紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode7 毒に変えられた絆

 数日後。

 

 ガーデン深部の共有端末に流れたひとつの記録は、ヴェロニカとアリスの頭上へ冷水を浴びせかけるようなものだった。

 

 場所は、ガーデン本部中層の情報管理室。

 

 壁一面に並んだモニターが、捕縛完了のログを淡々と表示している。

 

 対象名、キョウカ。

 

 対象名、ハルカ。

 

 状態、完全制圧。

 

 移送先、隔離棟深部。

 

 管理権限、ベアト直属。

 

「……あは」

 

 アリスの笑い声は、いつものように軽くなかった。

 

「冗談でしょ?」

 

 彼女の黒い手袋が端末の縁を掴む。

 

 画面に表示されているのは、地下深くへ見逃したはずの姉妹が、再び組織の管理下へ置かれたという事実だった。

 

 だが、ヴェロニカを最も困惑させたのは、捕縛を成し遂げた者の名だった。

 

「……トレスだと?」

 

 ヴェロニカは報告書を睨みつける。

 

「嘘を吐くな。あいつは同期の中でも、実戦経験も魔力量も最弱候補と目されていた奴だぞ」

 

 トレス。

 

 ガーデン訓練生時代の同期。

 

 目立った戦績はなく、影も薄く、ベアトの期待から外れていると思われていた存在。

 

 あのキョウカの剛腕と、ハルカの精密な天候操作を、彼ひとりが無傷でねじ伏せた。

 

 記録はそう告げていた。

 

「ねえ、ヴェロニカ先輩」

 

 アリスの声から、余裕が消えていた。

 

「これ、どういう意味かわかる?」

 

 位置情報。

 

 戦闘ログ。

 

 捕縛時の映像。

 

 本来なら共有されるはずのそれらが、ヴェロニカとアリスには一切開示されていない。

 

 二人は組織内で、完全に蚊帳の外に置かれていた。

 

「……私たちは、最初から試されていたのか」

 

 ヴェロニカの背筋を、嫌な汗が伝う。

 

「あるいは、あの子たちには、私たちが気づかなかった別の追っ手が放たれていたのか」

 

「あはは……笑えないね」

 

 アリスは苛立ちを隠すように、乱暴に髪をかき上げた。

 

「あんなに必死に逃がしてあげたのに、結局、一番冴えない奴に捕まっちゃうなんて」

 

 ヴェロニカは沈黙した。

 

 脳裏に、最悪の可能性が浮かぶ。

 

 トレスが何を使って姉妹を捕らえたのか。

 

 そして、自分たちが姉妹を見逃した事実を、トレスが――あるいはベアトが、どこまで把握しているのか。

 

「……トレスに接触する」

 

 ヴェロニカは重い腰を上げた。

 

「あいつが何を使い、どうやってあの子たちを追い詰めたのか、この目で確かめる」

 

「やめといた方がいいと思うけど」

 

 アリスは端末から視線を離さない。

 

「今のトレス、たぶんベアト様から何か貰ってるよ。下手に突くと、こっちが刺される」

 

「それでも行く」

 

「だよね。先輩、そういうとこ本当に面倒」

 

 アリスは溜息をついた。

 

 だが止めはしなかった。

 

 二人の姉妹を待ち受けているのは、今度こそ逃げ場のない再教育。

 

 名前だけは穏やかだが、その実態は人格の破壊と再調整だ。

 

 ヴェロニカは、冷たい怒りを胸に、組織のさらに深い闇へ踏み込んでいった。

 

 隔離棟へ続く通路は、冷たかった。

 

 白い壁。

 

 青白い照明。

 

 靴音だけが、無機質に反響する。

 

 その先、厚い強化ガラスに隔てられた待機室で、トレスは悠然と椅子に腰掛けていた。

 

 資料を片手に、脚を組み、まるで自分がこの区画の主であるかのような顔をしている。

 

「トレス」

 

