タグ。
死んだはずの情報が、ルナを中心に吸い寄せられていく。
「あはっ……すごい」
アリスの声は、歓喜に近かった。
「都市中の残骸から、使える情報だけを拾って再構成してる。復旧じゃない。修理でもない。都市そのものが、ルナちゃんっていう新しい中枢を通して書き換わってる」
ログがさらに増える。
コンソールの冷却ファンが悲鳴を上げた。
「これは……都市のオーバーフローだよ」
その言葉が終わるより早く、破綻は始まった。
「が、はっ……!」
キョウカが右腕を押さえ、膝をついた。
「止まれ……止まれって言ってんだろ、アタシの腕ッ!」
包帯の下で、筋肉が異常に脈打つ。
彼女の意思とは関係なく、右拳が超高密度化していた。周囲の空気が押し潰され、足元の瓦礫がめりめりと沈む。拳の表面には、白銀の圧縮光のようなものが走り、異能の出力が無理やり一点へ集まっていく。
その圧力は熱に似た揺らぎを生み、瓦礫の表面をガラスのように焼き固めていった。
「キョウカ!」
ヴェロニカが駆け寄ろうとする。
だが、同時にハルカが呻いた。
「……お姉、ちゃん……っ」
ハルカが風を起こそうとした瞬間、彼女の周囲の気流が鋭く反転した。
穏やかな旋風ではない。
薄い刃のような真空の流れが、彼女自身の喉元をかすめる。
「風が……私の言うこと、聞かない……!」
ハルカは胸を押さえ、よろめいた。
彼女の感応能力は、ルナの波動を真正面から受け止めてしまっている。街の情報と空気の流れが、一つの巨大な呼吸としてルナへ集まり、その圧力がハルカの中の風を押し潰していた。
アリスの顔色が変わる。
「出力が予測値を超えた! 遮断器、全然足りない!」
「止めろ、ルナ!」
ヴェロニカが叫ぶ。
「手を離せ!」
ルナはハートを作ったまま、こちらを見る。
笑顔のまま。
「離す?」
「そうだ!」
「でも、街が呼んでる」
――ドクン。
拍動がさらに強くなった。
拠点の外周から警報音が鳴る。
アリスのコンソールに、新たな反応が赤く表示された。
「最悪のタイミング……!」
「何だ」
「ガーデン崩壊後に放置されてた無人ドローンと暴走警備AIが動き出した。ルナちゃんの出力を新しいエネルギー源として認識してる。こっちに集まってきてる!」
遠くから、機械の足音が響いた。
瓦礫の隙間から、古い殺戮ドローンが這い出してくる。装甲はひび割れ、レンズは濁っている。だが、その武装はまだ生きていた。
地上だけではない。
空からも、小型の監視ドローンが群れを成して近づいている。
旧ガーデンの残骸。
主を失った機械の群れが、ルナの鼓動に引き寄せられていた。
「あはっ。新しい女王様に挨拶しに来たみたいだね!」
「冗談を言っている場合か」
「冗談言わないとやってられないんだよ!」
アリスはコンソールへ飛びつき、即席の防壁プログラムを走らせた。
だが、外からは機械の軍勢。
内側では、ルナの波動で異能を暴走させた姉妹。
ヴェロニカは、最悪の中心に立たされていた。
「……そこを、どいて」
ハルカの声がした。
いつもの柔らかな風の囁きではない。
刃のように冷たい声だった。
「ヴェロニカ。そこをどいて」
ハルカの瞳は、ルナを見ていた。
その目に宿るのは恐怖だけではない。
明確な排除の意志。
「ハルカ、冷静になれ」
「冷静だよ」
ハルカは震えながら言った。
「この子がいると、私たちは壊れる。この子が笑うたびに、風が私を切ろうとする」
キョウカも立ち上がる。
