紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode4 氷底鉄路コキュートス

 帰還したヴェロニカは、すぐにベアトの私室へ向かった。

 

 ガーデン本部上層。

 

 都市の中心にそびえる白い塔の、そのさらに奥。

 

 ベアトの部屋は、研究施設というより温室に近かった。鉄とガラスで作られた空間に、ありえないほど濃密な緑が満ちている。蔦が壁を這い、天井からは色鮮やかな花が垂れ、床の隙間からは柔らかな苔が広がっていた。

 

 都市の上層にありながら、そこだけ森だった。

 

 そして、その中心にベアトはいた。

 

 月桂冠のような葉の冠を頭に載せ、穏やかな微笑を浮かべている。背中の蝶の翅は閉じられ、毒々しい模様を花の影に隠していた。

 

「ベアト様」

 

 ヴェロニカは片膝をつくことなく、真正面から彼女を見た。

 

「先ほどの命令について、説明を求めます」

 

 ベアトは責めるような顔をしなかった。

 

 むしろ、困った子どもをなだめるように、静かに目を細めた。

 

「怒っているのですね、ヴェロニカ」

 

「当然です」

 

 ヴェロニカの声には苛立ちがあった。

 

「対象姉妹は確かに強力でした。しかし、あの場で交戦を継続していれば、捕縛の可能性はありました。少なくとも、完全に逃がすよりは任務達成に近かったはずです」

 

「ええ」

 

「ならば、なぜ撤退命令を」

 

「貴女を失いたくなかったからです」

 

 あまりにも柔らかな答えだった。

 

 ヴェロニカは言葉を詰まらせる。

 

 ベアトは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄った。

 

「キョウカとハルカ。あの姉妹は、事前データよりも遥かに危険でした。キョウカの怪力は単純な破壊力に留まらず、戦術として洗練されている。ハルカの天候操作も、局所的な環境支配としてはかなり高い完成度です」

 

 淡々と語る声。

 

 だが、そこには確かな慈愛の色が混じっているように聞こえた。

 

「そのまま戦えば、貴女たちは勝ったでしょう。けれど、無傷では済まなかった」

 

「我々は任務遂行のために存在しています」

 

「いいえ」

 

 ベアトは、そこで初めて少し強い声を出した。

 

「貴女は、ただの任務装置ではありません」

 

 ヴェロニカの左頬の痣が、かすかに熱を持つ。

 

 ベアトはその痣へ視線を向けた。

 

「貴女には、まだ果たすべき役割があります。貴女の一族のために。貴女の故郷のために」

 

「……故郷」

 

「ええ」

 

 ベアトは優しく微笑む。

 

「ヴェロニカ。貴女が傷つき、失われれば、その夢も遠のいてしまう。私は、それを望みません」

 

 ヴェロニカは拳を握った。

 

 一族の再興。

 

 滅びかけた故郷。

 

 自分が背負った、最後の希望。

 

 その言葉を出されると、彼女は強く反論できない。

 

 ベアトは続けた。

 

「撤退は敗北ではありません。庭師は時に、咲き急ぐ花を守るため、枝を退かせることもあるのです」

 

「私は花ではありません」

 

「そうですね」

 

 ベアトは笑った。

 

「貴女は剣です。けれど、剣も折れてしまえば何も守れない」

 

 沈黙。

 

 ヴェロニカはまだ納得していなかった。

 

 だが、ベアトの言葉はいつも、彼女の心の弱い場所へ静かに触れてくる。

 

 その時、部屋の扉の向こうで、わずかな気配が動いた。

 

 ベアトがそちらへ視線を向ける。

 

「アリス。盗み聞きは楽しいですか?」

 

 扉が開いた。

 

 ピンクゴールドの髪を濡らしたままのアリスが、気だるげに壁へ寄りかかっていた。

 

「あはっ。盗み聞きじゃなくて、廊下で休んでただけだよ、ベアト様」

 

「同じことです」

 

「じゃあ同じでいいや」

 

 ヴェロニカが眉をひそめる。

 

「貴様、いつから聞いていた」

 

「『説明を求めます』あたりから」

 

「最初からではないか」

 

「途中参加って言ってほしいね」

 

 アリスは室内へ入ると、黒い革手袋を軽く振った。

 

「まあ、私は別に撤退でいいと思うよ。ハルカちゃん、思ったより厄介だったし。あのまま続けたら、私の髪がもう少し短くなってたかもしれない」

 

