帰還したヴェロニカは、すぐにベアトの私室へ向かった。
ガーデン本部上層。
都市の中心にそびえる白い塔の、そのさらに奥。
ベアトの部屋は、研究施設というより温室に近かった。鉄とガラスで作られた空間に、ありえないほど濃密な緑が満ちている。蔦が壁を這い、天井からは色鮮やかな花が垂れ、床の隙間からは柔らかな苔が広がっていた。
都市の上層にありながら、そこだけ森だった。
そして、その中心にベアトはいた。
月桂冠のような葉の冠を頭に載せ、穏やかな微笑を浮かべている。背中の蝶の翅は閉じられ、毒々しい模様を花の影に隠していた。
「ベアト様」
ヴェロニカは片膝をつくことなく、真正面から彼女を見た。
「先ほどの命令について、説明を求めます」
ベアトは責めるような顔をしなかった。
むしろ、困った子どもをなだめるように、静かに目を細めた。
「怒っているのですね、ヴェロニカ」
「当然です」
ヴェロニカの声には苛立ちがあった。
「対象姉妹は確かに強力でした。しかし、あの場で交戦を継続していれば、捕縛の可能性はありました。少なくとも、完全に逃がすよりは任務達成に近かったはずです」
「ええ」
「ならば、なぜ撤退命令を」
「貴女を失いたくなかったからです」
あまりにも柔らかな答えだった。
ヴェロニカは言葉を詰まらせる。
ベアトは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄った。
「キョウカとハルカ。あの姉妹は、事前データよりも遥かに危険でした。キョウカの怪力は単純な破壊力に留まらず、戦術として洗練されている。ハルカの天候操作も、局所的な環境支配としてはかなり高い完成度です」
淡々と語る声。
だが、そこには確かな慈愛の色が混じっているように聞こえた。
「そのまま戦えば、貴女たちは勝ったでしょう。けれど、無傷では済まなかった」
「我々は任務遂行のために存在しています」
「いいえ」
ベアトは、そこで初めて少し強い声を出した。
「貴女は、ただの任務装置ではありません」
ヴェロニカの左頬の痣が、かすかに熱を持つ。
ベアトはその痣へ視線を向けた。
「貴女には、まだ果たすべき役割があります。貴女の一族のために。貴女の故郷のために」
「……故郷」
「ええ」
ベアトは優しく微笑む。
「ヴェロニカ。貴女が傷つき、失われれば、その夢も遠のいてしまう。私は、それを望みません」
ヴェロニカは拳を握った。
一族の再興。
滅びかけた故郷。
自分が背負った、最後の希望。
その言葉を出されると、彼女は強く反論できない。
ベアトは続けた。
「撤退は敗北ではありません。庭師は時に、咲き急ぐ花を守るため、枝を退かせることもあるのです」
「私は花ではありません」
「そうですね」
ベアトは笑った。
「貴女は剣です。けれど、剣も折れてしまえば何も守れない」
沈黙。
ヴェロニカはまだ納得していなかった。
だが、ベアトの言葉はいつも、彼女の心の弱い場所へ静かに触れてくる。
その時、部屋の扉の向こうで、わずかな気配が動いた。
ベアトがそちらへ視線を向ける。
「アリス。盗み聞きは楽しいですか?」
扉が開いた。
ピンクゴールドの髪を濡らしたままのアリスが、気だるげに壁へ寄りかかっていた。
「あはっ。盗み聞きじゃなくて、廊下で休んでただけだよ、ベアト様」
「同じことです」
「じゃあ同じでいいや」
ヴェロニカが眉をひそめる。
「貴様、いつから聞いていた」
「『説明を求めます』あたりから」
「最初からではないか」
「途中参加って言ってほしいね」
アリスは室内へ入ると、黒い革手袋を軽く振った。
「まあ、私は別に撤退でいいと思うよ。ハルカちゃん、思ったより厄介だったし。あのまま続けたら、私の髪がもう少し短くなってたかもしれない」
「それだけか」
「大問題じゃん」
アリスは笑い、次にベアトを見た。
その瞳に敬意はない。
だが、退屈そうな口調の奥に、奇妙な忠実さがあった。
「それで、ベアト様。次はどうするの?」
「もう追跡班を動かしています」
「仕事が早いね」
「貴女ほどではありません」
「あはっ。褒めても追加料金は取らないよ」
ベアトは微笑んだ。
「アリス。貴女も、私の命令に従ってくれますね?」
アリスは少しだけ首を傾げる。
そして、黒い手袋を胸元に当てた。
「私の指は、いつでもベアト様の庭のために動くよ」
それは忠誠を誓う言葉だった。
しかし、祈りでも敬服でもなかった。
どちらかと言えば、面白いゲームへの参加表明に近い。
「退屈しない限りはね」
ヴェロニカが顔をしかめる。
「最後の一言が余計だ」
「余計な一言が私の魅力だから」
「魅力ではなく欠点だ」
「あはっ。先輩、見る目ないね」
ベアトはそのやり取りを咎めない。
ただ静かに、二人を見ていた。
まるで、よく育った枝ぶりを確かめるように。
その夜。
ヴェロニカは自室で一人、椅子に座っていた。
照明は落としている。
窓の外には、紅蓮都市のネオンが広がっていた。
巨大な広告ホログラム。
空中を走る輸送路。
遠くの特区を囲う高い壁。
その向こうに、自分の故郷はもうない。
ヴェロニカは左頬の星型の痣に触れた。
まだ少し熱い。
キョウカの拳を受けた時の衝撃が、腕の奥に残っている。
あの少女は強かった。
ただの怪力ではない。
力の使い方を知っている。
