紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode26 夜明けの鼓動

 すべての光が消えた。

 

 空を覆っていたホログラムの残滓も、赤黒く明滅していた月桂冠の紋章も、路地裏で不気味に瞬いていたネオンの看板も、ひとつ残らず漆黒の闇へ沈んだ。

 

 ガーデン・コアは停止した。

 

 ベアトの声は、もう聞こえない。

 

 プロトコル・ローレルも、月桂冠の支配網も、都市の奥底に刻まれていた彼女の意志も、ルナの最後のハートによって根こそぎ消えた。

 

 もう、あの女は戻らない。

 

 もう、この街を自分の庭だと呼ぶ声はない。

 

 そこにあるのは、ただ月明かりに照らされた瓦礫の山だった。

 

 沈黙した街。

 

 電力もない。

 

 通信もない。

 

 AIの案内音声も、監視ドローンの羽音も、配水ポンプの低い唸りもない。

 

 文明の心臓を抜き取られたような夜。

 

 けれど、その静寂は死ではなかった。

 

「……おい、生きてるか!」

 

「こっちだ! 誰か、手を貸せ!」

 

 瓦礫の下から、声が上がった。

 

 一人。

 

 また一人。

 

 泥と灰にまみれた人々が、崩れた壁の隙間から這い出してくる。誰かが誰かの手を掴み、引き上げる。誰かが倒れた者へ肩を貸し、誰かが泣きながら名前を呼ぶ。

 

 もう、システムの指示はない。

 

 どこへ行けという矢印もない。

 

 避難経路を示すホログラムも、医療タグを読み取る機械もない。

 

 それでも人々は動いた。

 

 自分の足で立ち、自分の目で探し、自分の手で誰かを助けた。

 

 やがて、誰からともなく焚き火が起こされた。

 

 壊れた家具の破片。

 

 折れた看板。

 

 乾いた布切れ。

 

 火は小さく、頼りなく、風が吹けば消えてしまいそうだった。

 

 けれど、そのオレンジ色の光は、支配者の庭に咲いていたどんな人工の光よりも温かかった。

 

 人々はその火の周りに集まった。

 

 黙って座る者。

 

 泣く者。

 

 笑う者。

 

 失ったものを数えきれず、ただ空を見上げる者。

 

 それでも、誰も命令を待ってはいなかった。

 

 紅蓮都市は沈黙した。

 

 だが、人間の声は残っていた。

 

 街を見下ろす高台に、四人が立っていた。

 

 ヴェロニカ。

 

 アリス。

 

 キョウカ。

 

 ハルカ。

 

 そして、もう一人いたはずの少女の場所だけが、静かに空いていた。

 

 アリスは、真っ黒になった端末の画面を見下ろしていた。

 

 何度か指で叩く。

 

 当然、何も返らない。

 

 彼女は少しだけ笑った。

 

「あはっ。完全沈黙。デバイスも、ネットワークも、旧ガーデンの残骸も、ぜんぶ応答なし」

 

 端末をポケットへしまう。

 

「……変なの。こんなに不便なのに、頭の中が驚くほど静かだ」

 

「退屈か」

 

 ヴェロニカが尋ねる。

 

「少しね」

 

 アリスは夜空を見上げた。

 

「でも、嫌じゃない。今までは、世界中のノイズを拾ってないと落ち着かなかった。何かが動いてる、誰かが隠してる、どこかに穴がある。そういうのを探してないと、置いていかれる気がしてた」

 

 彼女は、小さく息を吐いた。

 

「今は何も聞こえない。だから、自分が何を考えてるのか、やっと分かる」

 

「何を考えている」

 

「ルナちゃんのこと」

 

 アリスの声は、いつもより少しだけ低かった。

 

「あの子、最後まで無茶苦茶だった。街ひとつ抱えて、ベアトごと沈めて、自分は笑って消えるなんてさ。ほんと、計算外にも程がある」

 

 軽口の形をしていた。

 

 だが、その声は震えていた。

 