右腕の白銀の圧縮光を、歯を食いしばって押さえ込んでいる。
「ああ、そうだ。こいつは救世主なんかじゃねえ。この街を塗り替えるための、新しい病原菌だ」
「キョウカ」
「どけ、ヴェロニカ」
キョウカの声が低くなる。
「あんたまで殴りたくねえ」
ヴェロニカはルナの前に立った。
剣を抜く。
だが、その刃先は姉妹には向けない。
「どかない」
「他の誰かが助かれば、アタシらが壊れてもいいってのかよ!」
キョウカが地を蹴った。
白銀の圧縮光を纏った拳が、ヴェロニカの剣と衝突する。
衝撃波が瓦礫を砕いた。
「くっ……!」
重い。
いつものキョウカの拳よりも、さらに重い。
それは彼女自身の意志による強さではなく、暴走した異能が無理やり膨張した結果だった。
ヴェロニカの足が地面を削る。
「目を覚ませ、キョウカ! 私たちは、誰かを犠牲にして生き残るためにあの庭を出たのではないはずだ!」
「綺麗事で腕の中が焼けるみたいな痛みが消えるなら、いくらでも聞いてやるよッ!」
キョウカがもう一撃を放つ。
ヴェロニカは受け止める。
その背後では、ハルカの指がわずかに動いた。
不可視の真空刃が、ルナの首元へ飛ぶ。
「させん!」
ヴェロニカの背から蒼黒い魔力が翼のように広がり、ルナを包んだ。
刃が魔力の翼を裂く。
ヴェロニカの頬に、細い血の筋が走った。
「……ヴェロニカ」
ルナは、その背中越しに呟く。
「みんな、忙しそう」
彼女はまだハートを作っている。
笑顔のまま。
その笑顔が、姉妹の異能をさらに乱す。
同時に、外から押し寄せる機械の軍勢を活性化させる。
「ルナ、手を離せ!」
アリスが叫ぶ。
「これ以上続けたら、街より先に君が壊れる!」
「壊れる」
ルナは首を傾げた。
「ルナが?」
「そうだよ!」
「でも、街が痛いって言ってる」
ルナの指先が震える。
白い肌に、細いひびが入った。
ハルカが、その瞬間に何かを感じ取った。
「……あ」
彼女の風が止まる。
いや、正確には止まったのではない。
聞いたのだ。
ルナのハートを通して流れ込む、膨大な悲鳴を。
瓦礫の下で断線した回路の軋み。
詰まった配水管の喘ぎ。
壊れた端末の中に残る、持ち主を探す通知。
停電した病室の記録。
消えかけた街灯のメモリ。
行き場を失った情報の残骸。
それら全部が、ルナの中へ流れ込んでいた。
「……違う」
ハルカが耳を押さえながら、震える声で言った。
「お姉ちゃん、待って……!」
「んだよハルカ! 邪魔すんな、あと少しで――」
「違うの!」
ハルカが風の壁を作り、キョウカの前進を遮った。
その風はもう、先ほどのような刃ではなかった。
必死に姉を止める、細く震える壁だった。
「この子は、私たちを壊そうとしてるんじゃない」
「何言ってんだよ!」
「この子は、この壊れた街の傷口を、全部ひとりで塞ごうとしてるんだ……!」
キョウカの拳が止まった。
ヴェロニカも息を呑む。
ハルカには視えていた。
ルナから溢れる波動。
それは攻撃ではない。
都市の隅々まで伸びる修復の流れだった。
壊れたものを繋ぎ、詰まったものを流し、途切れた情報を拾い、街という巨大な体の傷を塞ごうとしている。
ただ、あまりにも範囲が広く、あまりにも出力が高すぎる。
だから、異能者たちの力を「異常値」として巻き込み、拒絶反応を起こしているのだ。
ルナのハートは、街を動かすスイッチであると同時に、街中に沈殿した痛みを彼女自身へ逃がすための通り道だった。
「見て」
ハルカがルナの手を指差す。
