【有村吉橘(ありむらよしきつ)の邸宅――夜】
呉のドックで秘密裏に進む、謎の黒い炎に包まれた超巨大戦艦の建造。
これを正気の国防論として押し通そうとする伏原宮や佐藤を説得するのは、米田や本山ら現役の条約派では困難を極めた。
混迷を極める中、二人が最後に希望を託したのが、「日露戦争の英雄の一人であり、伏原宮が唯一、畏敬の念を持って話を聞く男」――老将・有村吉橘であった。
重々しい書斎。有村の前に、あかりが持ち込んだ「大和沈没」の未来の記録が広げられている。
有村「……本山、米田。いくらお前たちの言葉とはいえ、これはあんまりな絵空事だ。我が海軍が威信をかけて作る巨艦が、一度も主砲を敵艦に放つことなく、航空機に嬲り殺しにされて沈むなどと……馬鹿馬鹿しいにも程がある」
一蹴しようとする有村。しかし、同席していた陸軍の永守鉄志や本山たちが、あかりの資料を詳細に分析し、日本の未来を真剣に憂う姿に、有村の鋭い眼光がかすかに揺れる。
さらに、有村は資料の日付と現在の不穏な動きを照らし合わせ、ある恐るべき事実に気づいた。
有村「……待て。これが仮に事実だとしても、ここに書かれている史実のスケジュールより、呉のドックの進捗は遥かに早すぎるぞ。歴史が、何者かの手で無理やり前倒しに書き換えられておる……」
条約反対派(艦隊派)としての強いプライドを持つ有村であったが、この「歴史の異常なスピードと歪み」に、背筋が凍るような戦慄を覚えていた。
その横で、「未来からの人間」として静かに座っていたあかりが、まっすぐに有村の目を見つめて口を開いた。
あかり「有村さん。私、未来から来たって言ってもまだ子供だし、正直言って、難しい政治や軍事の話はよくわからない。……でもね、『あの戦争』は、もう二度とやってほしくないの。勝っても負けても、私の時代では……少なくとも私の大好きな人たちは、誰も『もう一度戦争をやりたい』なんて言っていない。だから、あの悲しい歴史を繰り返したくないの」
飾らない、しかし何よりも重い未来の子供の言葉。有村はじっとあかりの目を見つめ、やがて深く沈黙した。
有村「……なぜ、私の所に来た」
本山「あの日本海海戦――『勝ち方』を知っている方に、この歪みを見ていただくためです」
有村(遠い目をして、寂しげに笑う)
「……勝ち方、か。もう、生き残っているのは私くらいだな。元帥も、あの時の参謀たちも……皆、坂を駆け上がって雲になってしまったからな……」
有村はゆっくりと立ち上がり、窓の外の夜空を見上げた。
有村「……確かに私は、アメリカに舐められぬ強い海軍を望んでいる。だが、この新型戦艦の計画は性急すぎる。まるで、何者かが我が国を『この巨大な鉄の墓標とともに、海の底へ沈めよう』と急かしているようだ……。亡き元帥が生きておられたら、この歪みに間違いなく激怒されたはずだ」
老将は振り返り、力強く頷いた。
有村「わかった。宮様と、腹を割って話してみよう」
【数日後――伏原宮邸・奥の間】
すでに予備役となり、軍の公式な会議には出られない有村吉橘。しかし、彼は深夜、軍令部総長・伏原宮博靖王の元を密かに訪れていた。
この二人の長老の静かな対話こそが、歴史の舵を大きく切り返していく。
有村「博靖王。形に囚われてはならん。亡き元帥が本当にこの国に遺したかったのは、戦艦という動く鉄の塊ではない。時代を見据え、この国を守り抜く『数理と先見の明』だ」
有村は、あかりの資料を伏原宮の前に差し出した。
有村「未来の子供たちが命がけで持ってきた資料を見てくだされ。……戦艦の時代は終わった。これからは空の時代だ。ならば我々は、佐藤らの暴走をただ止めるのではなく、この歪んだ計画を逆手に取り、新時代の『最強の防衛兵器』を作るべきではないか」
元帥の遺志、そして「日本の未来を守る」という本質を突かれた伏原宮は、厳しい表情のまま、深く深く目をつむった。
【翌日――海軍最高幹部会議】
「あかりくん、千代くん。今日の午後、海軍省で行われる最高幹部会議に、記録係としてひそかに同席してもらう」
永守の計らいにより、二人は海軍の命運を決める最重要会議の場へ、ひそかに潜入することになったのだ。
「私たちが、海軍の会議に……ですか?」
千代は驚きに目を見開いたが、永守は冷徹な眼鏡の奥の目を光らせた。
「海軍内の派閥争いは、陸軍以上に根が深い。大人の歪んだ情熱が、国をどこへ導こうとしているのか……未来を担う君たちの目で、しかと見ておくがいい」
重苦しい空気の中、佐藤寛三ら艦隊派の強硬派が、呉での大和建造の正当性を声高に主張していた。
「我が国が生き残るためには、大口径の巨砲を持つ新型戦艦こそが必要不可欠! 建造の中止など、言語道断であります!」
会議室の隅で、小さな机に向かってペンを握る千代とあかり。張り詰めた怒号が飛び交う空間で、あかりは圧倒されて身をすくめていたが、千代の視線は違っていた。
(これが……国を動かす大人たちの熱量。誰もがこの国を愛し、守ろうとしている。なのに、どうしてこれほどまでに激しく衝突し、歪んでしまうの……?)
