紅蓮都市の闇夜 -オーバークロック・ガーデン-   作:A&T

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episode8 紅き夜を越えて

 五分。

 

 アリスがヴェロニカに与えた猶予は、それだけだった。

 

 ヴェロニカは託された端末を片手に、ガーデン最深部の扉の前へ立つ。黒い画面の上を、青白い認証コードが次々と流れていく。アリスが仕掛けたノイズは、すでに周囲の監視システムを一時的な盲目へ追い込んでいた。

 

 監視カメラは、誰も通っていない廊下を映し続けている。

 

 音声センサーは、存在しない空調音を拾い続けている。

 

 警備AIは、何も起きていないという虚偽の報告を上層へ送り続けている。

 

 そのすべてが、五分後には崩れる。

 

「……五分か」

 

 ヴェロニカは短く呟いた。

 

 電子ロックが最後の抵抗を見せる。

 

 彼女は端末を扉の認証盤へ押し当て、アリスが残した侵入コードを強引に流し込んだ。赤い警告表示が幾重にも重なり、次の瞬間、全てが青へ塗り替わる。

 

 扉が開いた。

 

 ヴェロニカはその隙間へ身を滑り込ませる。

 

 そこは、これまでの冷たい通路とはまるで違っていた。

 

 赤黒い生体組織が壁を覆い、脈打つ管が機械の配線と絡み合っている。床には冷却液が薄く広がり、天井から垂れる透明なコードが、神経の束のように揺れていた。

 

 組織の臓物。

 

 そんな言葉が、自然と頭に浮かんだ。

 

 その中心に、二つのポッドが鎮座している。

 

 キョウカ。

 

 ハルカ。

 

 二人は無数のコードに繋がれ、冷却液に半ば沈められていた。苦しげに歪んだ表情のまま、意識と無意識の境界を漂っている。

 

 ポッド横のモニターには、二人の脳波が表示されていた。

 

 相互拒絶。

 

 その文字が、赤く点滅している。

 

 トレスの言葉は事実だった。

 

 姉妹の共鳴は、毒に変えられている。

 

「ハルカ、キョウカ……聞こえるか」

 

 ヴェロニカはポッドへ駆け寄った。

 

「今、出す」

 

 制御盤を操作する時間はない。

 

 彼女はポッドのハッチへ指をかけ、力任せにこじ開けた。金属が悲鳴を上げ、ロックが砕ける。中から冷却液が溢れ出し、キョウカとハルカの体が崩れ落ちた。

 

 ヴェロニカは二人を受け止める。

 

 その瞬間。

 

 意識を失っていたはずのキョウカの瞳が、見開かれた。

 

「――殺してやる……!」

 

 キョウカの拳が跳ね上がる。

 

 ヴェロニカの肩に、鈍い衝撃が走った。

 

「ぐっ……!」

 

「化け物……お前、ハルカじゃないなッ!!」

 

 キョウカの瞳には、ヴェロニカが映っていなかった。

 

 あるいは、ハルカさえ映っていなかったのかもしれない。

 

 トレスの精神汚染は、彼女の脳内に偽りの敵を見せている。守るべき妹を、殺すべき異形として認識させている。

 

「落ち着け、キョウカ!」

 

 ヴェロニカは肩の痛みを押し殺し、キョウカを抱き止めた。

 

「私だ。ヴェロニカだ!」

 

「どけッ! その化け物を殺させろッ!!」

 

 キョウカはもがく。

 

 その拳がヴェロニカの頬を抉るようにかすめ、鮮血が冷却液の床へ滴った。

 

 理性を失った一撃は、以前のキョウカよりも荒く、重い。

 

 愛する者を守ろうとする力が、愛する者を壊すための暴力へ変換されている。

 

 あまりにも悪趣味で、あまりにも残酷だった。

 

 キョウカの震える指が、意識を失ったハルカの首元へ伸びる。

 

「やめろ、キョウカ!」

 

 ヴェロニカはキョウカの胸元へ組みつき、全身の力でポッドの壁へ押しつけた。

 

 背中が金属に叩きつけられ、鈍い音が響く。

 

「目を開けろ! お前が今殺そうとしているのは、お前自身だ!」

 

「うるせえええッ!!」

 

 膝蹴りがヴェロニカの腹を打つ。

 

