コアの最深部は、狂気の祭壇と化していた。
黄金の神経網が、天井も壁もない空間を這い回っている。脈打つたびに、黒い柱が震え、床の下で膨大な情報が渦を巻いた。都市の起源。ガーデン・コア。その中心に、ベアトは立っていた。
銀色の回路に覆われた肌。
背後から伸びる黄金のケーブル。
そして、歪んだ月桂冠。
彼女はもう、人ではなかった。
だが、その笑い声だけは、あの空中庭園で聞いたものと同じだった。
「あはははは! 壊しなさい! 奪い合いなさい! 傷つけ、支配し、最後には誰かの上に立とうとする! それが貴女たち人間の本能でしょう!?」
ベアトの叫びに呼応し、エルフィとフィーナが動いた。
エルフィは盾を構え、白銀の魔力剣を低く引く。
フィーナは赤黒いデータ糸を指に絡ませ、愉悦に濡れた笑みを浮かべている。
「対象、ヴェロニカ。対象、ルナ。コアへの干渉を確認」
エルフィが静かに告げた。
「排除します」
「ねえ、ベアト」
フィーナが甘えるように言う。
「ルナは壊していいの? それとも、きれいに剥がしてから飾る?」
「ルナは駄目よ」
ベアトは笑う。
「あの子は心臓。私の庭に必要な最後の苗床。壊すなら、その周りの欠陥品たちになさい」
「あはっ。じゃあ、ヴェロニカの翼からにする」
フィーナの視線がヴェロニカの蒼い翼へ絡みついた。
「一枚ずつ、記憶ごと剥がしたら、どんな顔をするのかな」
ヴェロニカはルナを背に庇い、剣を構えた。
その刃は欠けている。
魔力の翼も、幾度も切り裂かれて輪郭が揺らいでいる。
それでも、彼女の眼差しは折れていなかった。
「フィーナ」
ヴェロニカは名を呼ぶ。
「貴女は本当に、それを望んでいるのか」
「望む?」
フィーナは首を傾げた。
「望むって何? 壊したいから壊す。楽しいから笑う。それ以外に何がいるの?」
「痛みを隠すために笑っているだけではないのか」
その言葉に、フィーナの糸が一瞬だけ震えた。
笑みが深まる。
だが、目の奥に小さな亀裂が走った。
「……嫌い」
「そうか」
「あなた、嫌い。分かったような顔をするから」
「分かったつもりはない」
ヴェロニカは剣先を下げない。
「だから聞いている」
「うるさい!」
フィーナの糸が空間を裂くように伸びた。
同時に、エルフィが踏み込む。
剣と盾。
糸と侵食。
二つの攻撃が、ヴェロニカとルナを挟み込もうとした。
だが、その直前。
「――どけってんだよ、人形どもッ!!」
轟音。
コアの外壁が砕け、白銀の衝撃光を纏った拳が飛び込んできた。
キョウカだった。
異能によって一瞬だけあり得ない密度に高められた拳が、空気を押し潰し、床を沈ませ、エルフィの盾へ真正面から叩きつけられた。
盾が軋む。
エルフィの足が、透明な床を削って後退した。
「物理衝撃、再計算」
「計算してる暇なんかやるかよ!」
キョウカは歯を剥いて笑った。
「本能だぁ? 笑わせんな! アタシの本能はな、ムカつく奴の面を殴れって言ってんだよ!」
「粗暴な定義です」
エルフィが盾を構え直す。
「ですが、強い」
「へっ。褒め言葉として受け取っとくぜ」
キョウカの拳が再び唸る。
エルフィの剣が振り下ろされる。
怪力と防衛機構が、真正面から衝突した。
その横を、フィーナの糸が蛇のようにすり抜ける。
「邪魔しないでね、怪力女。私はルナとヴェロニカで遊びたいの」
「……あなたの相手は、私」
静かな声がした。
ハルカが、霧の中から現れた。
彼女の周囲に、空気の層が幾重にも重なっている。熱い空気、冷たい空気、湿った空気、乾いた空気。それらを繊細に編み込み、フィーナの糸が進む道を狂わせていた。
「フィーナさん。あなたの毒は、もう怖くない」
「へえ。さっきは怖がってたのに」
「怖いよ」
ハルカは素直に答えた。
「でも、怖いから見える。どこから来るか、どこへ入ろうとしているか」
彼女が手を握る。
コア内部の空気が一瞬で引き絞られ、局所的な低圧域が生まれた。フィーナのデータ糸が伝わるための微細な媒体が断たれ、赤黒い侵食が空中でほどけていく。
