瓦礫の隙間に咲いた小さな野の花は、夜明けの風に揺れていた。
それは、ベアトが好んだ豪奢な花ではない。
人を喰らう毒花でも、都市を締め上げる蔦でもない。
道端に咲いていれば、誰にも名を問われず、踏まれればそれきりになってしまうような、ありふれた花だった。
けれど、その花は確かにそこにあった。
灰色の瓦礫の中に根を下ろし、ルナの祈りを受けて淡く光っている。
人々はその光を囲んでいた。
誰かが薄いスープを配り、誰かが焦げたパンを分ける。ライツの光が夜の名残を照らし、ルーゼが張った布の下で子どもたちが眠りかけている。フランは斧を傍らに置き、珍しく柔らかな顔で焚き火を見つめていた。
復興の宴。
そう呼ぶには、あまりにも貧しい。
食べ物は少なく、酒もなく、楽器もない。あるのは欠けた器と、煤けた鍋と、疲れ果てた人々の笑い声だけだ。
それでも、そこには確かに祝福があった。
生き残ったこと。
縛られなかったこと。
明日を作れること。
そのすべてが、粗末な焚き火の周りで静かに揺れていた。
ルナは花のそばに座っていた。
白いワンピースの裾はまだ破れている。指先に残ったひびも完全には消えていない。けれど、彼女の笑顔はもう、貼り付けられたものではなかった。
ぎこちなく、少し不安そうで、けれど温かい。
自分の胸の中に生まれた感情を、どう扱えばいいのか分からないまま、それでも笑おうとしている顔だった。
「ルナ、寒くないか」
ヴェロニカが尋ねる。
ルナは少し考えてから、首を横に振った。
「寒い。でも、嫌じゃない」
「そうか」
「寒いと、火があたたかいって分かる」
ヴェロニカは小さく息を吐いた。
「良い答えだ」
少し離れた場所で、キョウカが鍋をかき混ぜている。
「おい、ヴェロニカ! そろそろ食えよ! 冷めるぞ!」
「今行く」
「あはっ、ヴェロニカ、早く行った方がいいよ。キョウカちゃんが勝手に辛い粉入れようとしてる」
「おいアリス、チクるんじゃねえ!」
「事実を共有しただけ」
ハルカが鍋の横から、じっと姉を見上げていた。
「お姉ちゃん。入れたら、みんな食べられない」
「ほんのちょっとだって」
「お姉ちゃんのちょっとは、普通の人の一瓶」
「そんなに入れねえよ!」
人々が笑う。
その笑い声が、瓦礫の街に広がった。
小さな花は、その笑い声を吸い込むように、淡く輝きを増した。
その光は地面へ染み込んでいく。
瓦礫の隙間を抜け、折れた配管の間を通り、かつてベアトの根が這っていた古い層を越え、さらに深く。
誰も知らない場所へ。
紅蓮都市の基底部。
摩天楼が建つよりも前。
ガーデンという組織が生まれるよりも前。
都市の設計図の初稿にだけ記され、その後、危険すぎるとして封印された最古の中枢。
都市全情報の原型。
神に等しい演算能力を持ちながら、誰にも管理できず、誰にも理解できなかった鋼の心臓。
ガーデン・コア。
ルナのハート・ビートが、その眠りに触れた。
――ドクン。
地底の奥で、巨大な何かが脈打った。
最初に異変に気づいたのは、アリスだった。
彼女は焼き切れたはずの手製端末をいじりながら、ふと表情を消した。
「……え」
画面に、あり得ない数値が走る。
復旧したばかりの街の電力が、地下の一点へ引き込まれていく。水道、通信、旧ガーデンの監視網、ベアトの亡霊を砕いた後に沈黙したはずの深層回線。そのすべてが、見えない穴へ吸い込まれていた。
「嘘でしょ」
アリスの声が震えた。
「出力、計測不能。座標は……セントラル・タワー跡地のさらに下。こんなの、都市図面に載ってない」
「アリス?」
ヴェロニカが振り返る。
その瞬間、大地が鳴いた。
低く、長く、腹の底を揺らすような音。
宴の笑い声が止まった。
子どもが泣き出し、ライツの光が揺らぐ。ルーゼが反射的にワイヤーを伸ばし、崩れかけた壁を固定した。フランは斧を掴む。
地面に亀裂が走った。