 息が詰まり、視界が白く瞬いた。

 

 それでも、彼女は離さない。

 

「お前たちが繋いだ回路を、あんなトイレちゃんのような男の嘘に明け渡すつもりか!」

 

 キョウカの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。

 

「……トイ、レ……?」

 

「そうだ。あの情けない奴の作った悪夢に、お前は負けるのか」

 

 ヴェロニカは血で濡れた顔のまま、叫んだ。

 

「私は死にぞこないだ。誇りも故郷も捨て、泥を啜って生きてきた。だが、お前たちは違うはずだ!」

 

 キョウカの瞳の奥で、紫色のノイズが揺れる。

 

「お前たちは、その醜くて、不器用で、馬鹿げた共鳴で、組織の論理さえねじ伏せてみせたじゃないかッ!」

 

「……ハル、カ……?」

 

 キョウカの唇から、掠れた声が漏れた。

 

 だが、その瞬間。

 

 ポッドの計器が、けたたましい警報を鳴らした。

 

 五分。

 

 猶予は終わった。

 

 隔離層の警告灯が真っ赤に回転する。

 

 重厚な隔壁が跳ね上がり、通路の奥から武装警備兵たちの足音が押し寄せてきた。

 

「目標、隔離層内に確認! ヴェロニカ執行者を含む全個体を無力化せよ!」

 

 レーザーサイトの赤い点が、ヴェロニカとキョウカの体に幾重にも重なる。

 

 その無機質な殺意が、トレスの偽りの悪夢を、力ずくで現実に引き戻した。

 

 キョウカの瞳から、紫のノイズが薄れていく。

 

 彼女の前にいるのは、化け物ではなかった。

 

 頬から血を流し、ボロボロになりながら、自分を抱き止めているエルフの女。

 

 そして足元には、弱々しく呼吸を続けるハルカ。

 

「……ヴェ、ロニカ……?」

 

 キョウカは自分の両手を見た。

 

 その指先は、さっきまでハルカへ伸びていた。

 

 理解した瞬間、彼女の顔が凍りつく。

 

「アタシ、今……」

 

「我に返ったか」

 

 ヴェロニカは肩で荒く息をしながら立ち上がった。

 

 頬の傷から流れる血が顎を伝う。

 

「状況は最悪だ。アリスが作ってくれた時間は終わった。立てるか」

 

「……ああ」

 

 キョウカは奥歯を噛み締めた。

 

「あんな情けねえ野郎の術に嵌まって、ハルカを……ッ!」

 

 自己嫌悪が、怒りへ変わる。

 

 キョウカは意識のないハルカを背負い、獣のように低く構えた。

 

「ハルカ、お姉ちゃんが悪かった。もう二度と、離さねえ」

 

「ここから先は本物の地獄だ」

 

 ヴェロニカは警備兵たちの盾の列を睨んだ。

 

「組織のすべてが、私たちを殺しに来る」

 

「上等だ」

 

 キョウカの拳が鳴る。

 

「まとめてぶっ飛ばす」

 

 先頭の警備兵が発砲する。

 

 ヴェロニカはナイフを逆手に持ち替え、弾道を読み、銃口を斬るように踏み込んだ。火花が散る。次の瞬間、キョウカの拳が盾を粉砕し、警備兵を後方へ吹き飛ばした。

 

「おらああああッ!!」

 

 狂気から覚めたキョウカの動きは、暴風そのものだった。

 

 背中にハルカを背負っているとは思えない身軽さで、警備兵の隊列をこじ開けていく。

 

「待て、キョウカ! 深追いするな!」

 

 ヴェロニカが叫ぶ。

 

「このまま脱出ルートへ向かうぞ!」

 

「逃げる!? 冗談言うな!」

 

 キョウカは血走った目で振り返った。

 

「あのトイレ野郎を引きずり出して、この手でぶん殴るまでは止まれねえんだよ!」

 

「落ち着け。奴が精神汚染だけで終わっていると思うか」

 

 ヴェロニカはキョウカの肩を掴み、強引に引き止めた。

 

「トレスの背後にはベアト様がいる。奴には、お前をもう一度無力化するための兵装が与えられている可能性が高い」

 

「それは……っ」

 

「今ここでハルカを巻き込んで、またさっきの悪夢を繰り返すつもりか!」

 

