それは、今までにないほど濃密で、肌を刺すような邪悪な気配だった。
「……何、これ。空気の重さが全然違う」
「ええ、あかり。間違いないわ、何かが『現れた』のよ」
前線の宿営地で、あかりと千代は得体の知れない悪寒に身を震わせていた。二人の傍らでは、懐中時計クロノスが「キュピ…!間違いない……ネガティブ・ミリタリーの、すべての源泉だ……!」と、見たこともないほど怯えきった様子でガタガタと震えていた。
一方その頃、中央の激戦区から遠く外れた前線の、とある平原。
そこに配置されていた「泥棒おじさん」こと五郎は、まだ戦線が開く様子もないのをいいことに、夜な夜な仲間たちと酒盛りに興じていた。
「ふぅ、ちょっと飲みすぎたな。少し涼んでくるわ」
五郎が赤ら顔で宿営の外の荒れ地へと出た、その時だった。遠く離れた岩山の向こう側から、ゆらゆらと不気味に揺らめく「黒い炎」が天に向かって上がっているのを見つけたのだ。
「おい、あれを見ろ。火事じゃねえぞ……?」
五郎はおそるおそる、数人の仲間を連れてその黒炎の元へと近づいていった。
辿り着いたのは、不気味な岩肌にぽっかりと口を開けた、深い洞窟の入り口だった。
「おいおい、まずくないか五郎?」
「馬鹿言え、お宝の匂いがするかもしれねえだろ。ほら、蝋燭をつけろ。中に入れそうだ」
引き止める仲間を従え、五郎が暗闇の中をしばらく進んだ時――。
奥の方から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「――っ! 蝋燭を消せ!」
咄嗟に火を吹き消し、岩の隙間に身を隠す。暗闇の中、すぐ目の前を通り過ぎていったのは、彼らがこれまで聞いたこともないような、奇妙で冷徹な言語を話す、異形の軍装を纏った兵士たちだった。
(ここは……敵の拠点だ!)
職業柄、気配を消すことだけは天才的な五郎は、足音を殺しながら兵士たちの後を追った。やがて洞窟の奥は、明らかに近代的な人工の通路へと変わっていく。
隙を見て通路に忍び込み、怪しい光が漏れる廊下の小窓から部屋の中を覗き込んだ瞬間、五郎は心臓が止まるかと思った。
部屋の奥にいたのは、全身から悍ましい黒い炎を燃え上がらせ、両目を赤く不気味に光らせる「怪物」。そして、その怪物と平然と同席し、同じように目を赤く光らせているドイツ軍の将校の姿だったのだ。
その時、五郎たちのすぐ後ろの闇で、カチャリと物音が響いた。
「ひ、ひえっ……! 逃げろおぉっ!」
危険を本能で察知した五郎たちは、後ろも振り返らず、一目散に洞窟の外へと駆け出した。
その様子を見ていた将校たちが「・・・逃がしてよろしいのですか?」と尋ねる。
その相手は・・・ナチスに核の情報を与えたあの人物だ。
「いいのさ。これで彼女たちがきっとここに来るよ。彼女たちを押さえれば・・・もう浄化はできないね。」
「彼女たちに教えてあげるのさ。・・・本当の歴史を。」
そう言って、恐ろしく冷たい微笑みを見せるのだった。
◇
「――敵の本丸が、そんなに簡単に、しかもそんな男に見つかるはずがない」
五郎たちから命からがらの報告を受けた永守鉄志は、重厚な机を前に深く眉をしかめていた。
(誘っているのか……? それとも……)
相手は人間の常識や軍事のセオリーが通じるような存在ではない。永守の脳裏をよぎっていた嫌な予感は、今や冷たい確信へと変わりつつあった。
永守は、未だに恐怖で肩を震わせている五郎に視線を落とした。
「よく見つけてくれた。……詳しく確かめてみる必要がある。案内しろ」
まさか総大将直々に声がかかると思っていなかった五郎は、「ははっ!!」と声を裏返らせて直立不動で硬直した。
永守は五郎を案内役に指名し、自らの直属である諜報部隊を例の岩山へと派遣した。
しかし――。辿り着いた荒野の岩山には、五郎が訴えた黒い炎も、洞窟の入り口さえも、影も形もなかった。ただ乾いた風が吹き抜けるばかりである。
「おいおい、何もないじゃないか。五郎、お前たち、酒に酔って夢でも見たんじゃないのか?」
隊員たちに呆れられ、「そんな馬鹿な! 本当にあったんだって! 信じてくれよ!」と五郎たちが顔を真っ赤にして狼狽えていた、その時だった。
「おじさんっ! 大丈夫!?」
荒れ地の向こうから、ぶかぶかの軍服姿のまま、息を切らせて駆けつけてくる二人の少女――あかりと千代の姿があった。
「げぇっ! なんでお前らここまで追いかけてくるんだよーっ!」
五郎は頭を抱えて叫んだ。
◇
その少し前、基地ではクロノスたちが一層ソワソワと異様なまでに取り乱していた。
『来る……凄まじいのが現われちゃう……!』
世界の時間が根底から止まりかねないほどの、強大で禍々しい闇の胎動。二人は直感していた。やはり、あのおじさんたちが偶然見つけたという岩山こそが、すべての崩壊の始まりなのだと。このままでは、あのおじさんたちが存在ごと消されてしまう。
そう叫んで部屋を飛び出そうとした二人の前に、音もなく静かに永守が現れた。
「……行くのか」
短く、重い問いかけだった。
あかりと千代は、言葉を返す代わりに、まっすぐにその目を見つめて力強く頷いた。
ここが本当の決戦の時だと悟った永守は、いつもの冷徹な仮面の下に、二人への絶対の信頼をにじませた。そして、傍らに控えていた創――千代の兄を呼び寄せた。
「立花少尉。お前の命を賭して、彼女たちを守れ。……精鋭の護衛部隊を付ける。二人を、あの場所へ送り出すのだ」
「――はっ!」
◇
創や精鋭部隊と共に岩山へと駆けつけたあかりは、困惑する五郎に少しだけ悪戯っぽい笑みを向けた。
「今度は逃げ足が速かったんだね~。私たちにはすぐ捕まっちゃったのに」
五郎はばつが悪そうに、しかしどこか嬉しそうに鼻を擦った。
「あの時はちょっと油断してたのさ。本気出せばこんなもんよ」
軽口を叩き合う二人の目は、しかし、かつてないほど真剣だった。誰もが押しつぶされそうな不安を胸の奥で噛みしめながら、一歩一歩、その岩山へと進む。
そして、あかりと千代が、五郎たちの示した岩山の中心へと完全に足を踏み入れた、その瞬間だった。
諜報部隊たちが「何もない」と言っていたはずの空間が、バリバリと鼓膜を裂くような凄まじい音を立てて、内側から引き裂かれた。
隙間の奥から溢れ出してきたのは、この世のすべての光を吸い尽くし、時間を拒絶するかのような、禍々しい「黒い光」の波動だった。大気が、世界が、激しく軋み悲鳴を上げる。
「みんな、気を付けて!!」
あかりが鋭く叫び、創たち精鋭部隊が素早く銃を構えてあかりと千代の前に盾となって立ちはだかる。
底知れぬ深淵の恐怖に全身の細胞がすくみ、牙を剥く闇に怯えながらも――その場の誰一人として、足を止める者は見当たらなかった。
あかりと千代、そして彼女たちを護る創たち護衛部隊は、人類の、そしてまだ見ぬ未来の運命を決めるため、その黒い光が渦巻く次元の裂け目へと、一斉に飛び込んでいくのだった。