「あなたの糸は、風に乗る。なら、風を変えれば届かない」
「……嫌な子」
フィーナは笑う。
しかし、その笑みには明らかな苛立ちが混じっていた。
「静かそうな顔して、すごく意地悪」
「お姉ちゃんと一緒に逃げてきたから」
ハルカの周囲に雨粒が浮かぶ。
「生き残るための意地悪なら、たくさん覚えたよ」
雨粒が弾け、赤黒い糸の輪郭を浮かび上がらせる。
「アリス」
「見えてる!」
アリスが壊れかけの端末に指を走らせた。
手袋の残存インターフェースが火花を散らす。指先に薄く血が滲むが、アリスは止まらない。
「あはっ、フィーナ。あなたの糸、性格が悪いね。持ち主そっくり」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「消し飛ばす」
アリスの妨害信号がフィーナの糸へ叩き込まれる。
フィーナが初めて、顔を歪めた。
「……っ、痛い」
その声は小さかった。
だが、ハルカは聞き逃さなかった。
「フィーナさん」
「何よ」
「痛いって、言えたね」
フィーナの瞳が揺れる。
ベアトが苛立たしげに叫んだ。
「フィーナ! 余計な感情を拾うな! 貴女は私の刃よ!」
「……私は」
フィーナの唇が動く。
けれど言葉は続かない。
その隙に、ハルカの風がフィーナの周囲を包み込み、彼女の侵食糸をさらに遠ざけた。
一方、キョウカとエルフィの戦いは激しさを増していた。
エルフィの盾は、キョウカの拳を受けるたびに形を変え、衝撃を逃がす。都市の免疫システムとして最適化された防御。普通なら、どんな物理攻撃も届かない。
だが、キョウカは止まらない。
「何度でも受け流してみろよ!」
拳。
拳。
拳。
彼女は技術で勝っているわけではない。
計算でもない。
ただ、自分の守りたい場所へ続く壁を、正面から殴り続けている。
「非効率です」
エルフィが言う。
「同じ攻撃の反復に意味はありません」
「ある」
「ありません」
「あるんだよ!」
キョウカの拳が盾へ突き刺さるように沈んだ。
エルフィの表情がわずかに変わる。
「なぜ」
「一発目で駄目でも、二発目でひびが入る。二発目で駄目なら、三発目で少し沈む」
キョウカは笑う。
「守りたいもんがある奴はな、効率なんか知らねえんだよ!」
最後の一撃。
キョウカの拳が、限界まで超高密度化する。
白銀の衝撃光が奔り、エルフィの盾を真正面から貫いた。
盾が砕けた。
鋼の防壁が結晶のように散る。
エルフィは後ろへ下がり、初めて自分の空いた左手を見た。
「盾が……」
「なあ、エルフィ」
キョウカは肩で息をしながら言った。
「それ、守るためのもんだろ。ベアトの後ろで突っ立ってるためじゃねえ」
「守る……」
エルフィの瞳が揺れる。
「私は、都市を守る盾」
「違うだろ」
キョウカは拳を下ろさない。
「お前が本当に守りたかったもん、まだ思い出せねえのかよ」
エルフィは答えなかった。
しかし、その剣先がわずかに下がる。
ベアトの顔が歪んだ。
「役立たずどもが……! 私が与えた形すら保てないの!?」
その声が、エルフィとフィーナを貫いた。
二人の体に走る銀色の回路が、赤黒く染まる。
「エルフィ、フィーナ。再同期。余計なノイズを削除しなさい」
双子が呻く。
エルフィは頭を押さえ、フィーナは笑おうとして失敗した。
「ベアト……」
エルフィが呟く。
「私は……」
「私は、何?」
ベアトが冷たく言う。
「貴女たちは私の作品。私の免疫。私の庭を守るための美しい標本。それ以外の名前など不要よ」
「……名前」
フィーナが震える声で笑う。
「私、フィーナって呼ばれた時、少し……変だった」
ハルカが小さく頷く。
「うん。それが、あなた」
「うるさい……でも、そうかも」
フィーナの赤黒い糸が、一瞬だけベアトの黄金ケーブルへ向かった。
だが、ベアトの支配は早かった。
「反抗? 私の中で生まれた子たちが、私に?」
黄金のケーブルが双子を締め上げる。
エルフィとフィーナの瞳から、再び光が消えかける。
ヴェロニカが叫んだ。