 ハルカの名に、キョウカの動きが止まった。

 

 背中で弱々しく息をする妹の温もり。

 

 それが、怒りで煮えた思考を冷やした。

 

「死にたいなら一人で戦え。だが、ハルカを救いたいなら、今は私に従え!」

 

 ヴェロニカの血に濡れた瞳が、キョウカを射抜く。

 

 それは命令ではなかった。

 

 共に泥を啜ると決めた者の、必死の訴えだった。

 

「……チッ、クソが!」

 

 キョウカは悔しげに顔を歪めた。

 

「分かったよ、行きゃいいんだろ、行きゃあ!」

 

「賢明な判断だ」

 

 ヴェロニカは非常通路を指す。

 

「行くぞ」

 

 二人は走った。

 

 警備兵の銃火をかいくぐり、赤黒い臓物のような隔離層を抜け、非常階段を駆け上がる。途中で閉じかけた隔壁をキョウカが拳でこじ開け、ヴェロニカが監視ドローンの中枢をナイフで貫いた。

 

 何度も足を止めかけた。

 

 何度も包囲されかけた。

 

 それでも、三人は進んだ。

 

 やがて、外気が頬を撫でた。

 

 脱出口を抜ける。

 

 そこは、紅い月が中天に浮かぶ廃ビル群の屋上だった。

 

 だが、自由はなかった。

 

 ヴェロニカの心臓が凍る。

 

「あら」

 

 柔らかな声が、夜風に乗って届く。

 

「案外早かったわね、ヴェロニカ」

 

 中央に、ベアトが立っていた。

 

 月桂冠の葉の冠。

 

 閉じられた蝶の翅。

 

 慈愛に満ちた、恐ろしいほど優しい笑顔。

 

 その周囲には、音もなく配置された武装兵たちが包囲網を完成させている。

 

「ベアト様……」

 

 ヴェロニカはキョウカとハルカを庇うように、一歩前へ出た。

 

 ベアトの傍らには、トレスがいた。

 

 勝利を確信した子どものような、卑屈で得意げな笑みを浮かべている。

 

「ははっ、見たかよ、ヴェロニカ!」

 

 トレスは嬉々として叫ぶ。

 

「言っただろ、全部ベアト様に報告してやるって。お前の裏切りも、その姉妹の隠れ場所も、全部筒抜けだったんだよ!」

 

 そして、少し後ろ。

 

 そこにアリスが立っていた。

 

 彼女はいつもの笑みを消し、仮面のような無表情で地面を見つめている。ヴェロニカと視線を合わせようとしない。

 

 その姿が、何よりも重かった。

 

「ヴェロニカ」

 

 ベアトが歩み寄る。

 

「あなたが私に嘘をついた時、本当に悲しかったわ」

 

 その声は優しい。

 

 だが、言葉の奥には逃れようのない毒がある。

 

「でも、いいのよ。雑草は抜かなければならないけれど、肥料にはなるもの。あなたも、その子たちも、私の庭をより美しくするための尊い部品になってくれるのでしょう?」

 

「ふざけんな、この化け物ババア……ッ!」

 

 キョウカがハルカを抱え直し、憎悪を剥き出しにする。

 

 だが、ベアトの笑顔は崩れない。

 

「ヴェロニカ。あなたは私のお気に入り」

 

 ベアトは白い手を差し伸べた。

 

「だから、今ならまだ許してあげる。その薄汚い雑草たちをそこに置いて、こちらへ戻ってきなさい。そうすれば、あなたの裏切りは一時的な迷いとして処理してあげる」

 

 キョウカの息が詰まる。

 

 ヴェロニカが今この瞬間、自分たちを切り捨てたとしても、キョウカに責める権利はない。

 

 ヴェロニカ一人なら助かる。

 

 地位も命も、保証される。

 

 トレスは忌々しそうにヴェロニカを睨んでいる。

 

 アリスの指先が、わずかに震えた。

 

 ヴェロニカは、差し出されたベアトの手を見た。

 

 そして背後の姉妹を感じた。

 

 キョウカの荒い呼吸。

 

 ハルカの弱い鼓動。

 

 自分が一度、見逃した命。

 

「……ベアト様」

 

 ヴェロニカの声は静かだった。

 

