冷たい雨が、廃墟の街を叩いていた。
崩れた工場の壁。
錆びた鉄骨。
水たまりに沈む割れたネオン管。
その中心で、四つの影が向かい合っていた。
ヴェロニカとアリス。
キョウカとハルカ。
ガーデンの猟犬と、特区から逃げ出した姉妹。
最初に動いたのは、キョウカだった。
「行くぞ、エルフ女ッ!」
巨大なガントレットが雨を弾く。
キョウカが地面を蹴った瞬間、足元のコンクリートが円形に砕けた。
速い。
重い。
真っ直ぐに見えて、進路はわずかに斜め。
背後のアリスへ抜ける道を塞ぎながら、ヴェロニカだけを正面に捉える軌道だった。
ヴェロニカは眉を寄せる。
ただの力任せではない。
キョウカの動きは荒々しい。だが、雑ではなかった。
「厄介だな」
ヴェロニカは拳を握る。
左頬の星型の痣が青白く輝いた。
迫る鉄拳を、彼女は真正面から受け止めず、半身で流した。
空気が爆ぜる。
拳が逸れた先の鉄柱が折れ曲がり、上部の足場が派手に崩れた。
「避けるの上手いじゃねえか!」
「貴様の拳をまともに受ける趣味はない」
「へえ。じゃあ受けるしかねえ状況にしてやるよ!」
キョウカは崩れ落ちる鉄骨を片手で掴んだ。
そして、それを槍のように投げつける。
鉄骨が雨を裂き、ヴェロニカの逃げ道を塞ぐ。
同時にキョウカが低く踏み込んだ。
投擲は攻撃ではない。
視界と足場を制限するための布石。
その奥から、本命の拳が来る。
ヴェロニカは一瞬で理解した。
この少女は、見た目ほど単純ではない。
「脳筋に見せかけて、頭も冴えるか」
「見せかけじゃねえ。力でぶっ壊すのが好きなだけだ!」
キョウカの拳が迫る。
ヴェロニカは地面に片手をつき、全身をひねって回避した。雨水を巻き上げながら、そのまま足払いを放つ。
しかし、キョウカは倒れない。
ガントレットの指を地面に突き立て、強引に姿勢を固定した。
「それも読んでる!」
キョウカは地面ごと腕を振り上げた。
砕けたコンクリート片が散弾のようにヴェロニカへ飛ぶ。
ヴェロニカは腕で顔を庇いながら後退した。
その頬に、小さな傷が走る。
雨に混じって、赤い線が流れた。
「……なるほど」
ヴェロニカの目つきが変わる。
「貴様はただの脱走者ではないな」
「今さらかよ!」
キョウカが笑う。
「アタシらはずっと追われてきた。逃げて、隠れて、ぶっ飛ばして、生き残ってきたんだよ。檻の中で訓練ごっこしてた連中と一緒にすんな!」
その声には、怒りがあった。
だが同時に、冷静な計算もある。
挑発しながら、距離を測っている。
ヴェロニカの反応速度。
踏み込みの癖。
守りに入る瞬間。
キョウカは戦いながら、それを読み取っていた。
ヴェロニカは静かに息を吐く。
厄介だ。
怪力だけなら対処できる。
速さだけなら捕まえられる。
だが、怪力を戦術として使う相手は面倒だ。
力で道を作り、力で視界を奪い、力で選択肢を潰してくる。
正面からの破壊を、頭脳で支えている。
「評価を改めよう、キョウカ」
「そりゃ光栄だな、組織の犬」
「私は犬ではない」
「首輪付きはだいたいそう言うんだよ!」
再び拳がぶつかる。
重い衝撃が雨の廃墟に響いた。
一方、少し離れた区域では、アリスとハルカが向かい合っていた。
アリスは黒い手袋を濡らしながら、壊れた制御盤の前にしゃがみ込んでいる。
「あはっ。なるほどね。電源系統を水で潰して、予備回線も湿度で腐らせた。カメラのレンズには霧。通信アンテナは氷結。徹底してるじゃん」
彼女は楽しそうに笑った。
「でも、完全に死んだ機械ってわけじゃない。残留電荷がある。ちょっと触れば――」
「よそ見してる余裕、あるんだ」
静かな声。
アリスは顔を上げた。
ハルカが雨の向こうに立っている。
