自分一人しかいない執務室で黙々と書類を処理していく。
先日から寝ずに作業をしていたお陰か、天井近くまで積まれてた書類も椅子に座って見下ろせる量まで減らすことができた。
ここまで順調に進めることが出来たのはあらかじめ書類に目を通して、滞りなく作業ができるように準備をしてくれたニャスパーのお陰だ。
心の中に込み上げてきた感謝の言葉を口にしようと振り返ったが、そこには誰もいない。いつもなら俺の後ろに控えている
「流石に疲れているか⋯⋯」
ほんの一瞬、何故ニャスパーがいないのかと考えてしまった。
彼女がこの場にいない理由など自分がよく分かっている筈だ。そう、他ならぬ俺がニャスパーに休むように命じたんだ。
「⋯⋯はぁ」
先日のことを思い出して、ため息が出た。
リオンの口から俺の副官がマタタビをキメていると聞いて急ぎ足で執務室に戻った。
するとそこにはマタタビの匂いを嗅ぎながら、俺の机に下半身を擦り付け、艶声を上げるニャスパーがいた。
予想外の光景に固まったのは言うまでもない。二人して顔を合わせて固まったな。なんとも気まずい時間だった。
他の獣人なら興奮して気にもせずに行為に没頭していただろうが、ニャスパーは才女であったため理性がしっかり残っていて⋯⋯俺がその先の光景を見ることはなかった。
被害は最小限だ。俺が見たのは部屋に入って数秒の光景だけだったしな。
それでもニャスパーからしたら醜態を上司に見せる形となったわけで⋯⋯。マタタビによる興奮も冷めて、冷静になった彼女は部屋の隅に縮こまっていた。
かける言葉が見つからなかったな。
ニャスパーの立場を自分に置き換えて考えた時───魔王さまの前で醜態を晒したって考えると⋯⋯正直死にたくなるな。
とはいえ下手な慰めは逆に傷付く形になる。だから冷淡に、俺はニャスパーに休暇を与えた。
最前線での戦い、そして魔王城に戻ってからの執務、他の師団のよりも間違いなく激務をこなしている。休む間がなかったことを考えれば休暇が与えられるのは当然である。
俺からすると、マタタビをキメるほどにストレスが溜まっていたのが窺えたし、先の出来事の気持ちの切り替えの為にゆっくり休んで欲しかった。
ただ言い方が良くなかったのか、休暇を申し付けられたニャスパーは絶望するように顔が青白くなっていった。産まれたての小鹿のように震えていたな。
後になって考えてみれば、上司に醜態を見せた後に休みを与えられる状況⋯⋯愛想を尽かされたって思うのが自然じゃないか? 悪いことをしたと反省している。
「はぁ⋯⋯」
ニャスパーと顔を合わせにくい。
俺が最低な上司の対応をしたから⋯⋯ではない。
無神経な俺の発言に絶望したニャスパーが『ボクを捨てないでください』と縋りついてきた際に、深く考えもせずに『捨てるわけないだろ。お前は俺の副官だ。一生俺の傍にいろ』と言ってしまった。
その後のやり取りも今振り返るととんでもないことを言ったと思う。
『ボクは⋯⋯シェードさまの傍で一生いてもいいのですかにゃ?』
『死ぬまで離れるな。俺にはお前が必要だ (仕事的な意味)』
『っ───!シェードさま⋯⋯はいにゃ!ボクは、シェードさまに一生を捧げるにゃ!』
───な? 頭が痛くなる発言をしてるだろ?
