ガーデン・コアの深淵は、庭というより巨大な神経だった。
足元には透明な床が広がり、その下を黄金の光が血流のように走っている。壁も天井もない。あるのは、無数のケーブルと、幾何学的に組み上がった黒い柱、そして中心で脈動する鋼の心臓だけだった。
その奥で、ベアトが笑っていた。
「あはははは! 来なさい、私の可愛い欠陥品たち! 神の祭壇で、その無益な足掻きを終わらせてあげるわ!」
その声が、コアの中を反響する。
ヴェロニカは、ルナの手を握り締めた。
ルナの体は白銀に淡く輝いている。彼女の小さなハートは、まだ完全には閉じていない。都市の全情報が、彼女の胸の奥へ流れ込んでいるのが、ヴェロニカにも分かった。
「歩けるか、ルナ」
「うん」
ルナは頷いた。
「こわい。でも、ヴェロニカの手、あたたかいから」
「なら離すな」
「離さない」
アリスが二人の横に並んだ。
抱えている端末は、もはや端末と呼べるかも怪しい。焦げた基板に、むき出しの配線。手袋の残存インターフェースと、拾い集めた妨害チップを無理やり繋いだだけの道具だ。
だが、それが今のアリスの武器だった。
「アリス、解析は」
「あはっ。無理」
即答だった。
だが、彼女は笑っている。
「でも、やる。ルナちゃんの同期を維持しながら、ベアトの防壁をこじ開ける。まともに突破はできないから、継ぎ目を探して傷を作る」
「一秒でいい」
「一秒なら、余計に高くつくよ」
「払えるものは少ないぞ」
「後でヴェロニカに一日中雑用させる」
「検討する」
「そこは即答してよ」
軽口を叩きながらも、アリスの指先には緊張が滲んでいた。
彼女が一歩前へ踏み出そうとした瞬間、黄金の光が二つに割れた。
エルフィとフィーナ。
白銀の髪を持つ双子のエルフが、静かに行く手を塞いだ。
右に立つエルフィは、細身の剣と盾を構えている。姿勢は正しく、瞳には揺らぎがない。
左に立つフィーナは、赤黒いデータ糸を指先に絡ませながら、楽しそうに笑っていた。
「排除します」
エルフィが告げる。
「コアの静寂を乱す者に、通行権限はありません」
「通してくれ、と言えば通すのか」
ヴェロニカが問う。
「通しません」
「なら、聞くだけ無駄だったな」
「確認は必要です。都市の免疫機構は、不要な感情判断を行いません」
エルフィの声は、驚くほど落ち着いていた。
ヴェロニカはその顔を見る。
同じ尖った耳。
同じエルフの血。
だが、彼女の瞳には、森も、家族も、故郷も映っていなかった。ただコアの光だけがあった。
「エルフィ」
ヴェロニカは名を呼んだ。
「貴女は、自分が何を守っているか分かっているのか」
「ガーデン・コア。都市の起源。ベアト様の意志」
「それは貴女の意志か」
エルフィは一拍、黙った。
「私の意志は、都市の意志と同一です」
「違う」
ヴェロニカは低く言った。
「それは教え込まれた答えだ」
エルフィの眉が、ほんのわずかに動いた。
フィーナがくすくすと笑う。
「お姉様、動揺してる」
「していません」
「してるよ。ヴェロニカに名前を呼ばれてから、剣の角度が二度下がった」
「戦闘に影響はありません」
「つまらないなあ」
フィーナはヴェロニカへ視線を向けた。
「ねえ、ヴェロニカ。あなた、私たちを救いたいの?」
「できるなら」
「できなかったら?」
「ベアトの道具としては終わらせない」
「あはっ。優しいね。優しいふりかな?」
「私は優しくなどない」
ヴェロニカは剣を握る。
「救えなかったものが多すぎるだけだ」
フィーナの笑みが少し深まった。
「それ、いいね。中を見たくなる。後悔と怒りと責任感でぐちゃぐちゃ。きっと綺麗に壊れる」
赤黒い糸がフィーナの指先から伸びる。
その瞬間、アリスが端末を叩いた。
「悪趣味な覗き見は拒否」
妨害信号が走り、フィーナの糸を弾く。
フィーナは目を細めた。
「あなた、アリスだよね。ベアトが言ってた。頭の中が道具箱みたいな子」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「違うよ。散らかってて、壊しやすそうって意味」
