ルナが作ったハートが、これまでにないほど眩い白光を放った。
小さな指で形作られた、ただの記号。
けれどその光は、焚き火の火でも、ライツの灯でも、かつてベアトが空に掲げた月桂冠の赤黒い輝きでもなかった。
もっと深く、もっと柔らかい。
瓦礫の奥に眠っていた街の記憶そのものが、ようやく目を覚ましたかのような光だった。
「ドクン、ドクン、ドクン……」
ルナの声に合わせて、地面が脈打つ。
いや、地面だけではない。
頭上に残った鉄骨も、崩れた壁の隙間を通る風も、遠くで明滅する街灯も、すべてがひとつの鼓動を共有していた。
都市が、呼吸している。
そう感じた。
「あはっ……これ、は……」
アリスの手製コンソールが警告音を吐き続ける。画面には処理しきれないログが流れ込み、やがて限界を迎えたように真っ白に染まった。
だが、アリスは画面を見ていなかった。
彼女の瞳は大きく見開かれ、まるで直接どこか遠い場所を覗き込んでいるようだった。
「見える……」
「アリス?」
ヴェロニカが呼ぶ。
アリスは、震える声で続けた。
「ルナは、誰かに作られた人形なんかじゃない。街で消えていった人たちの記録、持ち主を失った端末の残響、動き続けたかった機械たちの願い、瓦礫の下でまだ生きたいって叫んでる都市の断片……その全部が、一点に集まって形になったもの」
アリスはルナを見る。
白い光の中心で、笑顔の少女が立っている。
「この子は、この都市そのものの意志なんだ」
その言葉と同時に、世界が一変した。
ルナを中心に広がった光の波が、キョウカとハルカを包み込む。
先ほどまで二人の異能を刺すように乱していた拒絶反応が、嘘のように薄れていった。
キョウカは自分の右腕を見下ろす。
暴走していた超高密度化は収まり、拳は彼女の意志に従って静かに力を蓄えている。異能の重さが、体を内側から壊すものではなく、自分の骨と筋肉の延長のように馴染んでいく。
「……痛くねえ」
キョウカは呆然と呟いた。
「力が、アタシの中にちゃんと戻ってくるみたいだ」
ハルカも、風の中で目を閉じた。
彼女の周囲を流れていた乱れた気流は、今は穏やかな渦となって拠点全体を撫でている。
「……風が、歌ってる」
小さく笑う。
「もう、誰も泣いてない」
光はさらに広がった。
拠点へ押し寄せていた無人ドローンたちの赤いセンサーが、次々と青へ変わっていく。脚を鳴らして進んでいた警備機械は動きを止め、武器を下ろした。空を旋回していた監視ドローンも、攻撃軌道から外れ、静かに高度を落とす。
まるで、長い悪夢から覚めた兵士たちのようだった。
フランが斧を下ろす。
「……止まった、のか」
ライツの光も、警戒の白から柔らかな淡色へ変わる。
ルーゼはワイヤーを手元へ戻し、息を吐いた。
ヴェロニカは、光の中心に立つルナを見つめていた。
ルナの指先から零れていた光の粒子は、今や都市中の回路へ繋がり、欠けた部分を補い合っている。彼女一人が全部を背負っているのではない。街に残ったものたちが、互いを支え合うように、負荷を分け合っていた。
「ルナ」
ヴェロニカは静かに問う。
「貴女は、この街の悲鳴を止めるために生まれてきたのか」
ルナは振り返った。
笑顔は変わらない。
だが、その瞳には、先ほどまでの底の見えない空白ではなく、夜明けのような淡い光が宿っていた。
「ヴェロニカ、みんな」
ルナは言った。
「もう、大丈夫。街がね、やっと『おやすみなさい』って言えたの」
彼女がハートを解く。
両手を広げると、光の粒子が粉雪のように瓦礫の街へ降り注いだ。
壊れた街灯が穏やかに灯る。
止まっていた水が、低い音を立てて流れ始める。
古い端末が一瞬だけ起動し、誰かの残したメッセージを空に浮かべて、静かに消える。
