1.激化する硝煙と「黒い炎」の浸食――
満州の大地は、張り詰めた糸が弾け飛ぶ寸前の静寂に包まれていた。
独ソ軍、そして日本軍。国境線を挟んで対峙する両軍の兵士たちの間で、ついに偶発的な銃撃が交わされる。
チリ、チリ、と不穏な音が響く。恐怖と猜疑心に駆られた兵士たちの背中から、どす黒い炎が立ち上り始めていた。ネガティブ・ミリタリーの汚染段階は、すでに「初期」から「中期」へと移行しつつある。
「ギリギリまで撃つな! 応射は最小限にとどめよ!」
野戦幕僚本部の通信機に向かって、永守鉄志は声を枯らして叫んでいた。その額には大粒の汗がにじむ。
「これは敵との戦いではない! 我々自身の、恐怖という名の飢えた狼との戦いだ! 持ちこたえろ、時間を稼ぐのだ!」
しかし、東京からの電信は最悪の報せを告げていた。
『満州にて戦端開く』の一報に、これまで抑圧されていた民衆が躍り上がって沸き立っているというのだ。「ついにやったか」「暴支膺懲、ソ連を叩け」――熱狂する群衆の足元にも、あの黒い炎が影のようにまとわりついている。
東京の作戦室で電信を握りつぶした小田敏次郎は、恐ろしいほどの眼光で、過激派の将校たちを机ごと「激詰」しながら、満州の空を睨んでいた。
「……永守。そんなに時間は残されていないぞ。国民の熱狂という名の病は、内側から国を焼き尽くす」
2.漆黒の未来図、引き裂かれる祈り
その頃、岩山の地下――ネガティブ・ミリタリーの本拠地では、息の詰まるような激しい戦闘が繰り広げられていた。
「くっ……あああっ!」
鋭い悲鳴とともに吹き飛ばされ、冷たい岩肌に激しく叩きつけられたのはキュアパストだった。
目を不気味な赤に染め、汚染段階「後期」に至ったドイツ・ソ連の軍幹部たちの猛攻は、凄まじい質量となって二人を圧倒する。未来の希望を打撃に変えるキュアフューチャーが拳を振るい、必死に戦線を支えるものの、二人はじりじりと部屋の隅へと追い詰められていった。
その凄惨な戦況を見下ろしながら、漆黒の主が歌うように語りかける。
「君たちが会った人々……みんな自分の意志で歴史を変えようとしてきた。だけど、それでも結局、世界から争いは消えなかっただろう?」
幹部たちの激しい攻撃を光の盾で防ぎながら、パストが魂を振り絞って叫んだ。
「違います!! 私たちは間違いなく、みんなの未来を変えたのです!!」
「そう簡単に人間は変わらないし、歴史の奔流は止まらない。だったら、すべて一度、無から始めればいいじゃないか……!」
「いいえ! 永守さんは生きている! 岡谷さんは希望を残した! 海軍の人たちだって、違う未来を選び取ろうとしたわ!」
パストの瞳に涙がにじむ。しかし、その輝きは消えない。
「シラルド先生も、アップルハイム先生も、自分の過ちを認め、選び直そうとした。それだけで……それだけで、人は変われるという十分な証拠です!!」
だが、黒い衣装に身を包んだ怨念――歴史のトラウマそのものである漆黒の主は、ただ冷ややかに、そして酷く無邪気な声で微笑むだけだった。
「キュアパスト。いや、立花千代……。もうやめなよ。君はそもそも、僕たちと同じ『踏みにじられる側』の人間じゃないか」
主の視線が、凍りついたように動かない創や兵士たちへと向けられる。
「君だけじゃない。君の兄も、そこで固まっている兵士たちも、みんなこの後起こる戦争で、無惨にその命を散らす運命になっているのさ。……そして、いずれ僕になる」
言葉に呼応するように、動かない創たちの背中から、ゆらりと不気味な黒い炎が立ち上った。
「教えてあげるよ。君がいずれ身をもって知ることになる『歴史』の、本当の結末をね」
漆黒の主が怜悧に指を鳴らす。
直後、背後の空間に巨大な「黒い壁」が現れ、水面に広がる波紋のようにおぞましい映像を映し出し始めた。
――それは、血と硝煙にまみれた戦場だった。
小銃を握りしめ、必死の形相で駆ける五郎。だが次の瞬間、無慈悲な機関銃の掃射がその身体を容赦なく撃ち抜く。泥に伏せ、二度と動かなくなる五郎の姿。
画面が切り替わる。薄暗い会議室、作戦を練る護衛部隊の隊員たちの真ん中に、窓から手榴弾が投げ込まれた。凄まじい爆炎が部屋を包み込み、悲鳴さえもかき消していく。
さらに映し出されたのは、陰惨な野戦病院の片隅。傷を負い、病に侵された創が、虚ろな目を向けたままピクリとも動かずに横たわっている――。
信じたくない、信じてはならない悲劇の光景が、激流のように千代の脳内に流れ込んでくる。そして、映像はさらに残酷な「未来」を映し出した。
そこにいたのは、今より少し成長し、大人の顔つきになった千代自身の姿だった。
空を埋め尽くすほどの黒い爆撃機の群れ。雨あられと降り注ぐ、無数の焼夷弾。激しい業火に包まれ、真っ赤に染まる東京の街。
映像の中の千代は、狂ったように走っていた。顔は煤で汚れ、美しい髪や衣服は焦げ落ち、白い肌には痛々しい火傷と生傷が刻まれている。
周囲の崩れ落ちた家々の瓦礫からは、黒く焦げた人間の腕や足が、天を呪うように突き出していた。
凄惨極まる、史実通りの大空襲の光景。
「あ……、あ……」
千代の瞳から、みるみるうちに光が失われていく。
映像の中の彼女は、命からがら燃え盛る火の海を抜け、少し開けた場所へと飛び出た。一瞬だけ、助かったという安堵の表情を浮かべた――その次の瞬間だった。
凄まじい爆風を伴って、巨大なレンガ造りのビルが、千代の真上へと崩落してきた。
画面が暗転する直前、彼女の象徴である「あの懐中時計」を白くなるほど強く握りしめた手だけが、冷たい瓦礫の下から力なく覗いていた。
さらに、白いシーツを顔まで被せられ、どこかへと物言わぬ骸として運ばれていく兄・創の姿が重なる。
「やめて……! やめてぇぇぇッ!!」
千代は頭を抱え、狂ったように絶叫した。
自分が信じ、命をかけて守ろうとした「歴史」の地続きにあるのが、この救いのない地獄なのか。自分の命も、愛する兄の未来も、仲間たちの命も、すべて等しく灰になるというのか。
(私は、何のために戦ってきたの……?)