 ヴェロニカは何も言わなかった。

 

 キョウカは、自分の右拳を見つめていた。

 

 何度か握る。

 

 開く。

 

 拳はただの拳だった。

 

 超高密度化する気配はない。

 

 空気を押し潰すような重さも、瓦礫を粉々に砕く力も、もうそこには宿っていなかった。

 

「……出ねえな」

 

 キョウカが呟いた。

 

「拳に力を込めても、ただの力だ。変な感じだぜ。今まで当たり前みてえにあったもんが、急になくなるとよ」

 

 ハルカも、手のひらを夜風へ向けていた。

 

 風は吹いている。

 

 瓦礫の隙間を抜け、焚き火の煙を運び、冷えた街を撫でている。

 

 けれど、それはもうハルカの命令に従う風ではなかった。

 

 気圧も、温度も、湿度も、彼女の思い通りには動かない。

 

「……風は、いるよ」

 

 ハルカは静かに言った。

 

「でも、もう私のものじゃない。私が動かすものじゃなくて、ただ吹いてる」

 

「寂しいか」

 

 ヴェロニカが聞く。

 

 ハルカは少し考えた。

 

「少し」

 

 それから、微笑む。

 

「でも、軽い。風が私の中に入りすぎて苦しくなることも、街の悲鳴が勝手に聞こえることもない。今は、自分の鼓動がちゃんと聞こえる」

 

 キョウカが妹の頭を乱暴に撫でた。

 

「ルナが守ってくれたんだな」

 

「うん」

 

 ハルカは頷く。

 

「私たちを、ただの私たちに戻してくれた」

 

 異能は消えた。

 

 都市の高機能も失われた。

 

 それは勝利と呼ぶには、あまりにも多くのものを差し出した結末だった。

 

 だが、四人の体は確かに軽かった。

 

 ガーデンの実験によって植え付けられた力。

 

 逃亡のために研ぎ澄まされた力。

 

 戦うためにしか使い道を知らなかった力。

 

 それらが失われた後に残ったのは、傷だらけの身体と、空っぽになった手と、それでも立っている自分自身だった。

 

 ヴェロニカは、自分の背へ意識を向けた。

 

 蒼黒い魔力の翼は、もうない。

 

 悪魔のように噴き上がっていた力も、左頬の星型の痣から溢れていた魔力も、夜明け前の霧のように薄れていた。

 

 痣そのものは残っている。

 

 だが、それはもう鎖ではなかった。

 

 家畜の刻印でも、ベアトに利用された証でもない。

 

 ただ、彼女がここまで生き延びてきた痕跡だった。

 

 ヴェロニカは高台の先へ歩いた。

 

 そこに、一輪の花が咲いていた。

 

 瓦礫の隙間から伸びた、白銀の花。

 

 形は小さい。

 

 けれど、その花弁はかすかにハートの形をしていた。

 

 ルナが残した、新しい種。

 

 都市の全機能が沈黙した後も、その花だけは淡く脈動していた。

 

 ドクン。

 

 ドクン。

 

 音は聞こえない。

 

 けれど、確かに感じる。

 

 胸の奥で、誰かがそっと合図を送っているような、静かな鼓動。

 

 ヴェロニカは膝をつき、花に指を触れた。

 

 冷たくはなかった。

 

 ほんの少しだけ、温かかった。

 

「ルナ」

 

 名を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 当然だった。

 

 もう、あの少女の声は聞こえない。

 

 わからない、と首を傾げる声も。

 

 ヴェロニカ、と呼ぶ声も。

 

 だいすき、と最後に残した声も。

 

 それでも、花はそこにあった。

 

 ルナが消えた証ではなく。

 

 ルナが確かに生きた証として。

 

「貴女は、最後まで私たちより先に歩いてしまったな」

 

 ヴェロニカは静かに言った。

 

「守ると言ったのに。離れるなと言ったのに。結局、貴女に守られた」

 

 アリスが隣へ来た。

 

 彼女は花を見下ろし、しばらく黙っていた。

 