無垢な笑み。
冷たい瞳。
その小さな手が、空へ向けられていた。
次の瞬間、空気が変わる。
雨粒が凍った。
細かな氷の粒が、雹となってアリスの頭上へ降り注ぐ。
「雹?」
アリスは軽く笑った。
「そんな小石みたいなので私を止める気?」
だが、その笑みはすぐに消えた。
一粒目が、足元の鉄板を貫いた。
甲高い音。
続いて二粒目、三粒目。
雹はただの氷ではなかった。
高密度に圧縮され、鋭く尖り、落下速度を局所的な下降気流で加速されている。
氷の弾丸。
それが、雨の中に紛れて降ってくる。
「うわ、嘘」
アリスは即座に横へ跳んだ。
直後、彼女がいた場所に無数の雹が突き刺さる。
壊れた制御盤が穴だらけになり、火花を散らして沈黙した。
「あはっ……これは予想外」
アリスは濡れた髪を払いながら笑った。
笑っているが、目は笑っていない。
「たかが雹、って舐めたのは私のミスだね」
「うん」
ハルカは頷く。
「今のは、ちゃんとミス」
「刺すね、ハルカちゃん」
「褒めても手加減しないよ」
「褒めてない。気に入っただけ」
アリスは左手を地面につけた。
黒い革手袋の内部で、ナノインターフェースが展開する。
生きている回線はない。
ならば、死んだ機械を利用する。
周囲に散らばったセンサー片、電線、古い照明ユニット。
わずかに残った電荷をかき集め、一瞬だけ仮設ネットワークを作る。
「さあ、遊ぼうか」
アリスが指を鳴らす。
廃墟の照明が一瞬だけ点滅した。
壊れた投光器が誤作動を起こし、強い光がハルカの目を狙う。
しかし、ハルカは目を閉じていた。
「光は、霧で曲げられる」
空気が揺れる。
投光器の光はハルカに届く直前で屈折し、別の方向へ逸れていった。
「へえ」
アリスの笑みが深くなる。
「ほんと嫌な子」
「あなたほどじゃないと思う」
「あはっ。言うじゃん」
アリスは後退しながら、雹の軌道を読む。
直線ではない。
風がある。
小さな気圧差で弾道が曲がる。
しかも、ハルカはアリスの逃げ先を読んで降らせている。
無邪気な顔で、効率的に追い詰めてくる。
アリスは笑った。
面白い。
想定よりずっと面白い。
「先輩、そっちは?」
アリスが声を飛ばす。
だが、その一瞬が隙になった。
「よそ見」
ハルカの声。
アリスの頭上で、雲が渦を巻いた。
先ほどより大きい雹が、一点集中で落ちてくる。
「する余裕が」
空気が鳴る。
「あるの?」
アリスは舌打ちした。
避けるには遅い。
なら、落下地点を変える。
彼女は近くの鉄柵へ手袋を触れさせ、残留磁力を強引に励起させた。
鉄柵が跳ね上がり、即席の盾になる。
次の瞬間、雹が鉄柵を叩き潰した。
凄まじい衝撃に、アリスの体が吹き飛ぶ。
彼女は地面を転がり、瓦礫に背中をぶつけて止まった。
「痛っ……!」
口元から笑みは消えていない。
だが、額から雨とは違う汗が流れる。
「あはっ。いいね。ハルカちゃん、君、私のこと殺す気だ」
「うん」
ハルカはあっさり頷く。
「邪魔だから」
「最高に合理的」
アリスは立ち上がった。
「でも、合理性なら私も負けないよ」
その頃、ヴェロニカとキョウカの戦いはさらに激しさを増していた。
廃工場の中央部は、すでに原形を留めていない。
鉄柱は折れ、壁は砕け、地面には拳の跡と足跡が無数に刻まれている。
キョウカのガントレットが唸る。
ヴェロニカの星型の痣が輝く。
二人はほとんど同時に踏み込んだ。
「そろそろ終わらせる!」
キョウカが叫ぶ。
彼女のガントレットが異常な密度へ変化していく。
金属が黒く鈍り、周囲の雨粒が重力に引かれるように拳へ集まる。
超高密度化。
メガトン・パンチ。
まともに受ければ、ヴェロニカの頑丈な肉体でもただでは済まない。