 彼女はゆっくりと進み、ベアトの数歩手前で足を止める。

 

 そして深く頭を下げた。

 

「寛大なお言葉、痛み入ります。ですが」

 

 ヴェロニカは顔を上げる。

 

 その瞳には、忠誠も恐怖もなかった。

 

 ただ、透き通った拒絶だけがあった。

 

「私は死にぞこないの裏切り者です。ですが、二度も自分の誇りを売り飛ばすほど、安っぽい女ではありません」

 

 左頬の星型の痣が、静かに光る。

 

「この子たちは、私の意志でここに連れてきた。最後まで、共に行かせていただきます」

 

 その瞬間、ベアトの顔から笑顔が剥がれた。

 

 そこにあったのは、感情の底が抜けたような、冷たい美しさだった。

 

「……そう」

 

 ベアトが目を細める。

 

「残念だわ、ヴェロニカ。本当に残念」

 

 彼女が手を上げる。

 

 周囲の警備兵たちが一斉に銃の安全装置を外した。

 

「肥料にもなれない雑草は、焼かれるしかないのよ」

 

 ベアトの声が、夜を切り裂く。

 

「トレス。アリス。やりなさい」

 

「ははっ、死ねえええッ!!」

 

 トレスが両腕を広げる。

 

 小型ビットが背後に展開し、紫色の電子パルスを放った。精神を直接揺さぶる不快な波が、屋上全体を満たす。

 

 同時に、アリスが無言で重力子弾を投げた。

 

 黒い球体が空間を歪ませながら飛ぶ。

 

 爆発。

 

 屋上の床が砕け、瓦礫が跳ね上がる。

 

「キョウカ、こっちだ!」

 

 ヴェロニカは爆風をナイフで裂くようにして進み、姉妹を誘導する。

 

 隣のビルへ飛び移る。

 

 包囲を突破するには、それしかない。

 

 だが、その退路を断つように、地面が脈打った。

 

「逃がさないと言ったでしょう?」

 

 ベアトの足元から、赤黒い根がコンクリートを突き破る。

 

 血管のように脈打つ巨大な根は、蛇のようにうねり、非常階段や隣のビルとの隙間を埋め尽くしていく。

 

「クソッ、根っこが!」

 

 キョウカがハルカを抱えたまま根を殴り飛ばす。

 

 だが、一本潰せば十本が増える。

 

 逃げ道が狭まる。

 

 誘導されるように、三人は屋上の中心へ追い詰められていった。

 

「あはは! 逃げろ逃げろ!」

 

 トレスが笑う。

 

「逃げ惑うネズミみたいで最高だよ、ヴェロニカ!」

 

 紫のパルスが、今度はキョウカの脳へ向けて収束する。

 

 ハルカはまだ意識を取り戻さない。

 

 ヴェロニカの魔力も底を突きかけている。

 

 上も、下も、左右も、ベアトの根に包囲されている。

 

 前方からは、トレスとアリスの攻撃。

 

「……ヴェロニカ」

 

 背負われたハルカが、熱に浮かされたように呟いた。

 

「もう、無理……だよ……」

 

 ヴェロニカは血の滴るナイフを握り直した。

 

 無理かどうかではない。

 

 まだ一つだけ、手はある。

 

 自分を盾にする。

 

 残りの魔力を全て放ち、トレスの精神波とベアトの根を一瞬だけ止める。その隙に、キョウカとハルカをアリスの重力弾が作った空間の歪みへ飛び込ませる。

 

 成功する保証はない。

 

 自分は生き残れない。

 

 だが、それしかない。

 

 キョウカが、その意図に気づいた。

 

「待てよ、ヴェロニカ」

 

 彼女はヴェロニカの肩を掴む。

 

「お前、まさか一人で……自分を盾にしてアタシたちを飛ばすつもりか!?」

 

「借りなど作らせた覚えはない」

 

 ヴェロニカは静かにキョウカの手を振り払う。

 

 左頬の星型の痣が過負荷で赤黒く変色し、皮膚を焼くように光り始めた。

 

「キョウカ。アリスの重力弾が着弾した瞬間、空間が歪む。あそこだけはベアト様の根の制御が乱れる」

 

「ヴェロニカ!」

 

「一度きりだ。ハルカを連れて飛び込め」

 

