紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode2 雨の廃墟と脱走姉妹

 夜の高層ビル群を、雨が斜めに叩いていた。

 

 ヴェロニカとアリスは、任務完了地点からほど近い廃ビルの屋上に立っていた。背後では、先ほど侵入した研究施設が完全に沈黙している。警備システムも、追跡ドローンも、中央サーバーも、すべてアリスの仕掛けたウイルスによって機能を失っていた。

 

 任務は成功。

 

 重要データは奪取済み。

 

 追っ手も全排除。

 

 それでもヴェロニカの表情は晴れない。

 

 雨に濡れた金髪を払いながら、彼女は通信端末を起動した。

 

 空中に淡い緑色の紋章が浮かび上がる。

 

 月桂冠を模した、ガーデンの紋章。

 

「こちらヴェロニカ。任務を完了した。指定データの回収に成功。追跡部隊は全て沈黙させた」

 

 数秒の沈黙。

 

 やがて、通信画面に一人の女の姿が映し出された。

 

 若い女だった。

 

 だが、その穏やかな笑みには、年齢とは不釣り合いな支配者の風格がある。

 

 薄く閉じた瞳。

 

 整った顔立ち。

 

 頭には月桂冠のような葉の冠。

 

 背後には、美しい蝶の翅を思わせる巨大な影が広がっている。翅の模様は鮮やかでありながら、どこか毒々しい。見る者に、美より先に危険を感じさせる色だった。

 

 ベアト。

 

 ガーデンの統括者。

 

 都市の裏側に根を張る巨大組織を束ねる、静かなる独裁者。

 

『ご苦労さまでした、ヴェロニカ。アリス』

 

 ベアトの声は、雨音の中でも不思議とはっきり響いた。

 

『とても見事な働きです。施設ひとつを沈黙させながら、必要なデータは完全に持ち帰る。やはり、貴女たちは私の庭でも特に美しい枝ですね』

 

 ヴェロニカは表情を変えず、片膝をついた。

 

「光栄です。ベアト様」

 

 一方で、アリスは隣で退屈そうに欠伸をしていた。

 

「あはっ。褒めてくれるのはいいけどさ、ベアト様。あの施設、守りが雑だったよ。あれで最高機密とか名乗るの、ちょっと恥ずかしくない?」

 

 ヴェロニカが横目で睨む。

 

「アリス。言葉を慎め」

 

「様は付けてるじゃん」

 

「態度を慎めと言っている」

 

「それは無理」

 

 アリスは黒い革手袋をひらひらと振った。

 

「私は面白そうだからベアト様の言うことを聞いてるだけ。敬ってるわけじゃないし」

 

 普通なら、その場で処分されてもおかしくない物言いだった。

 

 しかしベアトは怒らない。

 

 むしろ、その無礼すら愛でるように微笑んだ。

 

『構いません。アリスのそういうところも、私は気に入っています』

 

「ほら、ベアト様は話が分かる」

 

「調子に乗るな」

 

 ヴェロニカの声は低い。

 

 アリスは肩をすくめた。

 

 ベアトは二人のやり取りを、まるで飼い慣らした珍獣を見るような目で眺めていた。

 

『それで、アリス。奪取したデータは』

 

「もう送ってる。暗号化三重、偽装経路七つ、追跡妨害も込み。途中で拾おうとしたら相手のサーバーが吹っ飛ぶようにしておいた」

 

『相変わらず丁寧ですね』

 

「あはっ。丁寧とはよく言われないけど、まあいいや」

 

『ヴェロニカ』

 

「はい」

 

『貴女の戦闘ログも確認しました。対異能者殲滅機を単独で破壊。素晴らしい成果です』

 

「任務に必要な処理を行っただけです」

 

『謙虚ですね。けれど、その力はもっと誇っていい。貴女は、貴女の一族の中でも特別な花です』

 

 ヴェロニカの左頬の星型の痣が、わずかに疼いた。

 

 一族。

 