無秩序な瓦礫の街は、ルナという心臓を得たことで、一つの巨大な生命体として、静かに再起動を果たした。
誰もが、その光景に言葉を失っていた。
だからこそ。
次の音は、あまりにも冷たく響いた。
――ギ、ギギギギギ。
深い地中から、錆びた機械が無理やり目覚めるような音。
アリスの顔色が変わる。
「……嘘でしょ」
白く染まっていたコンソールに、赤黒い警告表示が浮かび上がった。
「まだ何か残ってる」
「何だ」
ヴェロニカが剣を抜く。
「分からない。でも、これはルナちゃんの信号じゃない。もっと古い。もっと悪趣味で、もっとしつこい」
次の瞬間、街中の瓦礫に埋もれていた無数の端子が一斉に発光した。
赤黒い光。
かつて空を覆った月桂冠の色。
地面が裂け、そこから蔦のようなケーブルが飛び出す。
それは植物ではない。
金属と生体部品を編み込んだ、ガーデンの制御線だった。
「あはっ、最悪……!」
アリスが叫ぶ。
「あの女、死んだ後まで街を手放さないつもりだったんだ。ベアトが残した強制統治プロトコルだよ!」
赤黒いケーブルが、無防備なルナへ殺到した。
「ルナ!」
ヴェロニカが踏み込む。
だが、ケーブルから放たれた精神汚染波が壁のように広がり、彼女の体を弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
ヴェロニカは地面を転がりながらも、すぐに体勢を立て直す。
その目の前で、ケーブルがルナの手首、足首、首元へ絡みついていった。
「あ……」
ルナの笑顔が、初めて歪んだ。
「あ、……ぁ……」
彼女の瞳に宿っていた夜明けの光が、赤黒いノイズに侵されていく。
「痛い……?」
ルナは、自分でも分からないように呟いた。
「これが、痛い……?」
「ルナ!」
ハルカが叫んだ。
だが、彼女も耳を押さえて膝をつく。
「風が、毒に染まっていく……。ベアトの嫌な笑い声が、街の隙間から聞こえる……!」
キョウカも右腕を押さえた。
さっき調和したはずの力が、また乱れようとしている。
「チッ……死んでまで、アタシらの居場所を奪いに来るってのかよ、あの女……!」
空中に、赤黒いホログラムが浮かんだ。
それはベアトの姿ではない。
彼女の紋章。
月桂冠を模した、歪んだ支配の印。
機械音声が、拠点全体に響く。
『プロトコル・ローレル、起動』
ルナの唇が、同じ言葉をなぞった。
『プロトコル・ローレル、起動』
ヴェロニカの表情が凍る。
ルナの声なのに、ルナの声ではなかった。
『対象、全市民。秩序による恒久的再教育を開始』
「黙れ」
ヴェロニカの声が低く響いた。
アリスは必死にコンソールを叩く。
「侵食が深すぎる! 外側の通信じゃない。ルナちゃんの中枢に直接食い込んでる。さっき街と繋がった瞬間を狙って、古い支配網が逆流してきたんだ!」
「止められるか」
「止める!」
アリスは怒鳴った。
「けど、普通にハックしても無理。あれはシステムじゃない。ベアトの執念を命令文に焼き付けた亡霊だよ!」
ルナのハートから広がっていた白い光が、赤黒く塗り替えられていく。
街灯が赤く染まる。
落ち着いたはずのドローンたちが、再び不安定に震え始める。
青かったセンサーに赤いノイズが混じる。
ルナの体を絡め取ったケーブルは、彼女を都市の心臓ではなく、支配の電池として使おうとしていた。
「ルナは……」
ヴェロニカが立ち上がる。
左頬の星型の痣が、蒼く燃える。
「この街の心臓だ」
蒼黒い魔力が、彼女の背から翼のように広がった。
「ベアトの亡霊の部品になど、させるものか!」
ヴェロニカが地を蹴る。
赤黒い精神汚染波が彼女を押し返そうとする。
だが、ヴェロニカは止まらない。