「ベアト! 貴様はどこまで奪えば気が済む!」
「奪う?」
ベアトは笑った。
「違うわ。返しているのよ。ばらばらで、醜くて、痛みに満ちた個体を、私という根へ戻してあげる。みんなが私の一部になれば、孤独も恐怖もなくなる」
「それは救いではない」
ヴェロニカはルナを背負い直した。
ルナの体は、もう半ば光になっていた。
指先が透け、髪の先が粒子になってほどけている。
それでも、ルナはヴェロニカの首に腕を回した。
「ヴェロニカ」
「ルナ」
「ルナ、分かったの」
声は小さい。
けれど、コア全体に優しく響いた。
「笑っているのが、正しいんじゃない」
ヴェロニカは足を止めない。
アリスがベアトの防壁をこじ開ける。
キョウカがエルフィの動きを押さえ、ハルカがフィーナの糸を遠ざける。
その隙間を、ヴェロニカは走る。
「かなしい時に、かなしい顔をしていい。こわい時に、こわいって言っていい」
ルナの肌に、初めて確かな温もりがあった。
「だいすきな人と、同じ場所で、同じ痛みを持って、それでも一緒にいるのが……ハートなんだね」
ヴェロニカの喉が詰まる。
「ルナ、貴女は――」
「ヴェロニカ」
ルナは静かに笑った。
涙のような光が、彼女の瞳からこぼれた。
「泣いてる?」
「……泣いていない」
「うそ」
「そうだ。嘘だ」
ヴェロニカは認めた。
ルナは少しだけ嬉しそうに笑った。
「ヴェロニカが、ルナと同じ顔してる」
「同じ顔?」
「かなしい顔」
ルナの腕が、ヴェロニカの首にぎゅっと回る。
「ルナ、うれしい。ひとりじゃないって、こういうことなんだね」
その時、アリスが叫んだ。
「ヴェロニカ! 道、開いた! でも長く持たない!」
ヴェロニカは前を見る。
ベアトの眼前。
ガーデン・コアの中心。
黄金の神経網の奥に、黒い深淵が口を開けていた。
そこが、ベアトの意志が絡みついた根だった。
ベアトは怒りに顔を歪める。
「やめなさい。そこに触れるな。そこは私の庭の根よ。私の痛み、私の救済、私の世界!」
「ベアト」
ヴェロニカは剣を構える。
「貴女の痛みは、本物だったのだろう」
ベアトの表情が一瞬止まる。
「世界に焼き払われ、実験台にされ、都市の悲鳴を流し込まれ続けた。その痛みは、確かに貴女のものだった」
「分かったような口を……!」
「分からない」
ヴェロニカは言った。
「だが、貴女がその痛みで他者を縛ったことは、許さない」
ベアトの瞳が燃える。
「ならば一緒に消えなさい! 私を拒む世界など、最初から要らない!」
黄金のケーブルが全方位から襲いかかる。
エルフィとフィーナも、ベアトの強制同期に縛られたまま動き出そうとした。
だが、その瞬間。
「……通しません」
エルフィが、自分の剣で黄金ケーブルを切った。
ベアトが目を見開く。
「エルフィ?」
「私は、盾」
エルフィの声は震えていた。
「でも、何を守るかは……私が決めます」
フィーナも笑った。
今度の笑みは、残忍なものではなかった。
泣きそうで、壊れそうで、それでも自由な笑みだった。
「ベアト。私、あなたの中に戻るの嫌」
赤黒い糸が、黄金ケーブルへ絡みつく。
「痛いの嫌。でも、何も感じないのは、もっと嫌」
「貴女たち……!」
ベアトの声が怒りに震える。
エルフィとフィーナの体が光の粒子へほどけ始める。
ガーデン・コアと直結した彼女たちは、ベアトの根が断たれれば共に消える。
二人も、それを理解していた。
エルフィがヴェロニカを見る。
「同胞」
初めて、彼女はその言葉を自分の意志で口にした。
「私たちは、救われますか」
ヴェロニカは答えるまでに、一瞬だけ息を呑んだ。
「分からない」
誤魔化さなかった。
「だが、少なくとも貴女たちは、ベアトの道具としては終わらない」
エルフィは小さく頷いた。
「十分です」
フィーナはハルカとアリスを見た。
「ねえ。私、最後に痛いって言えた」
ハルカの瞳に涙が滲む。
「うん」
「それ、たぶん……私の声だった」
アリスは唇を噛みながら笑った。
「あはっ。性格悪いけど、悪くない声だったよ」