 その言葉を聞くたび、胸の奥に古い痛みが走る。

 

 滅びゆく異能者の部族。

 

 自分はその生き残り。

 

 だからこそ、彼女はガーデンにいる。

 

 一族を再興するための資金と力を得るために。

 

「……過分な評価です」

 

『過分ではありません。貴女は私の期待に応え続けている』

 

 ベアトは優しく微笑んだ。

 

『これからも、私のために働いてくださいね』

 

「承知しました」

 

 ヴェロニカは頭を下げる。

 

 アリスはその横で、口元に笑みを浮かべながら通信画面を覗き込んだ。

 

「で、次は? まさか休暇とか言わないよね。そんなつまんないこと、ベアト様は言わないでしょ?」

 

『ええ。すぐにではありませんが、貴女たちには次の任務があります』

 

「いいね。退屈しない庭は好きだよ」

 

『では、帰還後に詳細を伝えます。二人とも、戻ってきなさい』

 

 通信が切れる。

 

 雨音だけが屋上に残った。

 

 ヴェロニカは立ち上がり、アリスを見た。

 

「貴様は、なぜあの方にあそこまで無礼な態度を取る」

 

「ベアト様が怒らないから」

 

「理由になっていない」

 

「怒ったら怒ったで面白いし」

 

「本当に性根が腐っているな」

 

「あはっ。褒め言葉として受け取るよ」

 

 アリスは屋上の縁に腰掛け、片足をぶらぶらと揺らした。

 

「でもさ、先輩。ベアト様って退屈しないよ。普通の支配者は、偉そうに命令して終わり。でもあの人は違う。都市そのものを庭に変えようとしてる。人間も、異能者も、機械も、全部まとめて生態系に組み込む気だ」

 

 楽しそうに笑う。

 

「狂ってるよね。だから面白い」

 

「理解しがたい価値観だ」

 

「先輩は真面目すぎるんだよ」

 

「貴様が不真面目すぎるだけだ」

 

 ヴェロニカはそう言って歩き出した。

 

 帰還予定地点へ向かうために。

 

 だが、その数分後。

 

 二人の手元に、緊急通信が割り込んだ。

 

 無機質な警報音。

 

 通常の任務通知ではない。

 

 ガーデン最高階層からの、強制命令。

 

『緊急指令』

 

 機械音声が冷たく響く。

 

『ベアト様より直々の勅命である。ヴェロニカ、アリス。帰還予定を変更し、直ちに両名の追跡・排除に当たれ』

 

 ヴェロニカの表情が引き締まる。

 

『繰り返す。対象は抹殺、あるいは再起不能の状態での捕獲を許可する』

 

 アリスの笑みが深くなった。

 

「あはっ。いいね。帰宅前の追加ステージだ」

 

「対象データを表示しろ」

 

 ヴェロニカが命じる。

 

 空中に、二人の少女の映像が浮かび上がった。

 

 一人は姉。

 

 キョウカ。

 

 挑発的な笑みを浮かべ、巨大な金属製のガントレットを装着している。視線は強く、まるで世界そのものに喧嘩を売っているようだった。

 

 もう一人は妹。

 

 ハルカ。

 

 あどけない顔立ち。純粋そうな微笑み。けれどその瞳の奥には、冷たい観察者の光がある。

 

『対象は特区第十三エリアより脱走した高危険度異能者。姉、キョウカ。能力、超高密度化による怪力。妹、ハルカ。能力、局所的天候操作。両名はすでに追跡部隊三班を突破。被害多数』

 

「三班を突破?」

 

 ヴェロニカが眉を寄せる。

 

「ただの脱走者ではないな」

 

「そりゃそうでしょ。抹殺許可まで出てるんだから」

 

 アリスは手袋の指先で空中のデータを弾いた。

 

「最終検知座標は旧第七工業区。もう廃墟だね。監視カメラは死んでる。通信網も穴だらけ。逃げるには悪くない」

 

「移動する」

 

「了解、先輩」

 

 二人は雨の都市を駆け抜けた。

 

