紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode23 沈黙への選択

 ルナが、胸の前で指を組んだ。

 

 小さなハート。

 

 ただそれだけの形が、白銀に崩れかけた世界の中で、唯一はっきりと色を持っていた。

 

 瞬間、音が消えた。

 

 いや、消えたのではない。

 

 都市そのものが発する巨大な拍動が、風の音も、瓦礫の軋みも、ベアトの笑い声さえも、すべて上書きしたのだ。

 

 ――ドクン。

 

 心臓を直接掴まれるような衝撃が、ヴェロニカの胸を貫いた。

 

 ワイヤーフレームへ還元されかけていた街が、激しく明滅する。色を失った仮設住宅の輪郭に、かすかな赤や青が戻り、消えかけた人々の足跡が、薄い光となって浮かび上がる。

 

 ルナのハート・ビートが、地底で吼えるガーデン・コアの波長と重なった。

 

 それは支配ではない。

 

 命令でもない。

 

 都市の最奥に眠っていた古い心臓へ、もう一つの心臓が返事をしたのだ。

 

「あはっ……嘘でしょ」

 

 アリスが端末を抱えたまま、目を見開く。

 

 画面には文字が映っていない。白い光と黒いノイズが、激しく押し合っているだけだった。だが、アリスには分かっていた。

 

 画面の向こう側で、都市中の情報が逆流している。

 

「街中のパケットも、ログも、残存電力も、旧ガーデンの深層回線も……全部、ベアトの支配を無視してルナちゃんへ流れてる」

 

 アリスの声が震える。

 

「都市のオーバーフローが起きてるんだ」

 

 地中を走る光ファイバーが光った。

 

 折れた鉄骨の内部に残った微弱な電流が、青白い線となって走る。

 

 大気に溶けていた魔力も、廃ビルに残った端末の記憶も、誰かが消し忘れた音声記録も、焼けた看板の制御チップも、すべてが光の奔流となってルナへ流れ込んでいった。

 

 ルナの体が、透き通るような白銀の光に包まれる。

 

「……あ」

 

 ルナの声が漏れた。

 

 いつもの笑顔は、そこにはない。

 

 代わりに、その瞳には膨大な感情が流れ込んでいた。

 

 都市に暮らしていた数えきれない人々の意識。

 

 止まった機械たちの記憶。

 

 瓦礫の下に積もった小さな願い。

 

 消えたくないという声。

 

 眠りたいという声。

 

 もう誰にも管理されたくないという声。

 

 ルナは震えた。

 

 だが、倒れなかった。

 

 彼女はもはや、ただの迷子の少女ではなかった。

 

 都市全体の声を受け止め、その痛みと願いを一身に宿す、紅蓮都市の心臓だった。

 

「馬鹿な……!」

 

 ベアトの顔から余裕が消えた。

 

 銀色の回路に覆われた彼女の肌が、怒りでひび割れるように明滅する。

 

「ガーデン・コアは私のものよ! 都市の起源は、私の庭の根だ! どうして、たかが心臓風情が、私から主導権を奪うの!」

 

 ベアトの背から伸びる黄金のケーブルが、一斉にルナへ襲いかかった。

 

 だが、その攻撃は届かない。

 

 ルナの周囲に広がる白銀の波紋に触れた瞬間、ケーブルは水面に落ちた石のように揺らぎ、情報の海へ溶けて消えた。

 

 ベアトが歯噛みする。

 

「私を拒むの? この都市が? 私がどれほど痛みに耐えて、どれほど汚れた世界を救おうとしたかも知らずに!」

 

「……ベアト」

 

 ヴェロニカは剣を構えたまま、彼女を見据えた。

 

「貴女は救おうとしたのではない。すべてを自分の形に閉じ込めようとしただけだ」

 

「同じことよ!」

 

 ベアトが叫ぶ。

 

「みんなが私の一部になれば、争いも孤独も消える! 痛みも、裏切りも、別れもない! 永遠に静かな庭で、誰も傷つかずに済む!」

 

「それは生きているとは言わん」

 

 ヴェロニカの声は低く、硬かった。

 

「ただ止まっているだけだ」

 

 ベアトの瞳が白銀に燃える。

 

 その背後で、エルフィとフィーナが動いた。

 

 都市の免疫システムとして、ルナの拒絶反応を排除するために。

 

「対象ルナ、都市中枢への異常干渉を確認」

 

 エルフィが盾を構えた。

 