ニャスパーが執務室を出ていった後に、あれ?今のやり取り⋯⋯告白とも取れるよなって気付いたわけなんだ。
よくよく思い返すとニャスパーも顔を赤らめて乙女の顔をしていたような気もする⋯⋯。
全くもって微塵もそんな気はなかったので、なんというか⋯⋯とんでもない事をしてしまったんじゃないかと今になって後悔している。
休暇明けに戻ってきたニャスパーとどう接したらいいだろうか? 告白ではないとはっきりと伝えた方がいいのは分かるが、去り際のあの嬉しそうな顔⋯⋯言いにくいな。
「⋯⋯やめだ、後で考えよう」
思考が纏まらない。
俺の中で答えは出ているんだが、その度にニャスパーの顔が脳裏に浮かんでその答えが正しいか分からなくなる。
こういう時は一旦、時間を置くのが得策だ。
ニャスパーに気持ちの切り替えの為に休暇を与えたように、俺も時間をおいて考えを整理して答えを出そう。
「───ん?」
それからしばらく無心で書類を処理していると、不意に足元の影が盛り上がっていく。
不可解な現象ではあるが、見覚えのある光景だった為驚きはない。影はやがて人型を作り、黒いシルエットとして俺の前に立つ。
「戻ったのか」
影に対して言葉を投げかけるが、返事はない。
代わりにゆっくりと歩み寄ってきた人影が俺の影に触れると溶けるように消えていった。
その瞬間に、俺の脳裏に数多の情報が駆け巡っていく。
「なるほど、な」
先の影の正体⋯⋯端的に言えば俺の能力で創り出した眷属だ。
───名称は『
俺の魂の一部を影に植え付けることで、生命を与える能力『
と言っても、所詮は紛い物の命。意思もなければ感情もない、ただ俺が与えた命令をこなすだけの操り人形のようなものだ。
主な使い道は情報収集。
俺が生み出した『影の従者』は創造主である俺と同じように
魔力探知に余程優れた人物でなければ影に潜った俺たちを見つけることは不可能。この状態であれば、姿を見られることもなく欲しい情報を仕入れることができるわけだ。
もちろん弱点はある。
影がない場所を移動することが出来ない点と、俺の魂の一部を植え付けているので能力を多用すると本体である俺が弱体化する点。
特に後者が問題だ。一体や二体なら正直誤差の範囲ではあるが、十体以上を創るとなると戦闘能力の大幅な低下は避けられない。
一応、先程のように『影の従者』を吸収することで植え付けた魂の一部と、仕入れてきた情報を回収することはできる。
ただ、魂を植え付けた『影の従者』が倒された場合は、魂も一緒に消えてしまうので二度と強さが戻らないという目も当てられない最悪な事態になってしまう。
便利ではあるが、多用はできない⋯⋯そんな使い勝手の悪い能力だ。
それはさておき、俺が与えた命令を終えた『影の従者』が戻ってきたことで、知りたかった情報がいくつか手に入った。
「そうか、南の砦に勇者の姿はないか」
南の砦を落とした張本人である勇者は奪い取った砦を防衛せずに中央に移動。伯爵の爵位を持つ貴族が兵士を率いて代わりに砦の防衛に当たっているが⋯⋯正直、敵ではないな。
ただ⋯⋯勇者の行動が読めない。
俺たちの隙をつくように南の砦を奪ったかと思えば、興味を無くしたように直ぐに別の場所へと移動した。
俺たちの注意を南に引き付けて、中央を攻めるつもりか?
「⋯⋯いや」
あの女がそんなまどろっこしい事をするとは思えない。別の人間の意思が勇者の後ろに見えるな。
そいつが⋯⋯同胞から───裏切り者から情報を手に入れている人物である可能性が高い。
仲間を探るのも必要な行為だが、情報を受け取っていそうな人族に当たりをつけて張り込むのもまた択ではあるか。
───三傑だ。
ここ最近の人族の大きな動きには三傑が関わっている。それらの周囲をまずは探るか。
三傑が相手となると⋯⋯流石に『影の従者』に任すわけにはいかないか。
特に勇者だ。あの女は本気で潜んで俺ですら見つけるからな。情報を探る為に潜った『影の従者』が倒される可能性が高い。
俺自身が動く必要がある。
「一先ず、行動指針は決めた」
───身内の情報は『影の従者』に任せる。
既に容疑者候補として上がったニャスパーとリオンの二人の影に、従者を潜り込ませている。怪しい動きを見せれば俺の元に戻ってくる筈だ。
容疑者が増えればその都度、従者を生み出して潜ませる。弱体化する形にはなるが⋯⋯勇者のようなイカれた探知能力を持つ同胞はいないので、倒されることはない。三傑相手に潜ませるよりリスクは少ない。
「⋯⋯まず、勇者からいくか」
面倒事は後回しにしない主義だ。一番面倒な勇者から探るとしよう。