足場を壊し、視界を塞ぎ、こちらの選択肢を削る。
ヴェロニカに真正面から挑みながら、同時にアリスへの射線も意識していた。
豪快で、乱暴で、挑発的。
だが、馬鹿ではない。
むしろ頭が冴える。
「……厄介な相手だ」
ハルカも同じだ。
あの妹は、無邪気な笑みの裏で戦場全体を見ていた。
雨、霧、温度、気圧、氷。
機械を殺し、視界を曲げ、アリスの得意分野を封じた。
姉妹の連携は即席ではない。
長い時間を、追われながら生き延びてきた者たちの動きだった。
問題は、なぜ脱走したのか。
そして、ベアトは何を考えているのか。
ヴェロニカは目を閉じる。
考えても答えは出ない。
姉妹の強さは、次に戦うための材料になる。
だが、脱走の目的も、ベアトの思惑も、今の自分が考えても推測でしかない。
任務に必要なのは、事実。
不確かな疑念に足を取られるべきではない。
そう自分に言い聞かせる。
それでも、胸の奥の違和感は消えなかった。
数日後。
再び、二人はベアトの前に呼び出された。
温室の空気は変わらず甘く、どこか息苦しい。
ベアトは大きな透明パネルの前に立っていた。
そこには、紅蓮都市の地下深層マップが映し出されている。
入り組んだ線路。
崩落したトンネル。
旧時代の地下鉄網。
その中央に、赤い点が灯っていた。
「……あの子たちが潜んでいる場所を特定したわ」
ベアトの声は静かだった。
「紅蓮都市の地下、旧時代の地下鉄網の廃墟。通称、コキュートス」
アリスが片眉を上げる。
「あはっ。氷地獄ってわけ? ハルカちゃんにぴったりだね」
「そこには、組織の古い武器庫があります」
ベアトの指先が動く。
マップの一角が拡大される。
地下深く、崩れた駅のさらに奥に、封鎖された区画があった。
「保管されているのは、試作型重力兵器。旧時代に開発された失敗作ですが、扱い方次第では都市区画ひとつを崩落させるだけの力があります」
ヴェロニカの表情が険しくなる。
「姉妹はそれを狙っていると?」
「ええ」
「なぜ」
「自由を求める者は、より大きな力を欲しがるものです」
ベアトは微笑んだ。
「檻を壊すために、都市ごと壊すことも厭わないのでしょう」
ヴェロニカは何も言わなかった。
キョウカの瞳にあった怒り。
ハルカの冷たい覚悟。
彼女たちが本当に都市を壊したいのか、ヴェロニカにはまだ分からない。
しかし、命令は下された。
「ヴェロニカ、アリス」
ベアトの声が低くなる。
「今度は逃がさないで。あの子たちが兵器を手にする前に、その息の根を止める」
月桂冠の葉が、かすかに揺れた。
「あるいは……あの子たちをその場所ごと、地下に埋めてしまいなさい」
アリスは楽しそうに笑った。
「あはっ。派手な命令だね」
「実行できる?」
「できるよ。地下鉄網の旧制御系が残ってれば、崩落誘導くらいはね」
ヴェロニカはベアトを見た。
「対象の生死は問わない、ということですね」
「ええ」
ベアトは優しい声で答える。
「それが、貴女たちとこの都市の安全のためです」
地下鉄網コキュートス。
その名の通り、そこは凍てつくような場所だった。
地上のネオンの熱は届かない。
崩れた階段を下り、封鎖ゲートを抜け、さらに地下へ進むほど、空気は冷えていった。
壁には古い広告が剥がれかけ、ホームには朽ちた列車が横たわっている。
線路の上には水が溜まり、天井から落ちる雫が静かな音を立てていた。
アリスは黒い手袋で壁の端末に触れた。
「通信、かなり悪い。旧制御系も半分死んでる。地下水と結露で電子機器は不安定。これはハルカちゃんの庭だね」
「警戒しろ」
「してるよ。私が警戒してないように見える?」
「見える」
「あはっ。ひどいな」
二人は崩れたホームを進む。
その時だった。
線路の奥から、金属が引き裂かれる音が響いた。
暗闇の中で、巨大な影が動く。
「……遅かったな、組織のクソ犬ども!」
キョウカだった。
彼女は地下鉄用の巨大なレールを一本、文字通り地面から引き抜いていた。
長く、重く、普通なら数人がかりでも動かせない鉄の塊。
それを彼女は、武器のように肩へ担いでいる。
その背後で、ハルカが静かに手を上げていた。
天井から落ちる結露が凍りつく。
水滴は空中で形を変え、無数の氷の刃となって展開された。
淡い光を反射する刃が、暗いホームに冷たい星のように浮かぶ。
「今度は逃がさない」
ハルカの声が、地下に静かに響く。
「ここがあなたたちの……最後」
アリスは口元を吊り上げた。
「あはっ。先に待ってるなんて、歓迎の準備がいいね」
ヴェロニカは無言で前に出る。
左頬の星型の痣が脈打つ。
リミッターが、内側から外れる感覚。
血が熱くなる。
筋肉が軋む。
あの怪力の姉を相手にするには、出し惜しみはできない。
キョウカがレールを振り下ろす。
ヴェロニカは横へ跳び、砕けたホームの破片を浴びながら間合いを詰めた。
ハルカの氷刃が、アリスの逃げ道を塞ぐように放たれる。
アリスは舌打ち混じりに笑い、死んだ改札機へ手袋を触れさせた。
凍てつく地下で、再び二組の戦いが始まる。
ヴェロニカはキョウカの拳を見据えながら、低く呟いた。
「……今回も、私たちはおびき出されたというところか?」
キョウカが獰猛に笑う。
「さあな。そう思うなら、罠ごとぶっ壊してみろよ」
地下鉄網コキュートス。
氷と鉄と闇の底で、四人の影が激突した。