 ヴェロニカは強化ガラスの前で足を止めた。

 

「どういうことだ。説明しろ」

 

 トレスはゆっくりと顔を上げた。

 

 かつては目立たない同期だったはずの彼の瞳に、今は隠しきれない優越感と歪んだ野心が浮かんでいた。

 

「説明?」

 

 トレスは鼻で笑う。

 

「ああ、ヴェロニカ。相変わらず血の気が多いな。エルフの血が騒ぐのか?」

 

「質問に答えろ」

 

「お前たちが仕留め損ねた出来損ないの姉妹を、僕が掃除してあげたんだよ。感謝してほしいくらいだね。おかげで組織の庭が少し綺麗になった」

 

 ヴェロニカの拳が鳴る。

 

「ふざけるな。お前の実力で、あの二人に勝てるはずがない。何を使った」

 

 トレスは動じない。

 

 むしろ、その問いを待っていたように口角を吊り上げた。

 

「ヴェロニカ。言葉遣いには気をつけた方がいい」

 

「何?」

 

「君はまだ、自分が僕と同じ場所に立っているつもりかい?」

 

 トレスは立ち上がり、ガラス越しにヴェロニカと向かい合った。

 

 距離はわずか数センチ。

 

 だが、その間には分厚い階級の壁があると言わんばかりだった。

 

「君たちが地下で何をしていたか、僕が何も知らないとでも?」

 

 ヴェロニカの目が細くなる。

 

「……何が言いたい」

 

「まあ、いいさ」

 

 トレスは肩をすくめる。

 

「ベアト様は、無能な猟犬より、結果を出す忠犬を好まれる。今回の件で、君と僕の立場は完全に逆転したんだよ」

 

「逆転だと?」

 

「いずれ僕が君の上司になる。その時は、今みたいな無礼な態度は許されない。今のうちに、僕への敬意の示し方を予習しておくといい」

 

 トレスは冷ややかに笑った。

 

「ああ、質問には答えられないな。機密事項だからね。君のような失敗者に教える義務はない」

 

 その態度。

 

 その自信。

 

 あまりにも不自然だった。

 

 ヴェロニカは、トレスの背後にベアトの影を感じずにはいられなかった。

 

 自分たちが裏切りを選んだ瞬間から、この筋書きはすでに用意されていたのではないか。

 

 怒りで震えていた拳を、ヴェロニカはふっと解いた。

 

 代わりに、口元へ冷たい笑みを浮かべる。

 

「……上司、か」

 

 わざとらしく溜息をつき、トレスを足元から頭まで見た。

 

「面白い冗談だ」

 

「何だと?」

 

「身の程を知れ、トイレちゃん」

 

 その一言で、トレスの勝ち誇った顔が凍った。

 

「……黙れ」

 

「懐かしいな。訓練生時代、実戦演習のたびに腹が痛いと言って個室に籠もっていたお前の姿は、今でも同期の語り草だ」

 

 ヴェロニカは淡々と続ける。

 

「あの頃、お前が逃げ込むせいで、女子寮側のトイレまで応急利用されたこともあったな。防音設備が甘くて、お前の泣き声が廊下まで響いていた」

 

「黙れ。それは昔の話だ」

 

「それだけではない。同期の通信兵に告白して、一秒で断られたのもお前だったか。振られた衝撃でまた個室へ逃げ込み、一晩中出てこなかった」

 

 トレスの顔が赤く染まる。

 

「ヴェロニカ……貴様ッ!」

 

「何が階級だ。何が忠犬だ。お前はただ、運よく与えられた何かに縋って、震える足を隠しているだけの臆病者だ」

 

 ヴェロニカはガラスに近づいた。

 

「いくら地位を与えられても、中身がトイレちゃんのままでは、誰もついてこないぞ」

 

「殺してやる……!」

 

 トレスがガラスを殴った。

 

「今すぐ、その生意気な口を利けなくしてやる!」

 