「排除します」

 

「ねえ、壊していいの?」

 

 フィーナが笑う。

 

「あの子の中、すごくいっぱい詰まってる。裂いたらきっと、綺麗な悲鳴が出るよ」

 

「させるかよ!」

 

 キョウカが前へ出る。

 

 拳が超高密度化し、周囲の空気が重く沈む。拳そのものが巨大な杭のように、あり得ない密度へ変わっていく。

 

「ルナに触りたきゃ、アタシを踏み越えてからにしろ!」

 

 キョウカがエルフィへ殴りかかった。

 

 エルフィの盾がその一撃を受け止める。凄まじい衝撃で周囲の瓦礫が砕けた。だが、エルフィは防御姿勢を崩さない。

 

「物理衝撃、記録。反撃します」

 

 エルフィの剣が閃く。

 

 キョウカは体をひねってかわし、拳をもう一度叩き込む。

 

 力と技。

 

 生身の怪力と、都市に最適化された防御機構がぶつかり合う。

 

 その横で、フィーナの赤黒いデータ糸が、ルナへ向かって伸びた。

 

「ハルカ!」

 

「……うん!」

 

 ハルカが両手を広げる。

 

 風が生まれた。

 

 白銀に初期化されかけていた空気に、温度差が戻る。湿度が戻る。雲の気配が戻る。ハルカは自分の力で、世界にもう一度「天気」を思い出させた。

 

 冷たい突風が吹き抜け、フィーナのデータ糸の経路を乱す。

 

「へえ。風で私の糸を曲げるんだ」

 

 フィーナは楽しげに笑った。

 

「じゃあ、その風ごと汚してあげる」

 

 赤黒い侵食が、気流に乗ろうとする。

 

 ハルカは歯を食いしばり、空へ手を伸ばした。

 

「……雨」

 

 小さく呟く。

 

「全部、洗って」

 

 頭上に薄い雲が生まれ、細かな雨粒が降り始めた。雨はデータ糸に付着した赤黒いノイズを洗い流し、地面へ落としていく。

 

「アリス!」

 

 ヴェロニカが叫ぶ。

 

「ルナの状態は!」

 

 アリスは、端末を睨んでいた。

 

 彼女の指は火花を散らすキーの上で止まっていた。

 

 いつもの笑みはある。

 

 だが、唇が震えている。

 

「あは……」

 

「アリス?」

 

「嘘でしょ」

 

 その声は、ひどく小さかった。

 

「そんなの、解って言わないでよ」

 

「何が分かった」

 

 ヴェロニカの胸に、冷たいものが落ちる。

 

 アリスは顔を上げた。

 

 その瞳には、怒りと恐怖と、どうしようもない悲しみがあった。

 

「ガーデン・コアを止める方法が見つかった」

 

「なら言え」

 

「ルナちゃんのハートで、コアの中に入り込んだベアトの意志を拒絶する。都市そのものが、あの女を自分の一部じゃないって判断すれば、ガーデン・コアは停止する」

 

「ならば、すぐに実行しろ。ルナなら――」

 

「違う!」

 

 アリスが叫んだ。

 

 ヴェロニカは言葉を失う。

 

 アリスは端末を握りしめ、涙をこぼしそうな顔で首を振った。

 

「ルナちゃんは今、都市の全データと完全に繋がってる。彼女がベアトを拒絶するってことは、ベアトごとコアの深層へ潜って、全部の接続を切るってことなんだ」

 

 雨の音が、妙にはっきり聞こえた。

 

「接続を切れば、街は止まる。電力も、水も、通信も、ルナちゃんのハート・ビートで動いていたものは全部ブラックアウトする」

 

「それだけか」

 

 ヴェロニカは問う。

 

 答えを聞きたくないまま。

 

 アリスは歯を食いしばった。

 

「それだけじゃない。ルナちゃんの今の形も、保てなくなるかもしれない。都市の心臓として繋がったものを、全部手放すんだよ。戻ってこられる保証なんて、どこにもない」

 

 ヴェロニカの剣先が、わずかに揺れた。

 

 ベアトを止めれば、街は沈黙する。

 

 ルナも、今のルナのままではいられないかもしれない。

 

 彼女たちが守ってきた灯りも、水も、情報の鼓動も、すべて消える。

 

 やっと芽吹いた希望が、暗闇の中へ沈む。

 

「あはははは!」

 

 ベアトの笑い声が響いた。

 