 高架を越え、崩れた高速道路を渡り、ネオンの届かない旧工業区へ向かう。

 

 そこは、かつて都市の心臓部のひとつだった場所だ。

 

 だが今は違う。

 

 廃工場。

 

 崩れた倉庫。

 

 錆びた鉄骨。

 

 雨水の溜まった道路。

 

 高層ビル街の光から切り離された、忘れられた区画だった。

 

 空は重い雲に覆われている。

 

 雨が降っていた。

 

 冷たい雨。

 

 肌に触れた瞬間、体温を奪うような雨だった。

 

 ヴェロニカは廃墟の中央で足を止めた。

 

「……おかしい」

 

「何が?」

 

「静かすぎる」

 

 アリスは近くの壊れた端末へ手袋で触れた。

 

 反応はない。

 

「あはっ。カメラ全滅。センサーも沈黙。通信ログも切れてる。見事に空っぽだね」

 

「対象は」

 

「座標的にはこの辺。けど、熱源反応なし。電子反応なし。足跡も雨で流れてる」

 

「逃げたか」

 

「それにしては綺麗すぎる」

 

 アリスの声から、少しだけ遊びの色が消えた。

 

「痕跡がないんじゃない。痕跡を見せないように、環境そのものが調整されてる」

 

 ヴェロニカは目を細める。

 

 雨。

 

 霧。

 

 湿度。

 

 冷たい空気。

 

 崩れたビルの窓に反射する、淡い街明かり。

 

 そのすべてが、妙に均一だった。

 

「ハルカの天候操作か」

 

「多分ね。雨で熱を散らして、霧で視界を潰して、空気の層で光を曲げてる。あはっ、子どものくせに嫌な隠れ方するじゃん」

 

 ヴェロニカは返事をしなかった。

 

 彼女の左頬の星型の痣が、かすかに光る。

 

 エルフ特有の動体視力と感覚が、廃墟の違和感を拾い上げていく。

 

 雨粒の落ち方。

 

 水溜まりの波紋。

 

 霧の流れ。

 

 光の屈折。

 

 何もないはずの空間に、ほんのわずかな歪みがある。

 

 次の瞬間。

 

 ヴェロニカはアリスの襟首を掴み、横へ跳んだ。

 

「うわっ、乱暴!」

 

 直後、二人が立っていた場所の地面が爆ぜた。

 

 巨大な金属の拳が、コンクリートを粉々に砕いていた。

 

「チッ。避けたか」

 

 霧の中から、一人の少女が姿を現す。

 

 キョウカ。

 

 映像で見たよりも、ずっと荒々しい気配を纏っていた。

 

 腕に装着された巨大なガントレットが、雨に濡れて鈍く光っている。その拳は地面にめり込み、周囲のコンクリートを蜘蛛の巣状に割っていた。

 

 キョウカは不敵に笑う。

 

「なかなかいい反応じゃねえか、組織の犬」

 

 ヴェロニカはアリスを放し、前へ出た。

 

「特区第十三エリア脱走個体、キョウカだな」

 

「個体って呼ぶな。アタシには名前がある」

 

「ならば名を呼んでやる。キョウカ。投降しろ」

 

「はっ」

 

 キョウカは笑った。

 

「投降? クソ野郎どもの檻に戻れってか? 寝言は寝て言えよ、エルフ女」

 

 その背後で、霧が静かに揺れた。

 

 小さな影。

 

 ハルカだった。

 

 雨の向こうに立つ彼女は、あどけない笑みを浮かべている。

 

 だが、その瞳は冷たい。

 

「お姉ちゃん、あの金髪の人、強いよ」

 

「見りゃ分かる」

 

「後ろのピンクの人は、たぶん機械を触る人。近づけない方がいい」

 

「あはっ。初対面で正解。頭いいね、ハルカちゃん」

 

 アリスが笑う。

 

「でも、私を近づけない方がいいって分かってるなら、もう少し遠くにいた方がよかったんじゃない?」

 

