すべての光が消えた。
空を覆っていたホログラムの残滓も、赤黒く明滅していた月桂冠の紋章も、路地裏で不気味に瞬いていたネオンの看板も、ひとつ残らず漆黒の闇へ沈んだ。
ガーデン・コアは停止した。
ベアトの声は、もう聞こえない。
プロトコル・ローレルも、月桂冠の支配網も、都市の奥底に刻まれていた彼女の意志も、ルナの最後のハートによって根こそぎ消えた。
もう、あの女は戻らない。
もう、この街を自分の庭だと呼ぶ声はない。
そこにあるのは、ただ月明かりに照らされた瓦礫の山だった。
沈黙した街。
電力もない。
通信もない。
AIの案内音声も、監視ドローンの羽音も、配水ポンプの低い唸りもない。
文明の心臓を抜き取られたような夜。
けれど、その静寂は死ではなかった。
「……おい、生きてるか!」
「こっちだ! 誰か、手を貸せ!」
瓦礫の下から、声が上がった。
一人。
また一人。
泥と灰にまみれた人々が、崩れた壁の隙間から這い出してくる。誰かが誰かの手を掴み、引き上げる。誰かが倒れた者へ肩を貸し、誰かが泣きながら名前を呼ぶ。
もう、システムの指示はない。
どこへ行けという矢印もない。
避難経路を示すホログラムも、医療タグを読み取る機械もない。
それでも人々は動いた。
自分の足で立ち、自分の目で探し、自分の手で誰かを助けた。
やがて、誰からともなく焚き火が起こされた。
壊れた家具の破片。
折れた看板。
乾いた布切れ。
火は小さく、頼りなく、風が吹けば消えてしまいそうだった。
けれど、そのオレンジ色の光は、支配者の庭に咲いていたどんな人工の光よりも温かかった。
人々はその火の周りに集まった。
黙って座る者。
泣く者。
笑う者。
失ったものを数えきれず、ただ空を見上げる者。
それでも、誰も命令を待ってはいなかった。
紅蓮都市は沈黙した。
だが、人間の声は残っていた。
街を見下ろす高台に、四人が立っていた。
ヴェロニカ。
アリス。
キョウカ。
ハルカ。
そして、もう一人いたはずの少女の場所だけが、静かに空いていた。
アリスは、真っ黒になった端末の画面を見下ろしていた。
何度か指で叩く。
当然、何も返らない。
彼女は少しだけ笑った。
「あはっ。完全沈黙。デバイスも、ネットワークも、旧ガーデンの残骸も、ぜんぶ応答なし」
端末をポケットへしまう。
「……変なの。こんなに不便なのに、頭の中が驚くほど静かだ」
「退屈か」
ヴェロニカが尋ねる。
「少しね」
アリスは夜空を見上げた。
「でも、嫌じゃない。今までは、世界中のノイズを拾ってないと落ち着かなかった。何かが動いてる、誰かが隠してる、どこかに穴がある。そういうのを探してないと、置いていかれる気がしてた」
彼女は、小さく息を吐いた。
「今は何も聞こえない。だから、自分が何を考えてるのか、やっと分かる」
「何を考えている」
「ルナちゃんのこと」
アリスの声は、いつもより少しだけ低かった。
「あの子、最後まで無茶苦茶だった。街ひとつ抱えて、ベアトごと沈めて、自分は笑って消えるなんてさ。ほんと、計算外にも程がある」
軽口の形をしていた。
だが、その声は震えていた。
ヴェロニカは何も言わなかった。
キョウカは、自分の右拳を見つめていた。
何度か握る。
開く。
拳はただの拳だった。
超高密度化する気配はない。
空気を押し潰すような重さも、瓦礫を粉々に砕く力も、もうそこには宿っていなかった。
「……出ねえな」
キョウカが呟いた。
「拳に力を込めても、ただの力だ。変な感じだぜ。今まで当たり前みてえにあったもんが、急になくなるとよ」
ハルカも、手のひらを夜風へ向けていた。
風は吹いている。
瓦礫の隙間を抜け、焚き火の煙を運び、冷えた街を撫でている。
けれど、それはもうハルカの命令に従う風ではなかった。
気圧も、温度も、湿度も、彼女の思い通りには動かない。
「……風は、いるよ」
ハルカは静かに言った。
「でも、もう私のものじゃない。私が動かすものじゃなくて、ただ吹いてる」
「寂しいか」
ヴェロニカが聞く。
ハルカは少し考えた。
「少し」
それから、微笑む。
「でも、軽い。風が私の中に入りすぎて苦しくなることも、街の悲鳴が勝手に聞こえることもない。今は、自分の鼓動がちゃんと聞こえる」