 彼女はこの答えを待っていたかのように、恍惚とした顔で両腕を広げる。

 

「素晴らしい結末じゃない! 私を拒めば、貴女たちが愛した街も沈黙する! 私を受け入れれば、永遠に美しい庭で眠れる!」

 

 ベアトはルナを指差した。

 

「選びなさい。暗黒の静寂の中で、不完全な自由に飢えるか。それとも、私の庭の一部として、完全な安寧を得るか!」

 

 ヴェロニカは答えない。

 

 答えられなかった。

 

 その時、ルナが振り返った。

 

 白銀の光に包まれた姿は、ひどく儚い。けれど、その瞳にはもう空白はなかった。

 

 ルナ自身の意志が、そこにあった。

 

「ヴェロニカ」

 

「ルナ」

 

「ルナ、分かるよ」

 

 ルナは胸に手を当てる。

 

「街のみんなは、暗闇を怖がってない」

 

「……何?」

 

「怖いけど、それでもいいって言ってる。誰かにずっと起こされて、ずっと管理されて、ずっと同じ笑顔でいるより……一回、ちゃんと自分で、おやすみなさいが言いたいんだよ」

 

 ルナは微笑んだ。

 

 その笑みは、かつての貼り付いたものではない。

 

 怖さを知った上で、それでも前へ進もうとする顔だった。

 

「ルナも、こわい」

 

 ヴェロニカの胸が締めつけられる。

 

「ルナ、消えたくない。みんなとスープ飲みたい。キョウカの辛いやつは、少しだけにしてほしい。ハルカの風、もっと聞きたい。アリスの変な機械、また光るところ見たい」

 

 ルナは少しだけ、声を震わせた。

 

「ヴェロニカと、手をつないで歩きたい」

 

「なら――」

 

「でも」

 

 ルナは首を横に振った。

 

「ベアトに街をあげたら、みんなが自分の声を忘れちゃう」

 

 彼女はもう一度、指を組み始める。

 

「ルナは、心臓だから。みんなの声、聞こえるから」

 

「ルナ、貴女は……」

 

「ヴェロニカ」

 

 ルナの瞳に、温かな光が宿る。

 

「だいすき」

 

 その言葉は、まっすぐだった。

 

「だから、街の声を止めて。ベアトの声じゃなくて、みんなが自分で眠れるように」

 

 ヴェロニカは目を閉じた。

 

 胸の奥に、激しい痛みが走る。

 

 だが、それは逃げるための痛みではない。

 

 選ぶための痛みだった。

 

 彼女は一度だけ、深く息を吸った。

 

 そして目を開く。

 

「アリス」

 

「……嫌だよ」

 

 アリスは即答した。

 

「まだ何も言っていない」

 

「言わなくても分かる。準備しろって言うんでしょ」

 

「ああ」

 

「本当に嫌だ」

 

 アリスは涙を拭わず、端末に指を置いた。

 

「でも、ルナちゃんの意志を無駄にはできない。分かってる。分かってるけど、最悪だよ、こんなの」

 

「すまない」

 

「謝らないで。もっと腹立つ」

 

 アリスは笑った。

 

 泣きながら、笑った。

 

「あはっ。やってやるよ。世界一最低で、世界一大事なブラックアウトの準備を」

 

 ヴェロニカは頷く。

 

「ルナの意志を無駄にはしない」

 

 キョウカがエルフィの盾を押し返しながら吠えた。

 

「聞こえたぞ、ヴェロニカ! だったらこっちは、この硬い女をぶっ飛ばせばいいんだな!」

 

 ハルカが雨を強める。

 

「……フィーナは、私が止める。ルナちゃんのところには行かせない」

 

 ルナを背に、ヴェロニカは前へ出た。

 

 双子のエルフ。

 

 狂える神となったベアト。

 

 都市の起源ガーデン・コア。

 

 そのすべてが、彼女たちの前に立ちはだかっている。

 

 けれど、ヴェロニカはもう迷わなかった。

 

「世界が沈黙しても」

 

 彼女の背に、蒼い翼が広がる。

 

「私たちが、新しい鼓動を刻んでみせる」

 

 ルナの最後のハートが、白銀の光を増していく。

 

 街を救うために、街の息を一度止める。

 

 あまりにも悲しく、あまりにも自由な選択。

 

 その選択を守るため、ヴェロニカは剣を構え、最後の一歩を踏み出した。

 

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