「あの子、ずるいよ」

 

「ずるい?」

 

「うん。あんな最後の言葉を残されたら、忘れられないじゃん」

 

 アリスはしゃがみ込み、花へ視線を合わせる。

 

「ルナちゃん。私、たぶんまた機械を作るよ。ネットワークは消えたけど、線を繋ぐことはできる。電気がなくても、旗とか、鐘とか、手紙とか。情報って、別に端末の中だけにあるものじゃないし」

 

 少し笑う。

 

「あはっ。悔しいけど、それを教えたのは君だ」

 

 キョウカも近づいてきた。

 

 彼女は腕を組み、花を見て、どうにも居心地悪そうに顔をしかめた。

 

「……なあ、ルナ」

 

 声は乱暴だった。

 

 けれど、いつもの勢いはない。

 

「アタシ、あんたのこと殴ろうとしたよな。あんたがいるとアタシらが壊れるって思って、本気で消そうとした」

 

 ハルカが隣で目を伏せる。

 

 キョウカは拳を握り、すぐに開いた。

 

「悪かった」

 

 たった一言。

 

 それ以上の言葉を、キョウカは知らない。

 

 けれど、その一言はまっすぐだった。

 

「それと、ありがとな。あんたのおかげで、ハルカが隣にいる。アタシも、まだここにいる」

 

 ハルカは花の前に膝をついた。

 

「ルナちゃん」

 

 小さく呼ぶ。

 

「私、もう風の声は聞こえない。でも、覚えてる。ルナちゃんが怖いって言った声。消えたくないって思ってたこと。スープを飲みたいって言ったこと」

 

 ハルカは目元を拭った。

 

「忘れない。風が聞こえなくても、私が覚えてる」

 

 四人はしばらく黙っていた。

 

 その沈黙の中に、別の影が浮かんだ。

 

 エルフィ。

 

 フィーナ。

 

 白銀の髪を持つ、双子のエルフ。

 

 ベアトに作られ、都市の免疫として使われ、最後の瞬間に自分の声を取り戻した同胞たち。

 

「エルフィとフィーナも、ここにはいない」

 

 ヴェロニカが言った。

 

 声は静かだった。

 

「だが、最後に自分の名を取り戻した」

 

 アリスが頷く。

 

「エルフィは、自分で何を守るか決めた。フィーナは、痛いって言えた」

 

「遅すぎたのかもしれない」

 

 ヴェロニカは花を見つめる。

 

「それでも、無意味ではなかった」

 

 彼女の胸には、まだ痛みがあった。

 

 同胞を救えなかった痛み。

 

 もっと早く出会えていればという思い。

 

 彼女たちをベアトの道具として終わらせずに済んだという、わずかな救い。

 

 そのすべてが混ざり合い、簡単な言葉にはならなかった。

 

「エルフィ。フィーナ」

 

 ヴェロニカは、夜空へ向けて呟いた。

 

「貴女たちを忘れない。同胞として。ベアトの作品ではなく、自分の名を持った者として」

 

 そして、最後にベアトのことを思った。

 

 憎むべき支配者。

 

 一族を滅ぼした仇。

 

 人を部品にし、街を庭にし、痛みから逃れるためにすべてを標本へ変えようとした女。

 

 許せるはずがなかった。

 

 同情だけで片付けることもできなかった。

 

 だが、彼女もまた、最初から怪物だったわけではない。

 

 世界に焼き払われ、苗床にされ、都市の悲鳴を流し込まれ続けた果てに、あの狂った庭を作った。

 

「ベアト」

 

 ヴェロニカは目を閉じた。

 

「貴女を許しはしない」

 

 風が、瓦礫の間を通る。

 

「だが、貴女が痛んでいたことだけは、覚えておく。貴女のようにならないために。痛みを理由に、誰かを縛らないために」

 

 月明かりが、白銀の花を照らした。

 

 その花は、ベアトの庭に咲いたどんな花よりも小さかった。

 

