夜の高層ビル群を、雨が斜めに叩いていた。
ヴェロニカとアリスは、任務完了地点からほど近い廃ビルの屋上に立っていた。背後では、先ほど侵入した研究施設が完全に沈黙している。警備システムも、追跡ドローンも、中央サーバーも、すべてアリスの仕掛けたウイルスによって機能を失っていた。
任務は成功。
重要データは奪取済み。
追っ手も全排除。
それでもヴェロニカの表情は晴れない。
雨に濡れた金髪を払いながら、彼女は通信端末を起動した。
空中に淡い緑色の紋章が浮かび上がる。
月桂冠を模した、ガーデンの紋章。
「こちらヴェロニカ。任務を完了した。指定データの回収に成功。追跡部隊は全て沈黙させた」
数秒の沈黙。
やがて、通信画面に一人の女の姿が映し出された。
若い女だった。
だが、その穏やかな笑みには、年齢とは不釣り合いな支配者の風格がある。
薄く閉じた瞳。
整った顔立ち。
頭には月桂冠のような葉の冠。
背後には、美しい蝶の翅を思わせる巨大な影が広がっている。翅の模様は鮮やかでありながら、どこか毒々しい。見る者に、美より先に危険を感じさせる色だった。
ベアト。
ガーデンの統括者。
都市の裏側に根を張る巨大組織を束ねる、静かなる独裁者。
『ご苦労さまでした、ヴェロニカ。アリス』
ベアトの声は、雨音の中でも不思議とはっきり響いた。
『とても見事な働きです。施設ひとつを沈黙させながら、必要なデータは完全に持ち帰る。やはり、貴女たちは私の庭でも特に美しい枝ですね』
ヴェロニカは表情を変えず、片膝をついた。
「光栄です。ベアト様」
一方で、アリスは隣で退屈そうに欠伸をしていた。
「あはっ。褒めてくれるのはいいけどさ、ベアト様。あの施設、守りが雑だったよ。あれで最高機密とか名乗るの、ちょっと恥ずかしくない?」
ヴェロニカが横目で睨む。
「アリス。言葉を慎め」
「様は付けてるじゃん」
「態度を慎めと言っている」
「それは無理」
アリスは黒い革手袋をひらひらと振った。
「私は面白そうだからベアト様の言うことを聞いてるだけ。敬ってるわけじゃないし」
普通なら、その場で処分されてもおかしくない物言いだった。
しかしベアトは怒らない。
むしろ、その無礼すら愛でるように微笑んだ。
『構いません。アリスのそういうところも、私は気に入っています』
「ほら、ベアト様は話が分かる」
「調子に乗るな」
ヴェロニカの声は低い。
アリスは肩をすくめた。
ベアトは二人のやり取りを、まるで飼い慣らした珍獣を見るような目で眺めていた。
『それで、アリス。奪取したデータは』
「もう送ってる。暗号化三重、偽装経路七つ、追跡妨害も込み。途中で拾おうとしたら相手のサーバーが吹っ飛ぶようにしておいた」
『相変わらず丁寧ですね』
「あはっ。丁寧とはよく言われないけど、まあいいや」
『ヴェロニカ』
「はい」
『貴女の戦闘ログも確認しました。対異能者殲滅機を単独で破壊。素晴らしい成果です』
「任務に必要な処理を行っただけです」
『謙虚ですね。けれど、その力はもっと誇っていい。貴女は、貴女の一族の中でも特別な花です』
ヴェロニカの左頬の星型の痣が、わずかに疼いた。
一族。
その言葉を聞くたび、胸の奥に古い痛みが走る。
滅びゆく異能者の部族。
自分はその生き残り。
だからこそ、彼女はガーデンにいる。
一族を再興するための資金と力を得るために。
「……過分な評価です」
『過分ではありません。貴女は私の期待に応え続けている』
ベアトは優しく微笑んだ。
『これからも、私のために働いてくださいね』
「承知しました」
ヴェロニカは頭を下げる。
アリスはその横で、口元に笑みを浮かべながら通信画面を覗き込んだ。
「で、次は? まさか休暇とか言わないよね。そんなつまんないこと、ベアト様は言わないでしょ?」
『ええ。すぐにではありませんが、貴女たちには次の任務があります』
「いいね。退屈しない庭は好きだよ」
『では、帰還後に詳細を伝えます。二人とも、戻ってきなさい』
通信が切れる。
雨音だけが屋上に残った。
ヴェロニカは立ち上がり、アリスを見た。
「貴様は、なぜあの方にあそこまで無礼な態度を取る」
「ベアト様が怒らないから」
「理由になっていない」