「ルナちゃんの、手……」
ヴェロニカとキョウカが振り返る。
ルナは笑っていた。
いつもの完璧な笑顔で。
だが、その白い指先には細かなひびが走っていた。ひびの隙間から、光の粒子がこぼれている。
彼女の腕にも、首元にも、薄い亀裂が広がっていた。
痛みを顔に出せないだけだ。
苦しみを知らないわけではない。
ルナは、笑顔という出力で自分の崩壊を覆い隠しながら、街の痛みを受け止め続けている。
「あは……」
アリスの声が震えた。
「本当だ。この子、自分の容量を完全に無視して、都市全体のデバッグを一人で引き受けてる」
コンソールに表示されるログは、すでに警告で真っ赤だった。
「笑顔なのは、感情がないからだけじゃない。痛みっていう情報を、笑顔で上書きして、処理を続けてるんだ」
「……そんな、馬鹿な」
キョウカの拳から、白銀の光が薄れていく。
「じゃあ、アタシらがこいつを壊そうとしてた間も、こいつは……この街を治そうとしてたってのか」
ルナは、姉妹へ向けられた殺意すらも、ただ街のノイズとして受け入れていた。
笑顔のまま。
壊れた世界を抱きしめるように、ハートを掲げ続けている。
「ルナ」
ヴェロニカが呼ぶ。
「もういい。止めろ」
「でも」
「止めろ!」
初めて、ヴェロニカが声を荒げた。
ルナの笑顔が、ほんのわずかに揺らいだように見えた。
「……止めると、街が痛いまま」
「それでもだ」
ヴェロニカは剣を地面に突き立て、ルナの前に膝をついた。
「街の痛みを、貴女一人で背負う必要はない」
「一人」
「そうだ」
ヴェロニカは、キョウカ、ハルカ、アリスを見た。
さらに、外周で戦うフラン、ライツ、ルーゼ、そして集まり始めた人々を見る。
「私たちは、そのためにここにいる」
外からドローンの群れが迫る。
暴走した警備AIが、機械の足を鳴らして進んでくる。
だが、もう内側の敵意は消えていた。
キョウカが拳を握る。
「……ルナ。悪かった」
短い謝罪。
不器用で、乱暴で、それでも本物だった。
「街の痛みはよく分かんねえ。でも、瓦礫くらいならアタシが砕いてやる。だから、お前一人で全部抱えんな」
ハルカも、そっとルナへ手を伸ばす。
「……風を、分ける。ルナちゃんの中に入りすぎた痛み、少しだけ外へ逃がすから」
アリスがコンソールを叩く。
「あはっ。都市全体のデバッグを一人でやるなんて、設計思想がブラックすぎるんだよ。処理を分散する。街の残存端末、手動回路、人間の連絡網、全部使う」
「できるか」
ヴェロニカが問う。
「できるかじゃない」
アリスは不敵に笑った。
「やるんだよ」
ルナのハートが、これまでにないほど眩い白光を放つ。
その光は暴走ではない。
助けを求める信号だった。
ヴェロニカは立ち上がり、迫り来る機械の軍勢へ剣を向ける。
「全員、聞け!」
彼女の声が、拠点に響いた。
「ルナを守る! だが、ルナにすべてを背負わせるな! 街の痛みは、街に生きる私たち全員で引き受ける!」
キョウカが前へ出る。
ハルカが風を広げる。
アリスが情報の流れを分散する。
外周では、フランの斧がドローンを叩き落とし、ライツの光が敵影を照らし、ルーゼのワイヤーが暴走機械の脚を絡め取る。
ルナは、初めて少しだけ目を瞬かせた。
「みんなで……?」
ヴェロニカは振り返らずに答える。
「ああ。みんなでだ」
白い光が、瓦礫の街を満たしていく。
それは、都市のオーバーフローではなく。
街に生きる者たち全員へ分かち合われた、新しい鼓動の始まりだった。