「あはっ。残念。私は壊れやすいけど、壊れてからがしつこいんだよ」
フィーナは楽しそうに笑った。
「やっぱり、あなたから壊したいな」
「順番待ちして」
エルフィが剣を上げた。
「会話は不要です。対象、前進を開始。排除します」
彼女の足が床を蹴る。
音はなかった。
次の瞬間、エルフィはヴェロニカの眼前にいた。
剣が閃く。
ヴェロニカは受ける。重い。細身の剣とは思えない圧力が、腕を痺れさせた。
「くっ……!」
「防御姿勢、良好。ですが、突破可能です」
エルフィの盾が押し込まれる。
その背後から、フィーナの糸がルナへ伸びた。
アリスが防壁を張るが、フィーナの侵食糸は防壁の隙間を笑うように滑り込んでくる。
「ルナちゃんには触らせないって言ってるでしょ」
「言われてないよ?」
「今言った」
「じゃあ破るね」
フィーナが指を鳴らす。
防壁の表面が赤黒く侵食され、端から崩れていく。
ヴェロニカはエルフィを押し返そうとするが、動けない。
「エルフィ、どけ!」
「拒否します」
「貴女は本当に、それでいいのか!」
「良い、悪いという基準は不要です。私は都市を守る盾です」
「盾なら、誰かを守る痛みを知れ!」
ヴェロニカの痣が蒼く光る。
力を込めた一撃が、エルフィの剣を弾いた。
そのわずかな隙に、彼女はルナの前へ体を滑り込ませる。
だが、フィーナの糸はすでに迫っていた。
間に合わない。
「――どけってんだよ、人形どもッ!!」
爆音と共に、コアの外壁が砕けた。
飛び込んできたのは、キョウカだった。
彼女の拳は限界まで超高密度化していた。その拳の周囲では空気が圧縮され、白銀の衝撃光が雷のように走っている。
キョウカは弾丸のように突っ込み、エルフィの盾へ拳を叩きつけた。
轟音。
エルフィの足が初めて後ろへ滑った。
「物理衝撃、想定値を超過」
「想定なんか知るかよ!」
キョウカは歯を剥いて笑った。
「待たせたな、ヴェロニカ! こいつの硬い顔、アタシが少しは崩してやる!」
「キョウカ!」
続いて、冷たい風がコアの中へ吹き込んだ。
ハルカが静かに歩いてくる。
その足元を、薄い霧が流れていた。彼女の周囲だけ、ガーデン・コアの乾いた無機質な空気が押し返されている。
「……フィーナさん」
ハルカは小さく言った。
「あなたの糸、空気に乗るんだね」
「へえ。見えるんだ」
「見えるよ。とても汚い色」
ハルカは両手を広げる。
「だから、通り道をなくす」
気圧が急激に変化した。
フィーナの周囲の空気が薄くなる。完全な真空ではない。だが、データ糸が伝播するために利用していた微細な粒子の流れが断ち切られた。
赤黒い糸が、空中でばらばらにほどける。
「……ふうん」
フィーナの笑みが消える。
「かわいい顔して、嫌なことするね」
「あなたほどじゃない」
ハルカの声は静かだった。
だが、その奥には怒りがあった。
「ルナちゃんを怖がらせた。ヴェロニカを傷つけた。お姉ちゃんに触ろうとした。だから、あなたの糸は通さない」
キョウカが笑う。
「言うじゃねえか、ハルカ」
「お姉ちゃんは前を見て。エルフィさん、来るよ」
「分かってる!」
エルフィが盾を構え直した。
その瞳に、かすかな揺らぎがあった。
「あなたたちは、なぜ戻ってきたのですか」
彼女はキョウカとハルカを見た。
「ここは都市の中枢。逃走可能経路は後方に存在していました。危険を冒してまで、対象ルナを守る合理性がありません」
キョウカは肩を回した。
「あいつが仲間だからだよ」
「仲間」
エルフィがその言葉を繰り返す。
「機能分類に存在しない語です」
「ああ、そうかよ」
キョウカは拳を構える。
「じゃあ今から拳で覚えろ。仲間ってのはな、計算で見捨てられねえ奴のことだ!」
拳が盾にぶつかる。
エルフィは受け止める。
だが、今度は後退しない。盾面を調整し、衝撃を横へ逃がす。
「戦闘情報を更新。あなたの攻撃は単純です」
「単純で悪かったな!」
「悪いとは言っていません」
エルフィは剣を返す。
「強いです」
その言葉に、キョウカが一瞬目を見開いた。
「……褒めてんのか?」
「事実です」
「へっ。なら、もっと見せてやるよ!」