「怒ったら怒ったで面白いし」
「本当に性根が腐っているな」
「あはっ。褒め言葉として受け取るよ」
アリスは屋上の縁に腰掛け、片足をぶらぶらと揺らした。
「でもさ、先輩。ベアト様って退屈しないよ。普通の支配者は、偉そうに命令して終わり。でもあの人は違う。都市そのものを庭に変えようとしてる。人間も、異能者も、機械も、全部まとめて生態系に組み込む気だ」
楽しそうに笑う。
「狂ってるよね。だから面白い」
「理解しがたい価値観だ」
「先輩は真面目すぎるんだよ」
「貴様が不真面目すぎるだけだ」
ヴェロニカはそう言って歩き出した。
帰還予定地点へ向かうために。
だが、その数分後。
二人の手元に、緊急通信が割り込んだ。
無機質な警報音。
通常の任務通知ではない。
ガーデン最高階層からの、強制命令。
『緊急指令』
機械音声が冷たく響く。
『ベアト様より直々の勅命である。ヴェロニカ、アリス。帰還予定を変更し、直ちに両名の追跡・排除に当たれ』
ヴェロニカの表情が引き締まる。
『繰り返す。対象は抹殺、あるいは再起不能の状態での捕獲を許可する』
アリスの笑みが深くなった。
「あはっ。いいね。帰宅前の追加ステージだ」
「対象データを表示しろ」
ヴェロニカが命じる。
空中に、二人の少女の映像が浮かび上がった。
一人は姉。
キョウカ。
挑発的な笑みを浮かべ、巨大な金属製のガントレットを装着している。視線は強く、まるで世界そのものに喧嘩を売っているようだった。
もう一人は妹。
ハルカ。
あどけない顔立ち。純粋そうな微笑み。けれどその瞳の奥には、冷たい観察者の光がある。
『対象は特区第十三エリアより脱走した高危険度異能者。姉、キョウカ。能力、超高密度化による怪力。妹、ハルカ。能力、局所的天候操作。両名はすでに追跡部隊三班を突破。被害多数』
「三班を突破?」
ヴェロニカが眉を寄せる。
「ただの脱走者ではないな」
「そりゃそうでしょ。抹殺許可まで出てるんだから」
アリスは手袋の指先で空中のデータを弾いた。
「最終検知座標は旧第七工業区。もう廃墟だね。監視カメラは死んでる。通信網も穴だらけ。逃げるには悪くない」
「移動する」
「了解、先輩」
二人は雨の都市を駆け抜けた。
高架を越え、崩れた高速道路を渡り、ネオンの届かない旧工業区へ向かう。
そこは、かつて都市の心臓部のひとつだった場所だ。
だが今は違う。
廃工場。
崩れた倉庫。
錆びた鉄骨。
雨水の溜まった道路。
高層ビル街の光から切り離された、忘れられた区画だった。
空は重い雲に覆われている。
雨が降っていた。
冷たい雨。
肌に触れた瞬間、体温を奪うような雨だった。
ヴェロニカは廃墟の中央で足を止めた。
「……おかしい」
「何が?」
「静かすぎる」
アリスは近くの壊れた端末へ手袋で触れた。
反応はない。
「あはっ。カメラ全滅。センサーも沈黙。通信ログも切れてる。見事に空っぽだね」
「対象は」
「座標的にはこの辺。けど、熱源反応なし。電子反応なし。足跡も雨で流れてる」
「逃げたか」
「それにしては綺麗すぎる」
アリスの声から、少しだけ遊びの色が消えた。
「痕跡がないんじゃない。痕跡を見せないように、環境そのものが調整されてる」
ヴェロニカは目を細める。
雨。
霧。
湿度。
冷たい空気。
崩れたビルの窓に反射する、淡い街明かり。
そのすべてが、妙に均一だった。
「ハルカの天候操作か」
「多分ね。雨で熱を散らして、霧で視界を潰して、空気の層で光を曲げてる。あはっ、子どものくせに嫌な隠れ方するじゃん」
ヴェロニカは返事をしなかった。
彼女の左頬の星型の痣が、かすかに光る。
エルフ特有の動体視力と感覚が、廃墟の違和感を拾い上げていく。
雨粒の落ち方。
水溜まりの波紋。
霧の流れ。
光の屈折。
何もないはずの空間に、ほんのわずかな歪みがある。
次の瞬間。
ヴェロニカはアリスの襟首を掴み、横へ跳んだ。
「うわっ、乱暴!」
直後、二人が立っていた場所の地面が爆ぜた。
巨大な金属の拳が、コンクリートを粉々に砕いていた。
「チッ。避けたか」
霧の中から、一人の少女が姿を現す。
キョウカ。
映像で見たよりも、ずっと荒々しい気配を纏っていた。