そこへ、軍令部総長・伏原宮博靖王が静かに席に着いた。
その瞬間、室内の空気が一変する。伏原宮は、佐藤たちを「叱責して黙らせる」ような真似はしなかった。彼らの歪んだ、しかし純粋な愛国心をすべて包み込むような、より巨大な決定を机に叩きつけた。
伏原宮「――呉で建造中の新型戦艦について、これより大いなる設計変更を命ずる。……これよりあの巨艦を、世界最大・最強の『防衛航空母艦』として完成させる」
佐藤「なっ……総長!? 戦艦ではなく、空母に……ですか!?」
佐藤たち艦隊派は、激しい衝撃に突き動かされながらも、言葉を失った。
なぜなら、計画の「凍結や中止」という弱腰の提案ではなく、「アメリカの物量を圧倒する、世界最強の飛行甲板を持つ超巨大空母を作る」という、国防としてこれ以上ない超強硬プランが提示されたからである。これには艦隊派の若手たちもぐうの音も出ない。
伏原宮「我々は攻めるのではない。我が国に仇なす、あらゆる歪んだ悪意からこの海を守り抜くのだ。……異論はあるか、佐藤」
佐藤は拳を握りしめ、しばらく震えていた。その脳裏に、かつて夢見た「巨砲が火を噴く大艦巨砲の時代」が崩れ去る寂しさと、それを遥かに凌駕する「最強の空母」という新たな時代の怪物の姿が交錯する。
やがて、覚悟を決めたように、佐藤は深く一礼した。
佐藤「……総長のご英断、感服いたしました。これより艦隊派、総力を挙げて『大空母・大和』の建造に邁進いたします!」
この瞬間、不毛だった海軍内の激しい派閥争いは、「不戦・防衛特化」という、未来へ向かう一本の確かな航路へと綺麗に統合された。
日本は侵略のためではなく、黒い意志(ネガティブ・ミリタリー)がもたらす世界の破滅を絶対に防ぐための、「最強の不沈の盾」としての道筋を見出したのである。
会議が終わり、張り詰めた緊張から解放された廊下で、あかりは「はぁぁ〜……」と大きなため息をついた。
「すごかったね、千代ちゃん……! 大人の会議って、あんなにピリピリしてるんだ。でも、戦艦を大きな空母にするなんて、伏原宮様って本当にすごい人だね!」
しかし、千代はノートを抱きしめたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。その瞳は、言葉にできない衝撃に揺れている。
「……千代ちゃん?」
「あかり。私は……怖ろしいものを見た気がします」
「えっ? 怖ろしいって、佐藤さんたちのこと?」
「いいえ」
千代はゆっくりと首を振った。
「あの中にいた大人たちは、誰一人として『悪人』はいませんでした。みんな真剣に、命がけで国の未来を考えていた。それなのに、組織という枠組みや、軍人としての規範という目に見えない力に縛られて、あやうく破滅的な戦争へと突き進もうとしていたわ……」
千代の脳裏に、伏原宮の圧倒的な決断によって、一瞬にして書き換えられた議場の空気が鮮烈によみがえる。
「人間が集まって作った『社会』という構造は、これほどまでに強固で、そして同時に、たった一つの決断で激しく揺れ動くものなのね。私は……その仕組みのことを、もっと知らなければならない気がするの」
【持たざる者の勇気】
東京の夜は、じっとりと深く更けていた。
先の事件を解決し、歴史の大きな歪みを一つ変えたものの、あかりはなぜか寝付けず、居候先である岡谷邸の廊下をパタパタとあてもなく歩いていた。ふと見ると、廊下の奥にある岡谷首相の書斎のドアの隙間から、かすかにオレンジ色の明かりが漏れているのが見えた。 (あれ、まだ起きてるのかな……?)