「同感だ」
ヴェロニカも拳を引いた。
左頬の星が、これまでになく強く輝く。
青白い魔力が腕へ集中し、スーツの袖が完全に裂けた。
肉体に宿るエルフの異能。
部族の長の証。
その力が、拳の一点へ凝縮される。
キョウカは笑う。
「いいじゃねえか」
ヴェロニカも目を細める。
「来い」
雨が一瞬、止まったように見えた。
二人の足元が砕ける。
同時に踏み込む。
怪力の拳。
異能の拳。
その一撃が、真正面から衝突する――。
はずだった。
直前、地面が割れた。
二人の間から、巨大な根が噴き上がる。
「なっ――!?」
キョウカの拳が根に叩き込まれる。
同時に、ヴェロニカの拳も反対側から根を撃ち抜いた。
衝撃で巨大な根が裂ける。
だが、完全には砕けない。
植物とは思えない硬度。
異能を帯びた、生きた防壁。
ヴェロニカは即座に後退した。
キョウカも舌打ちして距離を取る。
「何だ、これ」
アリスが離れた場所で顔を上げる。
「あはっ……この生体反応、まさか」
通信が割り込んだ。
月桂冠の紋章。
雨に濡れた廃墟の空間に、ベアトの声が静かに響く。
『そこまでです、ヴェロニカ。アリス』
ヴェロニカは息を整えながら答える。
「ベアト様」
アリスは瓦礫にもたれ、口元の血を手袋で拭った。
「いいところで邪魔するじゃん、ベアト様」
『そのまま戦闘を継続すれば、勝利は可能でしょう。しかし、損耗が大きすぎます』
地面からさらに根が伸び、ヴェロニカとキョウカ、アリスとハルカの間を隔てていく。
根の表面には、月桂冠の葉に似た紋様が浮かんでいた。
ベアトの力。
遠隔で廃墟の地下に眠る植物因子を起こし、戦場そのものを分断している。
『対象姉妹の能力値は、事前データを上回っています。加えて、地形と天候があちらに有利です。これ以上の交戦は不利と判断します』
「しかし、任務は――」
『撤退しなさい』
その声は穏やかだった。
だが、拒否を許さない響きがあった。
『これは命令です』
ヴェロニカは拳を握る。
視線の先で、キョウカがこちらを睨んでいる。
「逃げんのか、組織の犬!」
「……任務は継続する」
ヴェロニカは低く答えた。
「次は捕らえる」
「やってみろよ」
キョウカがガントレットを鳴らす。
その背後で、ハルカが静かにアリスを見ていた。
「次は、よそ見しない方がいいよ」
アリスは笑う。
「あはっ。次は、君の空ごと奪ってあげる」
「できるならね」
「できるよ。私は天才だから」
ベアトの根がさらに広がり、姉妹の姿を完全に遮った。
ヴェロニカは最後までその方向を見ていた。
胸の奥に、小さな違和感が残っている。
なぜベアトは、このタイミングで撤退を命じたのか。
勝てない戦いではなかった。
確かに損耗は大きい。
だが、ガーデンが抹殺許可まで出した対象なら、多少の損害を覚悟してでも仕留めるのが普通だ。
それなのに、ベアトは止めた。
まるで、今ここで決着がつくことを望んでいないように。
「先輩」
アリスの声で、ヴェロニカは思考を止めた。
アリスは濡れた髪を払い、まだ笑っている。
「撤退だってさ」
「ああ」
「楽しかったね」
「私は楽しくない」
「嘘。ちょっと燃えてたじゃん」
「黙れ、生意気なガキ」
「あはっ。はいはい」
二人はベアトの根が作った退路へ向かう。
雨はまだ降っている。
冷たく、重く、廃墟の血を洗い流すように。
背後で、キョウカの怒鳴り声がかすかに聞こえた。
ハルカの静かな声も。
ヴェロニカは振り返らなかった。
だが、彼女の左頬の星は、まだかすかに疼いていた。
この任務は、何かがおかしい。
その疑念は、雨の中で消えることなく、ヴェロニカの胸に深く沈んでいった。