キョウカが妹の頭を乱暴に撫でた。
「ルナが守ってくれたんだな」
「うん」
ハルカは頷く。
「私たちを、ただの私たちに戻してくれた」
異能は消えた。
都市の高機能も失われた。
それは勝利と呼ぶには、あまりにも多くのものを差し出した結末だった。
だが、四人の体は確かに軽かった。
ガーデンの実験によって植え付けられた力。
逃亡のために研ぎ澄まされた力。
戦うためにしか使い道を知らなかった力。
それらが失われた後に残ったのは、傷だらけの身体と、空っぽになった手と、それでも立っている自分自身だった。
ヴェロニカは、自分の背へ意識を向けた。
蒼黒い魔力の翼は、もうない。
悪魔のように噴き上がっていた力も、左頬の星型の痣から溢れていた魔力も、夜明け前の霧のように薄れていた。
痣そのものは残っている。
だが、それはもう鎖ではなかった。
家畜の刻印でも、ベアトに利用された証でもない。
ただ、彼女がここまで生き延びてきた痕跡だった。
ヴェロニカは高台の先へ歩いた。
そこに、一輪の花が咲いていた。
瓦礫の隙間から伸びた、白銀の花。
形は小さい。
けれど、その花弁はかすかにハートの形をしていた。
ルナが残した、新しい種。
都市の全機能が沈黙した後も、その花だけは淡く脈動していた。
ドクン。
ドクン。
音は聞こえない。
けれど、確かに感じる。
胸の奥で、誰かがそっと合図を送っているような、静かな鼓動。
ヴェロニカは膝をつき、花に指を触れた。
冷たくはなかった。
ほんの少しだけ、温かかった。
「ルナ」
名を呼ぶ。
返事はない。
当然だった。
もう、あの少女の声は聞こえない。
わからない、と首を傾げる声も。
ヴェロニカ、と呼ぶ声も。
だいすき、と最後に残した声も。
それでも、花はそこにあった。
ルナが消えた証ではなく。
ルナが確かに生きた証として。
「貴女は、最後まで私たちより先に歩いてしまったな」
ヴェロニカは静かに言った。
「守ると言ったのに。離れるなと言ったのに。結局、貴女に守られた」
アリスが隣へ来た。
彼女は花を見下ろし、しばらく黙っていた。
「あの子、ずるいよ」
「ずるい?」
「うん。あんな最後の言葉を残されたら、忘れられないじゃん」
アリスはしゃがみ込み、花へ視線を合わせる。
「ルナちゃん。私、たぶんまた機械を作るよ。ネットワークは消えたけど、線を繋ぐことはできる。電気がなくても、旗とか、鐘とか、手紙とか。情報って、別に端末の中だけにあるものじゃないし」
少し笑う。
「あはっ。悔しいけど、それを教えたのは君だ」
キョウカも近づいてきた。
彼女は腕を組み、花を見て、どうにも居心地悪そうに顔をしかめた。
「……なあ、ルナ」
声は乱暴だった。
けれど、いつもの勢いはない。
「アタシ、あんたのこと殴ろうとしたよな。あんたがいるとアタシらが壊れるって思って、本気で消そうとした」
ハルカが隣で目を伏せる。
キョウカは拳を握り、すぐに開いた。
「悪かった」
たった一言。
それ以上の言葉を、キョウカは知らない。
けれど、その一言はまっすぐだった。
「それと、ありがとな。あんたのおかげで、ハルカが隣にいる。アタシも、まだここにいる」
ハルカは花の前に膝をついた。
「ルナちゃん」
小さく呼ぶ。
「私、もう風の声は聞こえない。でも、覚えてる。ルナちゃんが怖いって言った声。消えたくないって思ってたこと。スープを飲みたいって言ったこと」
ハルカは目元を拭った。
「忘れない。風が聞こえなくても、私が覚えてる」
四人はしばらく黙っていた。
その沈黙の中に、別の影が浮かんだ。
エルフィ。
フィーナ。
白銀の髪を持つ、双子のエルフ。
ベアトに作られ、都市の免疫として使われ、最後の瞬間に自分の声を取り戻した同胞たち。
「エルフィとフィーナも、ここにはいない」
ヴェロニカが言った。
声は静かだった。
「だが、最後に自分の名を取り戻した」
アリスが頷く。
「エルフィは、自分で何を守るか決めた。フィーナは、痛いって言えた」
「遅すぎたのかもしれない」
ヴェロニカは花を見つめる。
「それでも、無意味ではなかった」
彼女の胸には、まだ痛みがあった。
同胞を救えなかった痛み。
もっと早く出会えていればという思い。