あかりは足音を忍ばせ、そろりと書斎に近づいた。声をかけようとしたその時、中から低く、どこか張り詰めた声が聞こえてきて、あかりは思わず足を止めた。 夜も更け、卓上のランプだけが部屋を照らし出している。あかりたちが綺麗に掃き清めた庭は、窓の外で静かに夜露に濡れていた。
永守鉄志は、机の上の書類から目を離し、眼鏡を外して深く椅子の背もたれに身を預けた。その顔には、隠しようのない疲弊と、一人の軍人としての深い葛藤が刻まれている。 「……岡谷さん。私は、本当に正しい道を選んだのだろうか」
永守はぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。机の上には、「核開発計画の中止」と「防衛特化型組織への改組…非核の選択」が記された、まさに日本国の命運を決める極秘文書があった。
「他国より先に、圧倒的な力を手にする機会が目の前にあったのかもしれない。それを持てば、少なくとも他国からの脅迫に怯える必要はなくなる。……牙を捨て、防衛に徹する。言葉は綺麗ですが、一歩間違えれば、この国を戦火に晒し、国民を飢えさせる。未来を知るあかりくんたちの言葉を信じたとはいえ……軍務を司る者として、私は、とんでもない過ちを犯したのではないか。……時折、自分の決断が恐ろしくなる」
「戦わずに勝つ」ための総力戦論者である永守が、初めて見せた弱音。国家の命運を一人で背負う男の孤独な吐露だった。ドアの隙間からそれを見ていたあかりは、胸が締め付けられるような思いで、息を潜めていた。 岡谷啓示は、手元の湯呑みからお茶をひと口すすり、静かに永守を見つめた。
そして、いつも通りの、しかしどこか悪戯っぽく、それでいて絶対的な信頼を込めた笑みを浮かべた。
「……フフ。永守くん、君は勘違いをしているよ」
「……勘違い、ですか」
岡谷首相は立ち上がり、永守の側へと歩み寄った。
「目の前にある強烈な武器を、欲望のままに掴み取るのは、子供でもできる。だがな……いままでにない強烈な武器を手にする機会がありながら、その恐怖と責任を自覚し、あえてそれを手放す、持たないという選択は――えらく勇気のある軍人にしかできんと思うがね」
永守が、ハッとしたように目を見開いた。
岡谷首相は永守の肩を強く叩いた。
「君は弱腰でそれを選んだのではない。この国と、あの子供たちの未来を本気で守るために、あえて『茨の道ー持たざる防衛』を進む勇気を持ったのだ。自信を持ちたまえ、軍務局長。君が泥をかぶって手放したその悪魔の火は、必ずや、あの娘たちが新しい未来の光に変えてみせるさ」
岡谷の言葉に、永守はしばらく呆然としていたが……やがて、自嘲気味に、しかしすっきりと晴れやかな笑みを浮かべ、眼鏡をかけ直した。
「……恐れ入りました、総理。相変わらず、あなたには敵わないな」
永守さんがどれほどの覚悟で自分たちの言葉を信じ、国のブレーキを引いてくれたのか。そして岡谷首相がどれほど深く彼を支えているのか。あかりは、廊下の暗がりの中で、胸が熱くなるのを感じた。
翌朝、岡谷邸の門前。
用件を終えて邸を出ていく永守を、あかりは見送っていた。
「あかりくん、そんなところで突っ立ってどうした。今日も女中の仕事や女学校があるんだろう?」
いつもの冷徹で、少し意地悪そうな口調。けれど、その眼鏡の奥にある瞳には、昨夜の迷いを一切感じさせない、確かな「信念」の光があった。
「はい! 永守さん!私、頑張ります!」
あかりは元気よく敬礼してみせた。その永守の確かな表情に、あかりは深く頷くのだった。