 ヴェロニカは冷えた瞳で彼を見据える。

 

「殺せるなら殺せばいい。だが、人が今すぐ殺してやると言う時は、決まって今すぐ殺せない時だ」

 

「黙れ黙れ黙れッ!」

 

「お前では私には勝てない。その事実を、お前自身が一番よく理解しているはずだ。違うか?」

 

 トレスの理性が、音を立てて切れた。

 

 彼は乱暴に手元のパネルを叩きつける。

 

「僕をあの日のままだと思うな! ベアト様は、僕にだけ特別な力を与えてくださった!」

 

 ヴェロニカは黙って聞いていた。

 

「あの姉妹さえ一瞬で無力化する、精神汚染――サイコ・ハックの新型チップだ!」

 

 漏れてはならない言葉が、トレスの口から滑り落ちた。

 

「あの姉妹がどれだけ共鳴しようが関係ない。その回路そのものを強制的にバグらせ、互いへの信頼を嫌悪に変換する。絆なんて、一瞬で毒に変わるんだよ!」

 

「……精神汚染」

 

 ヴェロニカの瞳が鋭く細まる。

 

 トレスはそれを怯えと勘違いした。

 

「ああ、そうだ。キョウカとハルカの脳内リンクに逆位相の信号を流し込めば、愛だの信頼だのは壊れる。それを実行できるのは、適性が高い僕だけなんだ。お前みたいな前時代的な物理強化型に、何ができる?」

 

 そこまで言って、トレスは我に返ったように口を閉じた。

 

 ヴェロニカは、彼の失言をすべて脳に刻み込んでいた。

 

「なるほど」

 

 冷たい笑みが深くなる。

 

「自力ではなく、またベアト様からおもちゃを与えられただけか。しかも、他人の心を弄ぶような、お前にぴったりの陰湿な兵器をな」

 

「貴様、今のは……!」

 

「安心しろ、トイレちゃん」

 

 ヴェロニカは踵を返した。

 

「お前がその新型を私に試す前に、私がそのチップごと、お前の空っぽな頭を粉砕してやる」

 

「このままで済むと思うなよ! 全部ベアト様に報告してやる! お前なんか今すぐ肥料行きだ!」

 

 背後で響くトレスの喚き声を、ヴェロニカは一顧だにしなかった。

 

 今のトレスには、自分を追いかける度胸すらない。

 

 問題は、キョウカとハルカだ。

 

 トレスの話が本当なら、あの姉妹は肉体だけでなく、精神を内側から壊されている。

 

 互いを守ろうとした共鳴が、毒に書き換えられた。

 

 なら、一刻の猶予もない。

 

「……沈黙の房」

 

 ヴェロニカは端末を操作し、アリスから秘密裏に共有されていたバックドアを起動した。

 

 通常、再教育前の個体が送られる最深隔離層。

 

 精神汚染の実験対象なら、まずそこに置かれる。

 

 画面に表示された座標を見て、ヴェロニカは小さく息を吐いた。

 

「見つけた」

 

 地下最深部。

 

 ベアト直属の直轄領域。

 

 ヴェロニカは無機質な廊下を走り出した。

 

 脳裏に浮かぶのは、コキュートスで見た姉妹の姿だった。

 

 ボロボロになりながらも、互いに手を伸ばしていたキョウカとハルカ。

 

 その絆を、トレスのような男のおもちゃにされる。

 

 それだけは、我慢ならなかった。

 

「……キョウカ。ハルカ」

 

 腰のナイフの感触を確かめ、厚い防壁の前へ進む。

 

 その時だった。

 

「……ヴェロニカ先輩」

 

 暗い通路の影から声がした。

 

 ヴェロニカは反射的に足を止める。

 

 腰のナイフに手をかけそうになるのを、辛うじて抑えた。

 

 そこに立っていたのは、アリスだった。

 

 いつものように壁へ背を預け、端末を片手に持っている。

 