 けれど、誰の命令も受けていない。

 

 誰かを縛るためでもない。

 

 ただ、瓦礫の中に根を下ろし、静かに咲いていた。

 

 遠くから、槌音が響いた。

 

 誰かが木材を組み始めている。

 

 誰かが石を運んでいる。

 

 誰かが火の番をし、誰かが怪我人に水を渡している。

 

 まだ夜は明けていない。

 

 だが、人々はもう動き始めていた。

 

「行くぞ」

 

 ヴェロニカは立ち上がった。

 

 アリスが眉を上げる。

 

「どこへ?」

 

「手伝いに」

 

「休まないの?」

 

「休む場所を作ってからだ」

 

「あはっ。ヴェロニカらしい」

 

 キョウカが肩を鳴らす。

 

「怪力はなくなったけど、瓦礫くらいなら運べるだろ」

 

「お姉ちゃん、無理しないで」

 

「しねえよ。たぶん」

 

「たぶんって言った」

 

 ハルカが少し笑った。

 

 その笑顔は、もう風に揺らされてはいない。

 

 彼女自身の笑顔だった。

 

 四人は高台を降りていく。

 

 その背に、翼はない。

 

 手に超常の力もない。

 

 世界を一瞬で変える端末も、天候を従える異能も、装甲を砕く怪力もない。

 

 それでも、彼女たちは歩いていた。

 

 自分の足で。

 

 自分の意思で。

 

 瓦礫の街へ戻っていくと、人々が顔を上げた。

 

「ヴェロニカ!」

 

「こっちを支えてくれ!」

 

「アリス、これ、どう繋げばいい?」

 

「キョウカ、木材運べるか?」

 

「ハルカ、水を分ける場所を見てくれないか?」

 

 四人はそれぞれに返事をした。

 

 アリスは配線の代わりに縄と合図の仕組みを考え始める。

 

 キョウカは文句を言いながら木材を担ぐ。

 

 ハルカは水場を見に行き、どこに人を集めれば風通しがよいかを、自分の目で確かめる。

 

 ヴェロニカは崩れた壁の前に立ち、数人と一緒に支柱を組み直した。

 

 誰も彼女を猟犬とは呼ばない。

 

 誰も騎士として跪かない。

 

 ただ、一人の住人として名を呼ぶ。

 

 それが、ひどく心地よかった。

 

 やがて東の空が白み始めた。

 

 ネオンのない街に、本当の夜明けが近づいていた。

 

 太陽の光が瓦礫の上に差し込み、焚き火の煙を黄金色に染める。人々の顔が少しずつ明るくなり、白銀の花が朝の光を受けて、かすかに輝いた。

 

 ドクン。

 

 その鼓動は、もう都市のシステムを動かすものではない。

 

 人々の胸の中に残った、小さな合図だった。

 

 ヴェロニカは作業の手を止め、振り返る。

 

 高台の上で、白銀の花が揺れていた。

 

「ルナ」

 

 彼女は心の中で呼んだ。

 

 返事はない。

 

 それでよかった。

 

 返事がなくても、歩いていける。

 

 失ったものを抱えたまま、忘れずに、生きていける。

 

 ヴェロニカは前を向いた。

 

「ここからだ」

 

 誰にともなく、そう言った。

 

 管理された楽園は終わった。

 

 支配者の庭も、都市の起源も、すべて沈黙した。

 

 ここから先にあるのは、何も保証されていない道だった。

 

 水を汲み、火を起こし、壁を立て、争い、話し合い、間違え、やり直す日々。

 

 長く、険しく、不完全な道。

 

 けれど、それは彼女たち自身の道だった。

 

 瓦礫の隙間を抜ける風は、もう誰かのものではない。

 

 ただ自由に吹いている。

 

 その風が、白銀の花を揺らし、人々の笑い声と槌音を遠くへ運んでいった。

 

 紅蓮都市の長い夜は終わった。

 

 そして、何もかもを失った街に。

 

 ようやく、最初の朝が来た。

 

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