底知れぬ絶望の闇が、冷たい触手のように千代の心を蝕もうとした、その時――。
3.抱擁と、時を超える「第二段階(セカンドステージ)」
「……やめて……もう……っ!」
これまで誰も見たことがないほどの、激しい怒りと憤怒の表情を漆黒の主に向けるあかり。その拳は血がにじむほど強く握りしめられていた。
しかし、あかりは爆発しそうな感情を無理やり抑え込むように、すうっと深く息を吸い込んだ。
そして、崩れ落ちて震える千代のもとへ歩み寄ると、その身体を、壊れ物を扱うかのように優しく、そして絶対に離さないという強さで暖かく抱きしめた。
「大丈夫……大丈夫だよ、千代ちゃん」
あかりの声は、不思議なほど穏やかで、満ち足りた光を孕んでいた。
「私は千代ちゃんを死なせない。この100年後の未来から来た私が、絶対に、千代ちゃんをそんな目に遭わせない……!」
あかりの胸の温もりの中で、千代の瞳に宿った絶望の泥が、みるみるうちに溶けていく。
千代はあかりの顔を見上げ、その手を強く握り返した。二人は固く手を繋ぎ、涙を拭って、悠然と立ち上がる。
「私の……」
「私たちの未来は……!」
「「自分で選ぶ!!」」
その瞬間、懐中時計クロノスたちの身体から、これまで見たこともないような、圧倒的な量の純白の光があふれ出した。光は螺旋を描いて二人を包み込む。
「気高き祈りを明日の糧に! キュアフューチャー・エターナル!」
「歴史の痛みを抱きしめて! キュアパスト・インフィニティ!」
光の繭が弾けた。
二人の背中には、まるでガラス細工のように透明で、まばゆく輝く大きな「光の翼」が広がっている。
コスチュームの細いラインは回路のように明滅して激しく輝き、二人の周囲には、まるでおとぎ話のようにキラキラとした星の粒子が美しく舞い踊る。
『チェンジヒストリー プリキュア』――奇跡の「変身第2段階」の降臨だった。
『プリキュア・エターナルリライト!!』
「な、何だその光は……! 歴史のトラウマを、人間の怨念を、光なんかで誤魔化せるものか!」
たじろぎ、初めて恐怖の表情を浮かべる漆黒の主。
しかし、翼を得たプリキュアの奇跡は、すでに怨念の力をも凌駕していた。
襲いかかるドイツ・ソ連の汚染幹部たちを、二人は拳を交えることすらなく、ただすれ違いざまに放つ光の波動だけで「圧倒」していく。触れるだけで、幹部たちの身体から黒い炎が剥がれ落ち、元の静かな、眠るような表情へと戻っていく。
「そんな……バカな……ッ!」
たじろぐ漆黒の主の背後に、一瞬で回り込んだ二人の影。
フューチャーとパストは、そっと漆黒の主の身体を両側から優しく抱きしめた。そして、背中の透明な輝く翼が、拒絶する怨念の身体を包み込んでいく。
「もう、苦しまないで」
フューチャーが耳元で囁く。
「あなたの悲しみも、悔しさも、全部私たちが持っていくから。だからもう、世界を憎まなくていいんだよ」
パストが静かに言葉を添える。
「あなたの流した血は、無駄にはしない。この痛みをロジックに変えて、二度とこんな悲劇が起きない世界を、私たちが、人間が、必ず作ってみせるから」
「あ……、あ……」
数千万人の犠牲者の怨念の塊だった身体から、刺々しい黒いトゲが消えていく。
その顔は、ただの、寂しくて仕方のなかった子供の表情へと戻っていた。
「……本当に……? 本当に、僕たちのいない未来は……優しくなるの……?」
フューチャーはやさしくうなずく
「・・・優しくなるよ。私が、そうするから。」
子供の目から、一筋の透明な涙がこぼれ落ちる。
フューチャーとパストは、ただ深く、優しく頷いた。
次の瞬間、眩い光の粒子となって、ネガティブ・ミリタリーの首魁は、満州の冷たい地下空間から、救われた魂と共に天へと昇華していった。
あとに残されたのは、静まり返った岩肌と、手を取り合う二人の少女。そして、世界の運命が、わずかに、しかし確実に「優しい方向」へとシフトした、かすかな風の音だけだった。