「ふざけんな! お前が死んだら、アタシたちは誰に借りを返せばいいんだよ!」

 

「私はヒーローにはなれないと言ったはずだ」

 

 ヴェロニカは迫りくる紫の電光と、赤黒い根の奔流を見据えた。

 

「だが、裏切り者として死ぬ場所くらい、自分で選ばせろ」

 

 彼女の全身から、蒼白い魔力が炎のように立ち上る。

 

 魂そのものを燃やすような光だった。

 

「死にぞこないの意地……見せてやる」

 

 トレスの電光が迫る。

 

 ベアトの根がうねる。

 

 ヴェロニカは死を受け入れるように、静かに目を開いた。

 

 その瞬間。

 

「――あはっ。やっぱり私、計算間違いしちゃった」

 

 聞き慣れた声がした。

 

 ヴェロニカの目の前で、空間が歪む。

 

 着弾するはずだった攻撃が、漆黒の小さな重力球へ吸い込まれ、霧散した。

 

「……アリス?」

 

 ヴェロニカは目を見開く。

 

 そこに立っていたのは、アリスだった。

 

 無表情の仮面を脱ぎ捨て、いつもの不敵な笑みを浮かべている。

 

 両手には、組織から支給された重力制御デバイス。

 

 ただし、リミッターは焼き切られ、暴走状態の火花を散らしていた。

 

「アリス、何の真似だ!」

 

 トレスが叫ぶ。

 

「ベアト様を裏切るつもりか!?」

 

「うるさいな、トイレちゃん」

 

 アリスは一瞥もしない。

 

「君の声、ノイズとしても質が悪いよ」

 

 そして、肩越しにヴェロニカを見た。

 

「先輩、一人で格好つけすぎ。死にぞこないの裏切り者に、一人で死ぬ権利なんてないんだよ」

 

「アリス……お前……」

 

「二人で裏切り者になれば、生存確率は〇・〇二パーセントくらい上がるって、今さっき私の脳が弾き出した」

 

 アリスは笑う。

 

「あはっ。誤差みたいな数字だけど、ゼロよりはマシでしょ」

 

 ベアトの根が、二人を飲み込もうと迫る。

 

 アリスは重力波でそれを押し返しながら叫んだ。

 

「キョウカちゃん、今のうちに飛んで! 先輩は私が、この出来損ないの後輩が、地獄の底まで連れていってあげるから!」

 

 キョウカは一瞬だけ、ヴェロニカとアリスを見た。

 

 その瞳に、怒りと迷いと、言葉にならない何かが宿る。

 

 だが、止まらなかった。

 

「おらああああッ! 行くぞ、ハルカ!」

 

 キョウカはハルカを抱き締め、ビルの縁へ向かって跳んだ。

 

 アリスの重力弾が作った空間の歪みへ、二人の影が吸い込まれるように飛び込む。

 

 ベアトの顔から、ついに完全に感情が消えた。

 

「……そう」

 

 冷酷な声が、紅い夜に落ちる。

 

「あなたもなのね、アリス」

 

 アリスは笑った。

 

「あはっ。ベアト様、私、ずっと面白い方につくって言ってたでしょ」

 

 ヴェロニカは、隣に立つアリスを見た。

 

 傷だらけの猟犬。

 

 壊れかけた天才。

 

 二人は、同じ方向を向いていた。

 

 もう戻れない。

 

 もう誤魔化せない。

 

 ガーデンの猟犬ではなく、ガーデンを裏切った者として。

 

 紅い夜の底で、ヴェロニカとアリスは並び立つ。

 

 ベアトの根が、屋上全体を飲み込もうと蠢いた。

 

 トレスの紫の波が再び膨れ上がる。

 

 そして、アリスの重力球が最後の火花を散らした。

 

「先輩」

 

「何だ」

 

「ここから先、生存確率は?」

 

「知らん」

 

「あはっ。じゃあ、私が計算してあげる」

 

 アリスは黒い手袋を鳴らした。

 

「たぶん、最悪」

 

「上等だ」

 

 ヴェロニカはナイフを構える。

 

「行くぞ、アリス」

 

「はいはい」

 

 アリスは不敵に笑った。

 

「死にぞこないの先輩についていくよ」

 

 紅い月の下。

 

 二人の裏切り者は、ベアトの庭へ真正面から牙を剥いた。

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