紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode3 冷雨の拳、雹の罠

 冷たい雨が、廃墟の街を叩いていた。

 

 崩れた工場の壁。

 

 錆びた鉄骨。

 

 水たまりに沈む割れたネオン管。

 

 その中心で、四つの影が向かい合っていた。

 

 ヴェロニカとアリス。

 

 キョウカとハルカ。

 

 ガーデンの猟犬と、特区から逃げ出した姉妹。

 

 最初に動いたのは、キョウカだった。

 

「行くぞ、エルフ女ッ!」

 

 巨大なガントレットが雨を弾く。

 

 キョウカが地面を蹴った瞬間、足元のコンクリートが円形に砕けた。

 

 速い。

 

 重い。

 

 真っ直ぐに見えて、進路はわずかに斜め。

 

 背後のアリスへ抜ける道を塞ぎながら、ヴェロニカだけを正面に捉える軌道だった。

 

 ヴェロニカは眉を寄せる。

 

 ただの力任せではない。

 

 キョウカの動きは荒々しい。だが、雑ではなかった。

 

「厄介だな」

 

 ヴェロニカは拳を握る。

 

 左頬の星型の痣が青白く輝いた。

 

 迫る鉄拳を、彼女は真正面から受け止めず、半身で流した。

 

 空気が爆ぜる。

 

 拳が逸れた先の鉄柱が折れ曲がり、上部の足場が派手に崩れた。

 

「避けるの上手いじゃねえか!」

 

「貴様の拳をまともに受ける趣味はない」

 

「へえ。じゃあ受けるしかねえ状況にしてやるよ!」

 

 キョウカは崩れ落ちる鉄骨を片手で掴んだ。

 

 そして、それを槍のように投げつける。

 

 鉄骨が雨を裂き、ヴェロニカの逃げ道を塞ぐ。

 

 同時にキョウカが低く踏み込んだ。

 

 投擲は攻撃ではない。

 

 視界と足場を制限するための布石。

 

 その奥から、本命の拳が来る。

 

 ヴェロニカは一瞬で理解した。

 

 この少女は、見た目ほど単純ではない。

 

「脳筋に見せかけて、頭も冴えるか」

 

「見せかけじゃねえ。力でぶっ壊すのが好きなだけだ!」

 

 キョウカの拳が迫る。

 

 ヴェロニカは地面に片手をつき、全身をひねって回避した。雨水を巻き上げながら、そのまま足払いを放つ。

 

 しかし、キョウカは倒れない。

 

 ガントレットの指を地面に突き立て、強引に姿勢を固定した。

 

「それも読んでる!」

 

 キョウカは地面ごと腕を振り上げた。

 

 砕けたコンクリート片が散弾のようにヴェロニカへ飛ぶ。

 

 ヴェロニカは腕で顔を庇いながら後退した。

 

 その頬に、小さな傷が走る。

 

 雨に混じって、赤い線が流れた。

 

「……なるほど」

 

 ヴェロニカの目つきが変わる。

 

「貴様はただの脱走者ではないな」

 

「今さらかよ!」

 

 キョウカが笑う。

 

「アタシらはずっと追われてきた。逃げて、隠れて、ぶっ飛ばして、生き残ってきたんだよ。檻の中で訓練ごっこしてた連中と一緒にすんな!」

 

 その声には、怒りがあった。

 

 だが同時に、冷静な計算もある。

 

 挑発しながら、距離を測っている。

 

 ヴェロニカの反応速度。

 

 踏み込みの癖。

 

 守りに入る瞬間。

 

 キョウカは戦いながら、それを読み取っていた。

 

 ヴェロニカは静かに息を吐く。

 

 厄介だ。

 

 怪力だけなら対処できる。

 

 速さだけなら捕まえられる。

 

 だが、怪力を戦術として使う相手は面倒だ。

 

 力で道を作り、力で視界を奪い、力で選択肢を潰してくる。

 

 正面からの破壊を、頭脳で支えている。

 

「評価を改めよう、キョウカ」

 

「そりゃ光栄だな、組織の犬」

 

「私は犬ではない」

 

「首輪付きはだいたいそう言うんだよ!」

 

 再び拳がぶつかる。

 

 重い衝撃が雨の廃墟に響いた。

 

 一方、少し離れた区域では、アリスとハルカが向かい合っていた。

 

 アリスは黒い手袋を濡らしながら、壊れた制御盤の前にしゃがみ込んでいる。

 

「あはっ。なるほどね。電源系統を水で潰して、予備回線も湿度で腐らせた。カメラのレンズには霧。通信アンテナは氷結。徹底してるじゃん」

 

 彼女は楽しそうに笑った。

 

「でも、完全に死んだ機械ってわけじゃない。残留電荷がある。ちょっと触れば――」

 

「よそ見してる余裕、あるんだ」

 

 静かな声。

 

 アリスは顔を上げた。

 

