凍てついた地下ホームに、レールの悲鳴が響いた。
キョウカが振るった巨大な鉄道用レールを、ヴェロニカは紙一重でかわす。砕けたコンクリートが雨のように降り注ぎ、ホームの端に積もっていた氷片が一斉に跳ね上がった。
キョウカは笑っていた。
その笑みは獰猛で、挑発的で、どこか楽しげですらあった。
「いいねえ、エルフ女。今度こそ決着つけようぜ」
巨大なガントレットが、暗闇の中で鈍く光る。
「前回は邪魔が入ったからな。今度は最後まで――」
しかし、ヴェロニカはキョウカへ向かわなかった。
彼女の視線は、キョウカの背後にいるハルカへ向けられていた。
次の瞬間、ヴェロニカは地面を蹴る。
キョウカの横をすり抜け、凍りついた線路の上を一気に駆け抜けた。
「なっ……!?」
キョウカが目を見開く。
「おい、待て! アタシを無視すんじゃねえ!」
ヴェロニカは振り返らない。
彼女が選んだ相手は、キョウカではない。
ハルカだった。
ハルカは一瞬だけ意外そうに目を細めたが、すぐに静かな笑みを浮かべた。
「……お姉ちゃんじゃなくて、私なら勝てる……とでも思ったの?」
その声は冷たい。
だが、怒りではない。
確認するような、試すような声だった。
ヴェロニカは拳を構える。
「違う」
「じゃあ、どうして?」
「アリスを信頼している」
その言葉に、ハルカの瞳がわずかに揺れた。
「アリスなら、キョウカをなんとかできる。そう判断した」
「……へえ」
ハルカは少しだけ首を傾げる。
「仲間を信じて、分断したんだ」
「そうだ」
「組織の人なのに?」
「任務中の判断だ」
ヴェロニカは低く答えた。
「それ以上でも以下でもない」
ハルカは小さく笑った。
「嘘は下手だね」
一方、取り残されたキョウカは不満を隠そうともしなかった。
「おいおいおい、マジかよ。アタシの相手がこいつか?」
キョウカの視線の先には、アリスが立っていた。
アリスは黒い手袋をひらひらと振り、いつもの不気味な笑みを浮かべる。
「あはっ。ひどいな。私じゃ不満?」
「不満に決まってんだろ。アタシはあのエルフ女をぶっ飛ばしたかったんだよ」
「じゃあ、まず私を片付ければいいじゃん」
アリスは笑った。
「その後で先輩と遊びなよ」
「言われなくてもそうする」
キョウカはレールを肩に担ぎ直した。
「テメェをぶっ潰してから、ヴェロニカを殴る。それで決まりだ」
「順番待ちとか律儀だね、キョウカちゃん」
「その呼び方やめろ」
「やだ」
キョウカの足元が砕けた。
次の瞬間、レールが横薙ぎに振るわれる。
アリスは跳んだ。
彼女の細い体が空中でひねられ、巨大な鉄の一撃を避ける。
だが、レールは攻撃の本命ではなかった。
キョウカは振り抜いた勢いのまま、床に転がる瓦礫を蹴り上げる。大小のコンクリート片が、アリスの退避方向へ飛んだ。
「うわ、嫌な置き方するね」
アリスは空中で舌打ちする。
着地候補が潰される。
右へ逃げればレールの返しが来る。
左へ逃げれば瓦礫にぶつかる。
後ろへ下がれば線路脇の氷に足を取られる。
キョウカは大雑把に見えて、逃げ道を削るのが上手い。
アリスは笑っていた。
だが、その胸の奥には、わずかな焦りがあった。
相性が悪い。
サイバーウェア頼りの敵なら、触れる前に殺せる。
ドローンや自動兵器なら、呼吸をするより簡単に奪える。
けれど、キョウカは違う。
単純な肉体。
制御器としてのガントレット。
それを支える異能と、執念。
アリスが最も嫌う、アナログの暴力だった。
「……ほんと、嫌になるね」
アリスは着地直前、黒い手袋を線路へ触れさせた。
残留電流を拾う。
磁場を歪める。
周囲の鉄片をわずかに引き寄せ、足場を作る。
その上を滑るように移動し、キョウカの背後へ回り込んだ。
「あはっ。こっち」
「見えてんだよ!」
キョウカは振り向かずに肘を打ち込んだ。
アリスは目を見開く。
咄嗟に身を反らす。
肘が鼻先をかすめ、風圧だけで髪が乱れた。
「野生動物みたいな反応するじゃん」
「誰が動物だ!」
キョウカが踏み込む。
アリスは笑いながら後退した。