彼女たちをベアトの道具として終わらせずに済んだという、わずかな救い。
そのすべてが混ざり合い、簡単な言葉にはならなかった。
「エルフィ。フィーナ」
ヴェロニカは、夜空へ向けて呟いた。
「貴女たちを忘れない。同胞として。ベアトの作品ではなく、自分の名を持った者として」
そして、最後にベアトのことを思った。
憎むべき支配者。
一族を滅ぼした仇。
人を部品にし、街を庭にし、痛みから逃れるためにすべてを標本へ変えようとした女。
許せるはずがなかった。
同情だけで片付けることもできなかった。
だが、彼女もまた、最初から怪物だったわけではない。
世界に焼き払われ、苗床にされ、都市の悲鳴を流し込まれ続けた果てに、あの狂った庭を作った。
「ベアト」
ヴェロニカは目を閉じた。
「貴女を許しはしない」
風が、瓦礫の間を通る。
「だが、貴女が痛んでいたことだけは、覚えておく。貴女のようにならないために。痛みを理由に、誰かを縛らないために」
月明かりが、白銀の花を照らした。
その花は、ベアトの庭に咲いたどんな花よりも小さかった。
けれど、誰の命令も受けていない。
誰かを縛るためでもない。
ただ、瓦礫の中に根を下ろし、静かに咲いていた。
遠くから、槌音が響いた。
誰かが木材を組み始めている。
誰かが石を運んでいる。
誰かが火の番をし、誰かが怪我人に水を渡している。
まだ夜は明けていない。
だが、人々はもう動き始めていた。
「行くぞ」
ヴェロニカは立ち上がった。
アリスが眉を上げる。
「どこへ?」
「手伝いに」
「休まないの?」
「休む場所を作ってからだ」
「あはっ。ヴェロニカらしい」
キョウカが肩を鳴らす。
「怪力はなくなったけど、瓦礫くらいなら運べるだろ」
「お姉ちゃん、無理しないで」
「しねえよ。たぶん」
「たぶんって言った」
ハルカが少し笑った。
その笑顔は、もう風に揺らされてはいない。
彼女自身の笑顔だった。
四人は高台を降りていく。
その背に、翼はない。
手に超常の力もない。
世界を一瞬で変える端末も、天候を従える異能も、装甲を砕く怪力もない。
それでも、彼女たちは歩いていた。
自分の足で。
自分の意思で。
瓦礫の街へ戻っていくと、人々が顔を上げた。
「ヴェロニカ!」
「こっちを支えてくれ!」
「アリス、これ、どう繋げばいい?」
「キョウカ、木材運べるか?」
「ハルカ、水を分ける場所を見てくれないか?」
四人はそれぞれに返事をした。
アリスは配線の代わりに縄と合図の仕組みを考え始める。
キョウカは文句を言いながら木材を担ぐ。
ハルカは水場を見に行き、どこに人を集めれば風通しがよいかを、自分の目で確かめる。
ヴェロニカは崩れた壁の前に立ち、数人と一緒に支柱を組み直した。
誰も彼女を猟犬とは呼ばない。
誰も騎士として跪かない。
ただ、一人の住人として名を呼ぶ。
それが、ひどく心地よかった。
やがて東の空が白み始めた。
ネオンのない街に、本当の夜明けが近づいていた。
太陽の光が瓦礫の上に差し込み、焚き火の煙を黄金色に染める。人々の顔が少しずつ明るくなり、白銀の花が朝の光を受けて、かすかに輝いた。
ドクン。
その鼓動は、もう都市のシステムを動かすものではない。
人々の胸の中に残った、小さな合図だった。
ヴェロニカは作業の手を止め、振り返る。
高台の上で、白銀の花が揺れていた。
「ルナ」
彼女は心の中で呼んだ。
返事はない。
それでよかった。
返事がなくても、歩いていける。
失ったものを抱えたまま、忘れずに、生きていける。
ヴェロニカは前を向いた。
「ここからだ」
誰にともなく、そう言った。
管理された楽園は終わった。
支配者の庭も、都市の起源も、すべて沈黙した。
ここから先にあるのは、何も保証されていない道だった。
水を汲み、火を起こし、壁を立て、争い、話し合い、間違え、やり直す日々。
長く、険しく、不完全な道。
けれど、それは彼女たち自身の道だった。
瓦礫の隙間を抜ける風は、もう誰かのものではない。
ただ自由に吹いている。
その風が、白銀の花を揺らし、人々の笑い声と槌音を遠くへ運んでいった。
紅蓮都市の長い夜は終わった。
そして、何もかもを失った街に。
ようやく、最初の朝が来た。