 ハルカが雨の向こうに立っている。

 

 無垢な笑み。

 

 冷たい瞳。

 

 その小さな手が、空へ向けられていた。

 

 次の瞬間、空気が変わる。

 

 雨粒が凍った。

 

 細かな氷の粒が、雹となってアリスの頭上へ降り注ぐ。

 

「雹?」

 

 アリスは軽く笑った。

 

「そんな小石みたいなので私を止める気?」

 

 だが、その笑みはすぐに消えた。

 

 一粒目が、足元の鉄板を貫いた。

 

 甲高い音。

 

 続いて二粒目、三粒目。

 

 雹はただの氷ではなかった。

 

 高密度に圧縮され、鋭く尖り、落下速度を局所的な下降気流で加速されている。

 

 氷の弾丸。

 

 それが、雨の中に紛れて降ってくる。

 

「うわ、嘘」

 

 アリスは即座に横へ跳んだ。

 

 直後、彼女がいた場所に無数の雹が突き刺さる。

 

 壊れた制御盤が穴だらけになり、火花を散らして沈黙した。

 

「あはっ……これは予想外」

 

 アリスは濡れた髪を払いながら笑った。

 

 笑っているが、目は笑っていない。

 

「たかが雹、って舐めたのは私のミスだね」

 

「うん」

 

 ハルカは頷く。

 

「今のは、ちゃんとミス」

 

「刺すね、ハルカちゃん」

 

「褒めても手加減しないよ」

 

「褒めてない。気に入っただけ」

 

 アリスは左手を地面につけた。

 

 黒い革手袋の内部で、ナノインターフェースが展開する。

 

 生きている回線はない。

 

 ならば、死んだ機械を利用する。

 

 周囲に散らばったセンサー片、電線、古い照明ユニット。

 

 わずかに残った電荷をかき集め、一瞬だけ仮設ネットワークを作る。

 

「さあ、遊ぼうか」

 

 アリスが指を鳴らす。

 

 廃墟の照明が一瞬だけ点滅した。

 

 壊れた投光器が誤作動を起こし、強い光がハルカの目を狙う。

 

 しかし、ハルカは目を閉じていた。

 

「光は、霧で曲げられる」

 

 空気が揺れる。

 

 投光器の光はハルカに届く直前で屈折し、別の方向へ逸れていった。

 

「へえ」

 

 アリスの笑みが深くなる。

 

「ほんと嫌な子」

 

「あなたほどじゃないと思う」

 

「あはっ。言うじゃん」

 

 アリスは後退しながら、雹の軌道を読む。

 

 直線ではない。

 

 風がある。

 

 小さな気圧差で弾道が曲がる。

 

 しかも、ハルカはアリスの逃げ先を読んで降らせている。

 

 無邪気な顔で、効率的に追い詰めてくる。

 

 アリスは笑った。

 

 面白い。

 

 想定よりずっと面白い。

 

「先輩、そっちは?」

 

 アリスが声を飛ばす。

 

 だが、その一瞬が隙になった。

 

「よそ見」

 

 ハルカの声。

 

 アリスの頭上で、雲が渦を巻いた。

 

 先ほどより大きい雹が、一点集中で落ちてくる。

 

「する余裕が」

 

 空気が鳴る。

 

「あるの?」

 

 アリスは舌打ちした。

 

 避けるには遅い。

 

 なら、落下地点を変える。

 

 彼女は近くの鉄柵へ手袋を触れさせ、残留磁力を強引に励起させた。

 

 鉄柵が跳ね上がり、即席の盾になる。

 

 次の瞬間、雹が鉄柵を叩き潰した。

 

 凄まじい衝撃に、アリスの体が吹き飛ぶ。

 

 彼女は地面を転がり、瓦礫に背中をぶつけて止まった。

 

「痛っ……!」

 

 口元から笑みは消えていない。

 

 だが、額から雨とは違う汗が流れる。

 

「あはっ。いいね。ハルカちゃん、君、私のこと殺す気だ」

 

「うん」

 

 ハルカはあっさり頷く。

 

「邪魔だから」

 

「最高に合理的」

 

 アリスは立ち上がった。

 

「でも、合理性なら私も負けないよ」

 

 その頃、ヴェロニカとキョウカの戦いはさらに激しさを増していた。

 

 廃工場の中央部は、すでに原形を留めていない。

 

 鉄柱は折れ、壁は砕け、地面には拳の跡と足跡が無数に刻まれている。

 

 キョウカのガントレットが唸る。

 

 ヴェロニカの星型の痣が輝く。

 

 二人はほとんど同時に踏み込んだ。

 

「そろそろ終わらせる!」

 

 キョウカが叫ぶ。

 

 彼女のガントレットが異常な密度へ変化していく。

 

 金属が黒く鈍り、周囲の雨粒が重力に引かれるように拳へ集まる。

 