その頃、ハルカとヴェロニカの戦いも始まっていた。
ヴェロニカの動きは速い。
地下ホームの柱を蹴り、壁を蹴り、天井近くの梁まで利用して、ハルカの周囲を疾走する。
真正面から挑めば、キョウカほどではなくともハルカも危険だ。
ならば、速度で崩す。
ヴェロニカはそう判断していた。
だが、ハルカは捕まらない。
彼女は小柄な体を滑らせるように動かし、最小限の動作でヴェロニカの攻撃をかわし続けた。
拳が空を切る。
足払いが水たまりを裂く。
壁際へ追い詰めたはずのハルカは、霧の屈折を利用して一瞬だけ距離感を狂わせ、ヴェロニカの横を抜ける。
「逃げてばかりでは勝てないぞ」
ヴェロニカが低く言う。
ハルカは息を乱さず、静かに答えた。
「逃げるのも、戦いでは大事だよ」
「相手を倒さなければ意味がない」
「倒されなければ、次がある」
ハルカの足元で、水が波紋を作る。
「私たちは、そうやって生きてきた」
その言葉に、ヴェロニカの眉がわずかに動いた。
ハルカは逃げているだけではない。
誘導している。
ヴェロニカは踏み込みを止めた。
足元。
水たまり。
不自然に広がった薄い水膜。
気づいた瞬間、ハルカの声がした。
「もう遅いよ」
水が凍った。
ヴェロニカの両足が、一瞬で氷に拘束される。
ハルカは手をかざす。
天井の結露が集まり、氷の槍となって形成された。
「終わり」
氷槍が放たれる。
だが、ヴェロニカの顔に焦りはなかった。
「対策をしてきていないとでも思ったか」
次の瞬間、彼女のブーツの底から炎が噴射した。
小型の熱噴射装置。
アリスが急造した、対氷結拘束用の装備だった。
氷が割れる。
ヴェロニカは拘束を抜け出し、迫る氷槍を拳で砕いた。
ハルカは目を細める。
「……用意がいいね」
「二度も同じ手は食わん」
「でも」
ハルカの笑みが、少しだけ深くなる。
「私の能力が、氷だけだと思ったの?」
地下ホームの空気が変わった。
上層へ続く崩落穴の奥で、黒い雲が渦巻く。
ハルカが局所的に作り出した雷雲だった。
湿度。
気圧。
温度差。
地下に満ちる水分と、金属の線路。
すべてが導線になる。
ヴェロニカは上を見た。
光。
直後、雷が落ちた。
「ぐっ……!」
青白い閃光がヴェロニカを貫く。
彼女の体が大きく弾かれ、ホームの柱へ叩きつけられた。
煙が上がる。
スーツの一部が焦げ、左頬の星型の痣が強く脈打つ。
ハルカは静かに見つめていた。
「……驚いた」
素直な声だった。
「今ので倒れないんだ」
ヴェロニカは柱に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
呼吸は荒い。
だが、目は死んでいない。
「この程度のダメージ……組織の訓練に比べれば、まだ軽い」
「……それ、自慢にならないよ」
ハルカの声が少しだけ冷たくなる。
「そんな場所にいるから、あなたたちはおかしいんだね」
「任務に不要な感想だ」
「そうやって考えないふりをするんだ」
ハルカは手を振った。
線路脇に溜まっていた砂埃と砕けたコンクリート粉が、一気に巻き上がる。
簡易的な砂嵐。
視界が茶色に塗りつぶされる。
ハルカの姿が消えた。
直後、死角から氷の刃が飛ぶ。
ヴェロニカは首を傾けて避ける。
次は背後。
さらに足元。
ハルカは姿を隠しながら、細かく位置を変え、確実に急所を狙ってきた。
「……卑怯とは言わん」
ヴェロニカは砂嵐の中で呟く。
「だが、姑息だな」
砂の向こうからハルカの声が返る。
「……勝つのが、仕事なんでしょ? なら、私も勝つために……全部使う」
「学が少しばかり足りないようだな」
ヴェロニカは拳を引く。
「姑息とは、その場しのぎという意味だ」
左頬の星が輝く。
「卑怯だと非難しているのではない。貴様の策は、その場しのぎにすぎないと評価している」
ヴェロニカの拳に、青白い魔力が集まる。
「視界を奪えば勝てると思ったか」
次の瞬間、彼女は拳を振り抜いた。
衝撃波が走る。
砂嵐が真っ二つに裂けた。
ハルカの姿が露わになる。