剣を前へ突き出し、翼を広げ、光の障壁へ真っ向から突っ込む。
「キョウカ!」
「分かってる!」
キョウカが、右腕に走る乱れを歯を食いしばって押さえ込む。
今度は暴走ではない。
自分の意志で力を掴む。
拳が超高密度化し、足元の瓦礫を踏み砕く。
「この街は、もう誰かの庭じゃねえんだよッ!」
キョウカの拳が、地面から伸びるケーブルの束を粉砕した。
「ハルカ!」
「……うん!」
ハルカは苦しげに息を吸い、それでも風を呼ぶ。
毒に染まった空気をそのまま受け入れるのではなく、冷たい上昇気流で切り離し、赤黒いノイズを空へ逃がす。
「ベアトの声なんか、もう風に乗せない……!」
アリスが叫ぶ。
「ヴェロニカ、三秒だけ道を開ける! 中に飛び込んだら、ルナちゃんの手を離させて!」
「三秒で十分だ」
「言うと思った!」
アリスはコンソールの限界を無視して、街中に残った端末へ信号を飛ばした。
拾い集められた通信機。
仮設診療所の照明制御。
ライツが照らす地下道の警告ランプ。
ルーゼが固定した倉庫の簡易センサー。
人々の手で繋ぎ直された、小さな回路たち。
その全部が、ルナを奪おうとするプロトコルへノイズを叩き込む。
「ベアトの檻に、街のみんなで落書きしてやるよ!」
赤黒い障壁が一瞬、揺らいだ。
ヴェロニカはその隙を逃さない。
蒼い閃光となって飛び込み、ルナの前へ到達する。
ルナの瞳はほとんど光を失っていた。
唇から機械的な声が漏れる。
『再教育、開始。個体意志、不要。都市秩序、最優先』
「違う」
ヴェロニカは、ルナの絡め取られた手に触れる。
「意志を消して得る秩序など、私たちはもう選ばない」
ケーブルがヴェロニカの腕にも絡みつこうとする。
精神を侵すノイズが頭の奥へ流れ込む。
かつてのガーデンの訓練。
任務。
命令。
忠誠。
捨てたはずの鎖が、再び彼女の心を縛ろうとした。
だが、ヴェロニカは笑った。
「遅い」
彼女の背後で、仲間たちの声が聞こえる。
キョウカの怒号。
ハルカの風。
アリスの軽口。
フランの斧の音。
ライツの光。
ルーゼのワイヤー。
そして、瓦礫の街で生きる人々の息遣い。
「私はもう、貴女の猟犬ではない」
ヴェロニカは剣を振り上げる。
「ルナを返せ、ベアト!」
蒼い刃が、赤黒いケーブルを断ち切った。
ルナの体が大きく震える。
ハートを作っていた指がほどけた。
赤黒い光が一瞬弱まる。
だが、プロトコル・ローレルはまだ消えない。
地中深くから、さらに太いケーブルが蠢き始める。
アリスが歯を食いしばった。
「あはっ……やっぱり本体は地下だ。セントラル・タワーの深層、ベアトが隠してた予備中枢がまだ生きてる」
ヴェロニカはルナを抱きとめ、振り返る。
ルナは意識を失ってはいない。
だが、瞳の奥には赤黒いノイズがまだ残っている。
「……ヴェロニカ」
かすかな声。
「ルナ、また……笑えなくなる?」
「させない」
ヴェロニカは即答した。
「貴女は、街の部品ではない。私たちの仲間だ」
ルナの指が、弱々しくヴェロニカの服を掴む。
その瞬間、地下から再び機械音が響いた。
亡霊の檻は、まだ壊れていない。
だが、四人はもう知っていた。
心臓を一人に背負わせてはならないことを。
街の自由は、誰かの命令で与えられるものではないことを。
ヴェロニカは剣を構え直す。
「行くぞ」
赤黒い光の先、地下へ続く亀裂を見据えた。
「今度こそ、ベアトの亡霊を根から断つ」
キョウカが拳を鳴らす。
ハルカが風を呼ぶ。
アリスが壊れかけのコンソールを抱え、不敵に笑う。
「あはっ。第2ラウンドってわけだね」
ルナを抱えたまま、ヴェロニカは歩き出した。
瓦礫の街に灯った新しい心臓を、二度と檻へ戻さないために。