 彼女が指を動かす。

 

 だが、周囲の電子機器は沈黙したままだ。

 

 ハルカが首を傾げる。

 

「この辺の機械、濡らして壊しておいたよ」

 

「……へえ」

 

 アリスの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。

 

「やるじゃん」

 

「褒めても何も出ないよ」

 

「別に褒めてない。興味が湧いただけ」

 

 雨が強くなる。

 

 ハルカの周囲で気圧が変化し、冷たい霧がさらに濃くなる。

 

 ヴェロニカは身構えた。

 

 キョウカは拳を引き抜き、ガントレットを鳴らす。

 

「ハルカに手ぇ出したら、潰す」

 

「任務対象を無力化する。それだけだ」

 

「なら、先にアタシを倒してみろよ」

 

 キョウカが踏み込む。

 

 地面が砕ける。

 

 その加速は、見た目の荒々しさに反して無駄がなかった。一直線に見えて、アリスの位置を同時に塞ぐ角度。ヴェロニカの背後を取らせない足運び。脳筋ではない。戦い方を知っている。

 

 ヴェロニカは拳を受け流した。

 

 衝撃が腕に響く。

 

 重い。

 

 人間の拳ではない。

 

 だが、受けられないほどではない。

 

「力任せに見えて、頭は回るようだな」

 

「そりゃどうも」

 

 キョウカは笑った。

 

「アタシをバカだと思ってくれる奴は、だいたい早死にするぜ」

 

 その瞬間、足元の水溜まりが凍りついた。

 

 ハルカの操作。

 

 ヴェロニカの足が一瞬だけ滑る。

 

 キョウカの拳が、その隙を逃さず迫った。

 

 しかし、ヴェロニカは倒れない。

 

 左頬の星が輝く。

 

 彼女は片足で氷を砕き、拳を紙一重で避けた。

 

 風圧で髪が揺れる。

 

 頬を一筋、雨水が伝った。

 

「……なるほど」

 

 ヴェロニカは低く呟く。

 

「姉が正面から圧力をかけ、妹が環境を操作して隙を作る。よく訓練された連携だ」

 

「訓練じゃねえ」

 

 キョウカが睨む。

 

「ずっと一緒に生き残ってきただけだ」

 

 その言葉に、ヴェロニカの胸がわずかに軋んだ。

 

 理由は分からない。

 

 ただ、その響きが妙に耳に残った。

 

 アリスは背後で、黒い手袋を軽く鳴らしている。

 

「あはっ。面白くなってきた」

 

 雨。

 

 霧。

 

 廃墟。

 

 逃げる姉妹。

 

 追う猟犬たち。

 

 ガーデンから下された命令は、抹殺あるいは再起不能での捕獲。

 

 ヴェロニカは拳を握った。

 

 任務ならば、遂行する。

 

 そのはずだった。

 

 だが、目の前の姉妹はただの脱走個体には見えない。

 

 少なくとも、キョウカの瞳にある怒りも、ハルカの瞳にある冷たい覚悟も、処分対象という言葉だけで片付けていいものではなかった。

 

「ヴェロニカ先輩」

 

 アリスが笑う。

 

「どうする?」

 

 ヴェロニカは短く答えた。

 

「捕らえる」

 

「殺さないの?」

 

「情報が足りない」

 

「あはっ。了解」

 

 キョウカが口角を吊り上げる。

 

「来いよ、組織の犬。アタシらを檻に戻せるもんならな」

 

 ハルカは静かに手を上げた。

 

 雨がさらに冷たくなる。

 

 廃墟の空気が歪む。

 

 ヴェロニカは一歩踏み出した。

 

 この時、彼女はまだ気づいていなかった。

 

 この任務が、単なる追跡では終わらないことを。

 

 この姉妹との出会いが、自分の中に眠っていた疑念を呼び覚ますことを。

 

 そして、ガーデンという名の庭に、最初の亀裂を入れることを。

 

 冷たい雨の中、四人の影が同時に動いた。

 

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