その割れ目から、黒い情報の奔流が溢れ出す。
月桂冠の赤黒いノイズとは違う。
もっと古く、もっと重く、もっと濃い。
都市がまだ都市になる前に沈められた、原初の泥のような情報だった。
「全員、下がれ!」
ヴェロニカが叫ぶ。
キョウカが鍋を蹴飛ばすようにして前に出た。
「また何か出てくるってのかよ!」
ハルカは耳を押さえ、顔を青ざめさせている。
「……風が、下から吹いてる。違う……風じゃない。記憶が、吹き上がってる……!」
黒い奔流が、空中で形を取り始めた。
人の輪郭。
蝶の翅。
葉の冠。
聞き覚えのある、傲慢な笑い声。
「……あは」
それは、歪んでいた。
「……あははははは!」
ヴェロニカの目が鋭くなる。
「ベアト……」
黒い奔流の中で、かつて討たれたはずの女が形を成していく。
だが、それはもう人間ではなかった。
肌には銀色の回路が走り、瞳は白銀に発光している。背後には無数の黄金のケーブルが、都市の血管のように蠢いていた。蝶の翅は半ばデータの粒子へ崩れ、月桂冠は鋼と光で編まれた王冠へ変質している。
ベアトは笑っていた。
「届いたわよ、ヴェロニカ。貴女たちが植えたその希望が、私を呼び戻してくれたの」
「貴様……まだ……」
「ええ。まだよ」
ベアトは両腕を広げた。
「私は消えなかった。消滅の寸前、情報の海を漂い、都市の最奥に触れた。そして見つけたの。ガーデンなどという小さな器ではない、本当の庭を」
彼女の背後で、地中から黒い巨塔がせり上がる。
鋼の心臓を抱えた、巨大な中枢構造体。
ガーデン・コア。
「これこそが真の庭。これこそが完成された世界。私は今、都市そのものの起源と一つになったのよ!」
ベアトが指を弾いた。
周囲の瓦礫が浮き上がる。
石片も、鉄骨も、壊れた端末も、空中で幾何学的な粒子へ分解され、無機質な立方体となって消えた。
「……物質をデータ化してる」
アリスが呻く。
「いや、違う。現実の方を、データの規則に合わせて書き換えてるんだ」
「できるのか、そんなことが」
「普通はできない。でもあれは、都市の基底システムそのものに触ってる。私たちが見てる現実の下敷きを、直接いじってるんだよ」
ハルカが膝をついた。
「……街の記憶が、あの人に無理やり書き換えられていく……。風が、自分の名前を忘れそうになってる……」
「ハルカ!」
キョウカが妹を支える。
そのまま、ベアトへ向かって地面を踏みしめた。
「だったらぶっ壊せばいいんだろ!」
キョウカの拳が超高密度化する。
炎ではない。
彼女の力は、純粋な質量と圧力。
拳一つで装甲も瓦礫も粉砕する怪力だ。
キョウカは一気に踏み込み、ベアトの前に立つ見えない壁へ拳を叩きつけた。
轟音。
だが、拳は届かなかった。
ベアトの手前に展開された「起源の壁」に触れた瞬間、キョウカの力は無機質な立方体の列へ変換され、空中で霧散した。
「っ、何だよこれ……!」
キョウカは弾き飛ばされ、ハルカが風で受け止める。
ベアトは愉悦に満ちた顔で見下ろした。
「無駄よ。今の私は都市そのもの。私の意志は、この場所の法。貴女たちの異能も、怒りも、希望も、すべて私の演算の中ではただの誤差にすぎない」
彼女はヴェロニカを見た。
「愛しい私の失敗作。今度こそ、貴女も、あのルナという生意気な心臓も、私の完璧な一部にしてあげる」
ルナはヴェロニカの背後にいた。
先ほどまで温かく輝いていた瞳が、不安に揺れている。
「ヴェロニカ……あれ、街じゃない」
「分かるのか」
「うん」
ルナは胸を押さえた。
「あれは、街の古い心臓。でも、泣いてない。笑ってもいない。ずっと、何も感じないまま、考え続けてる。ベアトが、そこに無理やり顔を作ってる」
ヴェロニカは剣を抜いた。
刃はまだ形を保っている。
だが、ベアトの周囲に広がる重圧の中で、魔力の輪郭が揺らいでいた。
「ベアト」
ヴェロニカの声は低い。