腕に装着された巨大なガントレットが、雨に濡れて鈍く光っている。その拳は地面にめり込み、周囲のコンクリートを蜘蛛の巣状に割っていた。
キョウカは不敵に笑う。
「なかなかいい反応じゃねえか、組織の犬」
ヴェロニカはアリスを放し、前へ出た。
「特区第十三エリア脱走個体、キョウカだな」
「個体って呼ぶな。アタシには名前がある」
「ならば名を呼んでやる。キョウカ。投降しろ」
「はっ」
キョウカは笑った。
「投降? クソ野郎どもの檻に戻れってか? 寝言は寝て言えよ、エルフ女」
その背後で、霧が静かに揺れた。
小さな影。
ハルカだった。
雨の向こうに立つ彼女は、あどけない笑みを浮かべている。
だが、その瞳は冷たい。
「お姉ちゃん、あの金髪の人、強いよ」
「見りゃ分かる」
「後ろのピンクの人は、たぶん機械を触る人。近づけない方がいい」
「あはっ。初対面で正解。頭いいね、ハルカちゃん」
アリスが笑う。
「でも、私を近づけない方がいいって分かってるなら、もう少し遠くにいた方がよかったんじゃない?」
彼女が指を動かす。
だが、周囲の電子機器は沈黙したままだ。
ハルカが首を傾げる。
「この辺の機械、濡らして壊しておいたよ」
「……へえ」
アリスの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「やるじゃん」
「褒めても何も出ないよ」
「別に褒めてない。興味が湧いただけ」
雨が強くなる。
ハルカの周囲で気圧が変化し、冷たい霧がさらに濃くなる。
ヴェロニカは身構えた。
キョウカは拳を引き抜き、ガントレットを鳴らす。
「ハルカに手ぇ出したら、潰す」
「任務対象を無力化する。それだけだ」
「なら、先にアタシを倒してみろよ」
キョウカが踏み込む。
地面が砕ける。
その加速は、見た目の荒々しさに反して無駄がなかった。一直線に見えて、アリスの位置を同時に塞ぐ角度。ヴェロニカの背後を取らせない足運び。脳筋ではない。戦い方を知っている。
ヴェロニカは拳を受け流した。
衝撃が腕に響く。
重い。
人間の拳ではない。
だが、受けられないほどではない。
「力任せに見えて、頭は回るようだな」
「そりゃどうも」
キョウカは笑った。
「アタシをバカだと思ってくれる奴は、だいたい早死にするぜ」
その瞬間、足元の水溜まりが凍りついた。
ハルカの操作。
ヴェロニカの足が一瞬だけ滑る。
キョウカの拳が、その隙を逃さず迫った。
しかし、ヴェロニカは倒れない。
左頬の星が輝く。
彼女は片足で氷を砕き、拳を紙一重で避けた。
風圧で髪が揺れる。
頬を一筋、雨水が伝った。
「……なるほど」
ヴェロニカは低く呟く。
「姉が正面から圧力をかけ、妹が環境を操作して隙を作る。よく訓練された連携だ」
「訓練じゃねえ」
キョウカが睨む。
「ずっと一緒に生き残ってきただけだ」
その言葉に、ヴェロニカの胸がわずかに軋んだ。
理由は分からない。
ただ、その響きが妙に耳に残った。
アリスは背後で、黒い手袋を軽く鳴らしている。
「あはっ。面白くなってきた」
雨。
霧。
廃墟。
逃げる姉妹。
追う猟犬たち。
ガーデンから下された命令は、抹殺あるいは再起不能での捕獲。
ヴェロニカは拳を握った。
任務ならば、遂行する。
そのはずだった。
だが、目の前の姉妹はただの脱走個体には見えない。
少なくとも、キョウカの瞳にある怒りも、ハルカの瞳にある冷たい覚悟も、処分対象という言葉だけで片付けていいものではなかった。
「ヴェロニカ先輩」
アリスが笑う。
「どうする?」
ヴェロニカは短く答えた。
「捕らえる」
「殺さないの?」
「情報が足りない」
「あはっ。了解」
キョウカが口角を吊り上げる。
「来いよ、組織の犬。アタシらを檻に戻せるもんならな」
ハルカは静かに手を上げた。
雨がさらに冷たくなる。
廃墟の空気が歪む。
ヴェロニカは一歩踏み出した。
この時、彼女はまだ気づいていなかった。
この任務が、単なる追跡では終わらないことを。
この姉妹との出会いが、自分の中に眠っていた疑念を呼び覚ますことを。
そして、ガーデンという名の庭に、最初の亀裂を入れることを。
冷たい雨の中、四人の影が同時に動いた。