その瞳に、初めて明確な警戒が浮かんだ。
時間は少しだけ戻る。
キョウカとアリスの戦いは、すでに泥仕合へ入りかけていた。
アリスは余裕そうな口調を崩さない。
「あはっ。キョウカちゃん、動きが大きいよ。そんなに暴れると、天井が落ちてくるかも」
「落ちてきたら、まとめてぶっ壊す」
「ほんと発想が単純」
「単純なもんほど強いんだよ!」
キョウカが瓦礫を投げる。
ただ投げるだけではない。
一つはアリスの右側。
一つは左後方。
一つは頭上の配管。
逃げ道を切る。
退路を狭める。
アリスがどこへ動いても、キョウカの間合いへ戻されるように。
アリスは内心で舌打ちした。
厄介。
本当に厄介。
この姉、見た目ほど雑ではない。
「あはっ。頭も回るパワー系って、ゲームバランス壊れてない?」
「知らねえよ!」
キョウカが踏み込む。
アリスは手袋で壁に触れ、古い配電盤を起動させた。
床に流れる微弱な電流。
キョウカのガントレットに干渉し、一瞬だけ動きを鈍らせる。
その隙にアリスは接近した。
黒い手袋の指先が、キョウカの胸元へ触れる。
「捕まえた」
ナノインターフェースが走る。
ガントレットの制御器を経由し、キョウカの神経系へ干渉する。
強制停止。
筋肉信号を乱し、心拍と呼吸のリズムを崩す。
キョウカの体が大きく跳ねた。
「ぐ、っ……!」
「あはっ……! さすがにタフだねえ、キョウカちゃん。普通なら今のだけで、心臓がポップコーンみたいに弾けてるはずなんだけど」
アリスは笑った。
勝った。
そう思った。
だが、キョウカの手が動いた。
「……誰が」
震える指。
血管が浮き上がり、目の焦点も合っていない。
それでも、キョウカは動いた。
「止まるかよ……!」
巨大な手が、アリスの顔面を掴んだ。
「っ……!?」
アリスの笑みが固まる。
キョウカの握力が、頭蓋を軋ませる寸前まで迫る。
「捕まえたのは、こっちだ」
しかしアリスは、そこで終わらなかった。
黒い手袋から微細な振動が走る。
さらに、廃油と結露を利用して、皮膚と手袋の表面を滑らせる。
彼女の体は、まるで液体のようにキョウカの手から抜けた。
アリスは床を転がり、距離を取る。
「危な……っ。顔を掴むとか、女の子にすることじゃないよ」
「テメェが言うな!」
キョウカは吠えた。
だが、その膝が揺れる。
先ほどの神経干渉は効いている。
全身が悲鳴を上げているはずだった。
アリスは再び手を伸ばす。
今度こそ落とす。
だが、キョウカはそこで前へ出た。
理屈ではない。
計算でもない。
ただ、妹のもとへ行くという意志だけで、体を動かした。
キョウカの拳が、空気を爆ぜさせながらアリスの視界を埋め尽くす。
「あ、が、っ……!?」
アリスは咄嗟に磁場シールドを展開した。
しかし、薄い防壁はキョウカの執念が乗った一撃の前では、紙細工に等しかった。
拳が突き抜ける。
衝撃が体を貫く。
アリスの細い体は、糸の切れた人形のように弾き飛ばされ、地下ホームの壁へ叩きつけられた。
轟音。
壁が砕け、粉塵が舞う。
「げほっ、……あ、は……っ」
崩れたコンクリートの中で、アリスは口元を押さえた。
手袋に赤が滲む。
背中が軋み、視界の半分がノイズのようにぼやける。
それでも彼女は、笑った。
「……あは、……やっぱり、脳筋って……嫌いだよ……」
キョウカもまた、無事ではなかった。
その場に崩れ落ちそうになる体を、震える脚で必死に支えている。
全身に走った神経干渉の反動で、呼吸は乱れ、視界も揺れていた。
それでも、彼女は拳を握り直す。
「……待ってろ、ハルカ……」
一歩。
また一歩。
キョウカは、妹とヴェロニカが戦う階下へ向かって歩き出した。
「今、行く……」
地下の静寂に、キョウカの荒い息遣いが響く。
崩れた壁の中では、アリスが力なく笑っていた。
「あはっ……ほんと、最悪……」
その声は小さかった。
けれど、完全には消えていない。
キョウカは振り返らない。
彼女の中にあるのは、ただ一つ。
ハルカのもとへ行く。
そのためだけに、壊れかけた体を前へ進めていた。