「貴様という女は、どこまで傲慢なのだ」
「傲慢?」
ベアトは笑った。
「違うわ。これは救済よ。壊れた街も、不完全な人間も、不確定な感情も、すべて初期化してあげる。私の意志に従って呼吸する、完璧で静かな世界へ」
ベアトが両腕を広げる。
ガーデン・コアが高周波のような音を放つ。
そして、彼女の足元から同心円状に白銀の波が広がった。
「見ていなさい。この汚れきった瓦礫の山を、今この瞬間から清算してあげるわ」
初期化の波動。
それが触れた場所では、崩れたビルも、仮設住宅も、焚き火の跡も、すべてがワイヤーフレームへ還元され、色彩を失っていった。
人々が悲鳴を上げる。
ライツの光が薄くなる。
ルーゼのワイヤーが輪郭を失いかける。
フランの斧の刃が、白い線だけの形へ変わっていく。
「あはっ、まずい、まずいって……!」
アリスが必死に端末を叩く。
「物理法則の書き換えプロトコルが走ってる! 既存データを不要ファイルとして削除して、ベアトの設計した真っ白な世界に上書きするつもりだ!」
「止められるか!」
「正面からは無理! 規模が違いすぎる!」
波動はさらに広がる。
キョウカが立ち上がろうとして、膝をついた。
「クソッ……体が、重い……。拳の使い方が、思い出せねえ……」
ハルカの周囲から風の音が消えかける。
「……風が、名前を忘れてる。気温も、湿度も、流れも、全部ただの数字にされていく……」
それは肉体的な疲労ではない。
キョウカが怪力の異能者であるという定義。
ハルカが気象を操る存在であるという輪郭。
それ自体が、世界の側から消されようとしていた。
ヴェロニカもまた、自分の魔力が薄くなるのを感じていた。
エルフとしての長い命。
騎士としての技。
左頬の星型の痣に宿る魔力。
すべてが、ベアトの初期化の中では不要なノイズとして処理されようとしている。
それでも、ヴェロニカは一歩踏み出した。
ワイヤーフレームになりかけた地面を踏みしめる。
「ベアト」
「何かしら、まだ口答えするの?」
「貴様は、どこまで行っても他者の呼吸を許さないのだな」
ヴェロニカは背後を振り返った。
そこには、ルナが立っていた。
初期化の波の中で、唯一、色を失っていない少女。
瓦礫に芽吹いた野の花のように、小さく、しかし確かに存在している。
「だが、忘れるな」
ヴェロニカは再びベアトを見据える。
「この街の鼓動は、もう貴様の計算機の中にはない」
ルナが一歩前へ出た。
胸の前で、震える指を重ねる。
小さなハート。
けれど、今回はルナ一人の鼓動ではない。
花を囲んで笑った人々。
瓦礫をどかした手。
名前を呼び合う声。
今日まで守ってきた、未完成な暮らし。
それらが、ルナの胸の奥で小さく脈打っている。
「ヴェロニカ」
ルナが言う。
「ルナ、こわい。でも、消えたくない」
「なら、立て」
ヴェロニカは剣を構えた。
「私たちも消えない」
ベアトは冷たく微笑んだ。
「ならば抗いなさい。貴女たちの自由が、都市の起源にどこまで届くか見せてみなさい」
黒い巨塔が天を衝く。
赤い月が、狂信的な輝きを放つベアトの姿を照らし出す。
初期化の波が、街を飲み込もうとしていた。
ヴェロニカは蒼く薄れかけた翼を広げる。
キョウカが歯を食いしばり、拳を握る。
ハルカが失われかけた風を呼び戻そうと、空へ手を伸ばす。
アリスが壊れかけの端末を抱え、笑った。
「あはっ。最終決戦の相手が都市の起源とか、冗談にしても規模が大きすぎるね」
「笑っている場合か」
「笑わないと怖いんだよ」
ヴェロニカは小さく頷いた。
「なら、笑っていろ。最後まで」
白銀の初期化が迫る。
その前に、彼女たちは立った。
不完全なまま。
傷だらけのまま。
それでも、自分たちの呼吸を守るために。
狂える神となったベアトと、都市の起源ガーデン・コア。
紅蓮都市の自由を賭けた最後の戦いが、今、始まった。