 だが、瞳には軽口の余裕ではなく、冷ややかに見定める光があった。

 

「何してるの、先輩。そこ、立ち入り禁止区域だよ。私たちの権限じゃ、もう一歩進んだだけでアラートが鳴る設定に書き換わってる」

 

「……アリス」

 

「トレスの馬鹿を煽りに行ったのはいいけど、その後の行動が露骨すぎ」

 

 アリスは端末を閉じ、ヴェロニカの前へ歩み寄った。

 

「本気で、あの子たちを助けに行くつもり?」

 

 ヴェロニカは答えなかった。

 

 沈黙が、答えだった。

 

「あはっ……やっぱり、雷撃で脳の回路が焼けたんだね」

 

 アリスは笑う。

 

 けれど、その声は硬い。

 

「今のあの子たちは、トレスが言ってた通り壊されてる。助け出したところで、キョウカちゃんはハルカちゃんを敵だと思うかもしれない。ハルカちゃんは絶望して周りを凍らせるかもしれない。それでも行くの?」

 

「行く」

 

「ここから先はベアト様の直轄領域。バレたら報告ミスじゃ済まない。私も先輩を庇いきれなくなる」

 

「分かっている」

 

 ヴェロニカはアリスの目をまっすぐ見返した。

 

「だが、あの子たちの絆を、トレスのような奴のおもちゃにされるのは我慢ならん。組織の猟犬としてではなく、私自身の矜持の問題だ」

 

「矜持、ねえ」

 

 アリスは吐き捨てるように言い、視線を逸らした。

 

 沈黙が落ちる。

 

 そして、彼女は溜息と共に端末をヴェロニカへ放った。

 

「五分」

 

 ヴェロニカはそれを受け取る。

 

「私がメインサーバーにノイズを流して、監視カメラをループさせる。その間に中枢ロックを解除して。それ以上は、私の命がいくつあっても足りない」

 

「アリス……」

 

「勘違いしないでよね。先輩がいなくなったら、トレスみたいな馬鹿の下で働くことになる。そんなの死ぬより御免なだけ」

 

 アリスは背を向ける。

 

 その背中へ、ヴェロニカは低く告げた。

 

「安心しろ。何が起きても、アリス、お前に責任は取らせない」

 

 アリスの歩みが、一瞬だけ止まった。

 

 振り返りはしない。

 

 ただ、わずかに肩が跳ねた。

 

「……あは。格好いいこと言っちゃって」

 

 小さく、吐き捨てるような声。

 

「死にぞこないの裏切り者のくせに」

 

 アリスはそのまま闇の中へ消えていった。

 

 ヴェロニカは受け取った端末を握りしめ、最深部へ続く重厚な扉を見据える。

 

 後戻りはできない。

 

 もとより、する気もなかった。

 

 五分。

 

 その短い時間で、地獄の底へ潜り、姉妹を救う。

 

 できるかどうかではない。

 

 やる。

 

 ヴェロニカは左頬の星型の痣に触れた。

 

 かつては組織への従属を示す枷のように思えたその痣が、今は微かに熱を持っている。

 

 故郷の風。

 

 姉妹の共鳴。

 

 自分が捨ててきたはずの誇り。

 

 それらが、胸の奥で静かに燃えていた。

 

「私はヒーローではない」

 

 誰にともなく呟く。

 

「ただの死にぞこないで、裏切り者だ」

 

 それでも。

 

 その裏切りで救えるものがあるなら。

 

 ヴェロニカは扉へ手を伸ばした。

 

 アリスの端末が青白く光り、ロックがひとつ、またひとつと外れていく。

 

 重い扉が、音もなく開いた。

 

 その先には、ガーデンの最深部が広がっている。

 

 ベアトの庭の根が、最も深く食い込んだ場所。

 

 絶望の底で待つ姉妹を救うため、ヴェロニカは再び、後戻りのできない闇の中へ踏み込んだ。

 

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