「それだけか」

 

「大問題じゃん」

 

 アリスは笑い、次にベアトを見た。

 

 その瞳に敬意はない。

 

 だが、退屈そうな口調の奥に、奇妙な忠実さがあった。

 

「それで、ベアト様。次はどうするの?」

 

「もう追跡班を動かしています」

 

「仕事が早いね」

 

「貴女ほどではありません」

 

「あはっ。褒めても追加料金は取らないよ」

 

 ベアトは微笑んだ。

 

「アリス。貴女も、私の命令に従ってくれますね?」

 

 アリスは少しだけ首を傾げる。

 

 そして、黒い手袋を胸元に当てた。

 

「私の指は、いつでもベアト様の庭のために動くよ」

 

 それは忠誠を誓う言葉だった。

 

 しかし、祈りでも敬服でもなかった。

 

 どちらかと言えば、面白いゲームへの参加表明に近い。

 

「退屈しない限りはね」

 

 ヴェロニカが顔をしかめる。

 

「最後の一言が余計だ」

 

「余計な一言が私の魅力だから」

 

「魅力ではなく欠点だ」

 

「あはっ。先輩、見る目ないね」

 

 ベアトはそのやり取りを咎めない。

 

 ただ静かに、二人を見ていた。

 

 まるで、よく育った枝ぶりを確かめるように。

 

 その夜。

 

 ヴェロニカは自室で一人、椅子に座っていた。

 

 照明は落としている。

 

 窓の外には、紅蓮都市のネオンが広がっていた。

 

 巨大な広告ホログラム。

 

 空中を走る輸送路。

 

 遠くの特区を囲う高い壁。

 

 その向こうに、自分の故郷はもうない。

 

 ヴェロニカは左頬の星型の痣に触れた。

 

 まだ少し熱い。

 

 キョウカの拳を受けた時の衝撃が、腕の奥に残っている。

 

 あの少女は強かった。

 

 ただの怪力ではない。

 

 力の使い方を知っている。

 

 足場を壊し、視界を塞ぎ、こちらの選択肢を削る。

 

 ヴェロニカに真正面から挑みながら、同時にアリスへの射線も意識していた。

 

 豪快で、乱暴で、挑発的。

 

 だが、馬鹿ではない。

 

 むしろ頭が冴える。

 

「……厄介な相手だ」

 

 ハルカも同じだ。

 

 あの妹は、無邪気な笑みの裏で戦場全体を見ていた。

 

 雨、霧、温度、気圧、氷。

 

 機械を殺し、視界を曲げ、アリスの得意分野を封じた。

 

 姉妹の連携は即席ではない。

 

 長い時間を、追われながら生き延びてきた者たちの動きだった。

 

 問題は、なぜ脱走したのか。

 

 そして、ベアトは何を考えているのか。

 

 ヴェロニカは目を閉じる。

 

 考えても答えは出ない。

 

 姉妹の強さは、次に戦うための材料になる。

 

 だが、脱走の目的も、ベアトの思惑も、今の自分が考えても推測でしかない。

 

 任務に必要なのは、事実。

 

 不確かな疑念に足を取られるべきではない。

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 それでも、胸の奥の違和感は消えなかった。

 

 数日後。

 

 再び、二人はベアトの前に呼び出された。

 

 温室の空気は変わらず甘く、どこか息苦しい。

 

 ベアトは大きな透明パネルの前に立っていた。

 

 そこには、紅蓮都市の地下深層マップが映し出されている。

 

 入り組んだ線路。

 

 崩落したトンネル。

 

 旧時代の地下鉄網。

 

 その中央に、赤い点が灯っていた。

 

「……あの子たちが潜んでいる場所を特定したわ」

 

 ベアトの声は静かだった。

 

「紅蓮都市の地下、旧時代の地下鉄網の廃墟。通称、コキュートス」

 

 アリスが片眉を上げる。

 

「あはっ。氷地獄ってわけ? ハルカちゃんにぴったりだね」

 

「そこには、組織の古い武器庫があります」

 

 ベアトの指先が動く。

 

 マップの一角が拡大される。

 

 地下深く、崩れた駅のさらに奥に、封鎖された区画があった。

 

「保管されているのは、試作型重力兵器。旧時代に開発された失敗作ですが、扱い方次第では都市区画ひとつを崩落させるだけの力があります」

 