一方、フィーナはハルカと向かい合っていた。
フィーナは赤黒い糸を自分の周囲へ巻きつけ、ハルカの低圧域を避けるように経路を作り直す。
「ねえ、ハルカ。あなた、怖くないの?」
「怖いよ」
ハルカは即答した。
「じゃあ、逃げればいいじゃない」
「逃げたら、お姉ちゃんが悲しむ。ヴェロニカも、ルナちゃんも、アリスも困る」
「自分のためじゃないんだ」
「自分のためだよ」
ハルカの周囲に、薄い雨雲が生まれる。
「私は、お姉ちゃんと一緒にいる場所を守りたい。だから、みんなも守る」
フィーナは首を傾げた。
「分からないなあ。誰かが大事だと、壊された時に痛いでしょ?」
「うん」
「なら、最初から大事にしなければいいのに」
ハルカは少しだけ悲しそうにフィーナを見た。
「あなたは、痛いのが嫌だったの?」
フィーナの笑みが、ぴたりと止まった。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、彼女の瞳の奥に、赤黒いノイズではない何かが揺れた。
「……うるさいな」
フィーナの糸が鋭く伸びる。
ハルカは風でそれを逸らした。
「やっぱり、痛かったんだね」
「黙って」
「でも、まだ消えてない」
「黙れって言ってるでしょ!」
フィーナの侵食波が広がる。
ハルカは両手を掲げ、強い上昇気流を呼んだ。雨粒が舞い上がり、赤黒い糸の経路を可視化する。
「アリス!」
「見えた!」
アリスが端末を叩き、フィーナの糸に逆位相信号を打ち込む。
フィーナが顔を歪めた。
「っ……!」
「あはっ。性格悪い糸には、性格悪いノイズを返すに限るね」
「あなた……本当に嫌い」
「私はけっこう好きになってきたよ。壊しがいがあるから」
フィーナが一瞬怒りに染まる。
それは、彼女が見せた初めてのはっきりした感情だった。
ヴェロニカはそれを見た。
エルフィの剣も、フィーナの糸も、完全な機械ではない。
奥にまだ、何かが残っている。
ベアトが苛立った声を上げた。
「何を遊んでいるの、エルフィ、フィーナ! 速やかに消去しなさい!」
「命令を受諾」
エルフィが答える。
だが、その声はほんのわずかに遅れた。
「フィーナ!」
「分かってるよ、ベアト」
フィーナの返事にも、いつもの陶酔はなかった。
ベアトの眉が動く。
ヴェロニカはその隙を逃さなかった。
「聞こえているな、二人とも」
彼女はルナを背に庇いながら、双子へ呼びかける。
「ベアトの命令ではなく、自分の奥に残った声を聞け」
「ノイズです」
エルフィが剣を構える。
「そのノイズが、貴女自身だ」
「違います」
「違わない」
ヴェロニカの声が強くなる。
「私もそうだった。命令こそが自分だと思い込み、ベアトに与えられた役割を誇りと勘違いしていた」
エルフィの剣先がわずかに揺れる。
「だが、役割を失っても私は消えなかった。裏切り者になっても、死にぞこないになっても、それでも私は私だった」
フィーナが低く笑う。
「綺麗ごと」
「ああ。綺麗ごとだ」
ヴェロニカは認めた。
「だが、この街は今、その綺麗ごとのために戦っている」
ルナが、ヴェロニカの背中にそっと手を添えた。
「トクン、トクン」
小さな声。
「みんなの、おなじおとがする」
ヴェロニカは頷く。
「ああ。これが、私たちの自由を求める鼓動だ」
アリスが端末を掲げた。
「ヴェロニカ、道を作るよ。長くは持たない」
「十分だ」
「またそれ」
「信じている」
アリスは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「あはっ。そういうこと言うなら、絶対に失敗できないね」
キョウカがエルフィを押し込む。
ハルカがフィーナの糸を封じる。
アリスがベアトの防壁へ楔を打つ。
ルナが最後のハートを胸に抱く。
そしてヴェロニカは、剣を握った。
一族の仇。
組織の亡霊。
都市の支配者。
そして、ベアトに奪われた同胞たち。
そのすべてを終わらせるために。
「進むぞ」
ヴェロニカは蒼い翼を広げた。
ベアトの嘲笑が響く光り輝く地獄の底で、彼女たちは最後の一撃へ向けて走り出した。