 超高密度化。

 

 メガトン・パンチ。

 

 まともに受ければ、ヴェロニカの頑丈な肉体でもただでは済まない。

 

「同感だ」

 

 ヴェロニカも拳を引いた。

 

 左頬の星が、これまでになく強く輝く。

 

 青白い魔力が腕へ集中し、スーツの袖が完全に裂けた。

 

 肉体に宿るエルフの異能。

 

 部族の長の証。

 

 その力が、拳の一点へ凝縮される。

 

 キョウカは笑う。

 

「いいじゃねえか」

 

 ヴェロニカも目を細める。

 

「来い」

 

 雨が一瞬、止まったように見えた。

 

 二人の足元が砕ける。

 

 同時に踏み込む。

 

 怪力の拳。

 

 異能の拳。

 

 その一撃が、真正面から衝突する――。

 

 はずだった。

 

 直前、地面が割れた。

 

 二人の間から、巨大な根が噴き上がる。

 

「なっ――!?」

 

 キョウカの拳が根に叩き込まれる。

 

 同時に、ヴェロニカの拳も反対側から根を撃ち抜いた。

 

 衝撃で巨大な根が裂ける。

 

 だが、完全には砕けない。

 

 植物とは思えない硬度。

 

 異能を帯びた、生きた防壁。

 

 ヴェロニカは即座に後退した。

 

 キョウカも舌打ちして距離を取る。

 

「何だ、これ」

 

 アリスが離れた場所で顔を上げる。

 

「あはっ……この生体反応、まさか」

 

 通信が割り込んだ。

 

 月桂冠の紋章。

 

 雨に濡れた廃墟の空間に、ベアトの声が静かに響く。

 

『そこまでです、ヴェロニカ。アリス』

 

 ヴェロニカは息を整えながら答える。

 

「ベアト様」

 

 アリスは瓦礫にもたれ、口元の血を手袋で拭った。

 

「いいところで邪魔するじゃん、ベアト様」

 

『そのまま戦闘を継続すれば、勝利は可能でしょう。しかし、損耗が大きすぎます』

 

 地面からさらに根が伸び、ヴェロニカとキョウカ、アリスとハルカの間を隔てていく。

 

 根の表面には、月桂冠の葉に似た紋様が浮かんでいた。

 

 ベアトの力。

 

 遠隔で廃墟の地下に眠る植物因子を起こし、戦場そのものを分断している。

 

『対象姉妹の能力値は、事前データを上回っています。加えて、地形と天候があちらに有利です。これ以上の交戦は不利と判断します』

 

「しかし、任務は――」

 

『撤退しなさい』

 

 その声は穏やかだった。

 

 だが、拒否を許さない響きがあった。

 

『これは命令です』

 

 ヴェロニカは拳を握る。

 

 視線の先で、キョウカがこちらを睨んでいる。

 

「逃げんのか、組織の犬!」

 

「……任務は継続する」

 

 ヴェロニカは低く答えた。

 

「次は捕らえる」

 

「やってみろよ」

 

 キョウカがガントレットを鳴らす。

 

 その背後で、ハルカが静かにアリスを見ていた。

 

「次は、よそ見しない方がいいよ」

 

 アリスは笑う。

 

「あはっ。次は、君の空ごと奪ってあげる」

 

「できるならね」

 

「できるよ。私は天才だから」

 

 ベアトの根がさらに広がり、姉妹の姿を完全に遮った。

 

 ヴェロニカは最後までその方向を見ていた。

 

 胸の奥に、小さな違和感が残っている。

 

 なぜベアトは、このタイミングで撤退を命じたのか。

 

 勝てない戦いではなかった。

 

 確かに損耗は大きい。

 

 だが、ガーデンが抹殺許可まで出した対象なら、多少の損害を覚悟してでも仕留めるのが普通だ。

 

 それなのに、ベアトは止めた。

 

 まるで、今ここで決着がつくことを望んでいないように。

 

「先輩」

 

 アリスの声で、ヴェロニカは思考を止めた。

 

 アリスは濡れた髪を払い、まだ笑っている。

 

「撤退だってさ」

 

「ああ」

 

「楽しかったね」

 

「私は楽しくない」

 

「嘘。ちょっと燃えてたじゃん」

 

「黙れ、生意気なガキ」

 

「あはっ。はいはい」

 

 二人はベアトの根が作った退路へ向かう。

 

 雨はまだ降っている。

 

 冷たく、重く、廃墟の血を洗い流すように。

 

 背後で、キョウカの怒鳴り声がかすかに聞こえた。

 

 ハルカの静かな声も。

 

 ヴェロニカは振り返らなかった。

 

 だが、彼女の左頬の星は、まだかすかに疼いていた。

 

 この任務は、何かがおかしい。

 

 その疑念は、雨の中で消えることなく、ヴェロニカの胸に深く沈んでいった。

 

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