 ヴェロニカの表情が険しくなる。

 

「姉妹はそれを狙っていると?」

 

「ええ」

 

「なぜ」

 

「自由を求める者は、より大きな力を欲しがるものです」

 

 ベアトは微笑んだ。

 

「檻を壊すために、都市ごと壊すことも厭わないのでしょう」

 

 ヴェロニカは何も言わなかった。

 

 キョウカの瞳にあった怒り。

 

 ハルカの冷たい覚悟。

 

 彼女たちが本当に都市を壊したいのか、ヴェロニカにはまだ分からない。

 

 しかし、命令は下された。

 

「ヴェロニカ、アリス」

 

 ベアトの声が低くなる。

 

「今度は逃がさないで。あの子たちが兵器を手にする前に、その息の根を止める」

 

 月桂冠の葉が、かすかに揺れた。

 

「あるいは……あの子たちをその場所ごと、地下に埋めてしまいなさい」

 

 アリスは楽しそうに笑った。

 

「あはっ。派手な命令だね」

 

「実行できる?」

 

「できるよ。地下鉄網の旧制御系が残ってれば、崩落誘導くらいはね」

 

 ヴェロニカはベアトを見た。

 

「対象の生死は問わない、ということですね」

 

「ええ」

 

 ベアトは優しい声で答える。

 

「それが、貴女たちとこの都市の安全のためです」

 

 地下鉄網コキュートス。

 

 その名の通り、そこは凍てつくような場所だった。

 

 地上のネオンの熱は届かない。

 

 崩れた階段を下り、封鎖ゲートを抜け、さらに地下へ進むほど、空気は冷えていった。

 

 壁には古い広告が剥がれかけ、ホームには朽ちた列車が横たわっている。

 

 線路の上には水が溜まり、天井から落ちる雫が静かな音を立てていた。

 

 アリスは黒い手袋で壁の端末に触れた。

 

「通信、かなり悪い。旧制御系も半分死んでる。地下水と結露で電子機器は不安定。これはハルカちゃんの庭だね」

 

「警戒しろ」

 

「してるよ。私が警戒してないように見える?」

 

「見える」

 

「あはっ。ひどいな」

 

 二人は崩れたホームを進む。

 

 その時だった。

 

 線路の奥から、金属が引き裂かれる音が響いた。

 

 暗闇の中で、巨大な影が動く。

 

「……遅かったな、組織のクソ犬ども!」

 

 キョウカだった。

 

 彼女は地下鉄用の巨大なレールを一本、文字通り地面から引き抜いていた。

 

 長く、重く、普通なら数人がかりでも動かせない鉄の塊。

 

 それを彼女は、武器のように肩へ担いでいる。

 

 その背後で、ハルカが静かに手を上げていた。

 

 天井から落ちる結露が凍りつく。

 

 水滴は空中で形を変え、無数の氷の刃となって展開された。

 

 淡い光を反射する刃が、暗いホームに冷たい星のように浮かぶ。

 

「今度は逃がさない」

 

 ハルカの声が、地下に静かに響く。

 

「ここがあなたたちの……最後」

 

 アリスは口元を吊り上げた。

 

「あはっ。先に待ってるなんて、歓迎の準備がいいね」

 

 ヴェロニカは無言で前に出る。

 

 左頬の星型の痣が脈打つ。

 

 リミッターが、内側から外れる感覚。

 

 血が熱くなる。

 

 筋肉が軋む。

 

 あの怪力の姉を相手にするには、出し惜しみはできない。

 

 キョウカがレールを振り下ろす。

 

 ヴェロニカは横へ跳び、砕けたホームの破片を浴びながら間合いを詰めた。

 

 ハルカの氷刃が、アリスの逃げ道を塞ぐように放たれる。

 

 アリスは舌打ち混じりに笑い、死んだ改札機へ手袋を触れさせた。

 

 凍てつく地下で、再び二組の戦いが始まる。

 

 ヴェロニカはキョウカの拳を見据えながら、低く呟いた。

 

「……今回も、私たちはおびき出されたというところか?」

 

 キョウカが獰猛に笑う。

 

「さあな。そう思うなら、罠ごとぶっ壊してみろよ」

 

 地下鉄網コキュートス。

 

 氷と鉄と闇の底で、四人の影が激突した。

 

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