「嫌いって言ったの、ちょっと嘘」
「私も嫌いじゃなかった」
フィーナは満足そうに笑った。
双子が、黄金ケーブルを押さえ込む。
「今です」
エルフィが言った。
「行って」
ヴェロニカは頷く。
「ありがとう」
そして、最後の一歩を踏み出した。
ルナが両手を前へ伸ばす。
小さな指が、最後のハートを形作る。
アリスが血の滲む指で最後の一鍵を叩いた。
「あはっ……ターゲット・ロック! 都市全データ、ルナちゃんの心臓へ全転送!」
彼女は泣きながら笑う。
「さよならだ、クソババア!」
街中の情報が、ルナの掌へ収束した。
人々の声。
瓦礫の記憶。
止まった機械の願い。
咲いた野の花の小さな命。
そのすべてが、圧倒的な質量を持つ「拒絶」の意志へ変わる。
「やめなさい!」
ベアトが叫ぶ。
「私の庭が、私の世界が、私の救済が!」
ルナは、静かに首を横に振った。
「ベアト。みんな、あなたの花じゃないよ」
その声は、優しかった。
「みんな、自分で咲きたいんだよ」
ルナのハートが、ガーデン・コアの深淵へ触れた。
「――拒絶」
白い光が爆ぜた。
「みんな、おやすみなさい」
純粋な光が、コアの最深部を満たした。
ベアトの黄金の神経網が、根元からほどけていく。銀色の回路も、月桂冠も、蝶の翅も、すべてが白い粒子へ変わっていった。
「嫌……嫌よ……! 私はまだ、庭を……世界を……!」
ベアトは手を伸ばす。
だが、その手はもう何も掴めない。
彼女の背後で、すべてのバックアップ領域が白く焼き消えていく。月桂冠の残滓も、プロトコル・ローレルも、ガーデン・コアに刻まれた彼女の意志も、同時に崩壊していった。
もう根は残らない。
もう復元先はない。
もう、ベアトが戻る場所はどこにもない。
「ヴェロニカ……!」
最後に、ベアトは憎悪とも悲鳴ともつかない声で名を呼んだ。
「貴女たちの自由なんて……きっと、また痛むだけよ……!」
ヴェロニカは光の中で答えた。
「それでも、生きている方がいい」
ベアトの姿が砕けた。
エルフィとフィーナも、同じ光の中でほどけていく。
エルフィは静かに目を閉じた。
「……自由、という言葉を記録します」
フィーナは小さく笑った。
「次があるなら、今度は最初から自分で笑いたいな」
二人の姿は、白い花びらのように散った。
ベアトと共に。
ガーデン・コアの呪縛と共に。
そして、ルナの体もまた、粉雪のようにほどけ始めていた。
「ルナ!」
ヴェロニカが叫ぶ。
腕の中の少女は、もうほとんど重さを失っていた。
けれど、温かかった。
確かに、温かかった。
「ヴェロニカ」
ルナは微笑む。
「わらって」
「無理だ」
「うん。かなしいもんね」
「ああ」
「じゃあ、かなしい顔でいいよ」
ルナは、ヴェロニカの頬に触れた。
「ルナ、みんなにハートをあげる。街が止まっても、みんなの中で、トクンってするように」
「ルナ、私は……」
「ヴェロニカ。だいすき」
その言葉が、静かに届く。
「アリスの笑い声も、キョウカの大きな声も、ハルカの風も、みんな好き。スープも、花も、手をつなぐのも、怖いって言えたことも」
ルナの瞳から、光の雫がこぼれた。
「ルナ、生まれてよかった」
ヴェロニカは、声にならない息を漏らした。
ルナは最後に、本物の笑みを浮かべた。
貼り付いたものではない。
命令でもない。
世界の痛みを隠すための出力でもない。
悲しみを知り、恐怖を知り、それでも誰かを愛した少女の笑みだった。
「みんな、おやすみ」
光が、ほどけた。
ヴェロニカの腕に残ったのは、かすかな温もりだけだった。
「ルナアアアアアアッ!!」
叫びが、沈黙へ落ちていく世界に響いた。
ガーデン・コアが停止する。
黄金の神経網が消える。
都市の光が、一つ、また一つと消えていく。
ネオンも、端末も、AIの声も、配水ポンプの低い唸りも、すべてが静かに眠りについた。
完全な夜が訪れた。
だが、それは支配の夜ではなかった。
誰かに管理されるための沈黙ではなかった。
すべての呪縛を断ち切った後に残された、真っ暗で、自由な夜だった。