満州の国境線は、まさに紙一枚の均衡を保っていた。
ネガティブ・ミリタリーの魔力に突き動かされ、狂乱状態で突撃してくるドイツ・ソ連の汚染軍に対し、永守鉄志が率いる日本軍前線部隊は、凄まじいまでの「抑制」と「忍耐」で応戦していた。
「――来るぞ! 閃光弾、放てッ!!」
前線指揮官の怒号と同時に、何十発もの特殊閃光弾が敵の頭上で炸裂した。
夜の帳を強引に引き裂くような、網膜を焼く白い爆光。通常の人類であれば数秒視界を奪われるだけのその光は、しかし、悪意の闇をエネルギー源とする汚染軍にとっては「致命的な劇薬」だった。
「グアアアッ!? 光が……目が、目が潰れる!!」
「身体が動かん! 悪魔の光だ!!」
強烈な純白の光を浴びた敵兵たちは、まるで物理的な打撃を受けたかのように激しくのたうち回り、その突撃の歩みをぴたりと止める。ネガティブ・ミリタリーの黒い霧が光によって弾け飛び、敵の統率された動きが目に見えて鈍っていく。
「今だ、防衛弾道、計算通りに撃て! 怯んだ奴らの前方に榴弾を落とせ!」
ズガガガガァン!! と、突撃してくる敵兵のわずか数メートル手前の地面が激しく爆ぜ、土砂の大壁が巻き上がる。
これは「当てるための射撃」ではない。敵の進路を物理的に塞ぎ、恐怖によって足を止めさせるための「幾何学的な面制圧」だった。
飛び交う怒号。炸裂する砲撃。凄まじい硝煙の中を、泥にまみれた伝令の兵士が必死の形相で塹壕へ駆け込んでくる。
「報告! 第一線部隊より!『相手の兵士が、こっちの弾が全然当たらないって不気味に笑ってる』とのことです!」
それを聞いた前線の若き将校が、歯を食いしばり、自嘲気味に、しかし誇らしげに怒鳴り返した。
「そりゃそうだ! 当たらないように、あいつらの足元の数メートル手前を正確に狙って撃ってんだよ! こっちが本気で殺しに行ってみろ、その瞬間に全面戦争だ! 弾を当てるな、光と威嚇で押し戻せ! 永守司令の命令だッ!」
それは、あまりにも無茶で、あまりにも気高い戦いだった。
創が本陣で計算し尽くした防衛弾道のデータを元に、前線の兵士たちは「敵を殺さないために」超人的な自制心で引き金を引き続けている。サーチライトの激しい光の帯が戦場を交差し、絶え間なく打ち上げられる照明弾が、汚染軍の闇の魔力をじりじりと削り取っていく。
しかし、一発も敵に当ててはならないという極限の緊張感の中、じりじりと照明弾の備蓄は底を突きかけ、防衛線は文字通り限界を迎えつつあった。
その時――。
泥の戦場を照らす一筋の光
ズゥゥゥン……と、大地を揺るがす地鳴りが響いた。
兵士たちが一瞬身構える。だが、それは攻撃の衝撃波ではなかった。
前線の遥か後方、あのネガティブ・ミリタリーの本拠地である岩山から、天を衝くような「一筋の純白の光」が立ち上ったのだ。その光は満州の濁った曇り空を割り、戦場全体を暖かく、穏やかな光で包み込んでいく。
「……終わったのか……!?」
野戦幕僚本部の天幕を飛び出し、眩しそうに空を見上げる永守鉄志の目が、驚きに開かれる。
兵士たちの背中から、そして東京の街頭で暴動を起こしかけていた民衆の足元から、チリチリと燻っていた「黒い炎」が、朝露が蒸発するように消え去っていく。
同時に、奇跡は敵陣営にも起きていた。
黒い霧が完全に晴れた独ソ連軍の野戦司令部。
正気を取り戻した将軍や参謀たちが、机の上の作戦図面や兵站の書類をまじまじと見つめ直していた。冷や汗が彼らの頬を伝う。
「……っ!? な、なんだこれは……!?」
ネガティブ・ミリタリー——歴史の怨念によって生み出されたこの独ソ連合軍は、元々「世界を焼き尽くして自滅する」ために作られた狂気の軍隊だった。そのため、数週間に及ぶ進軍や、戦線の泥沼化に耐えるための「兵站——補給線」が、最初からほとんど計算されていなかったのだ。
「まずい……持久戦に持ち込まれれば、我が軍は数日と持たずに自滅する。相手は最初からこれを見抜いて、弾を当てずに時間だけを稼いでいたのか……!」
「前線から引け! 全軍、今すぐ撤退だ!」
それまで狂ったように前進していた独ソの鉄の群れが、一斉にエンジンを翻し、潮が引くように退却を始めた。
国境線の向こうへ去っていく敵軍の背中を、永守鉄志は何とも言えない、深く、重い表情で見つめていた。
そこへ、血気盛んな若手将校たちが色めき立って駆け寄ってくる。
「司令! 敵の動きが完全に瓦解しています! 今すぐ追撃をかければ、壊滅的な大打撃を与えられます! 打って出る好機です!」
その言葉を聞いた瞬間、普段は冷徹な鉄の意志を見せる永守が、「初めて」激しい怒りを露わにし、怒鳴りつけた。
「ダメだ!!」
誰もが息を呑み、気圧される。永守は鋭い眼光で将校たちを睨み据えた。
「ここで追撃すれば、彼らは生き残るために再び死に物狂いで牙を剥く! 我々の目的は敵の殲滅ではない。この戦争の枠組みそのものを終わらせることだ!」
永守はふう、と深く息を吐き、いつもの合理的な司令官の顔に戻って言った。
「ここで踏みとどまり、一発も無駄な弾を撃たずに戦線を維持しきること。それこそが、我々の完全なる勝利だ」
「……東京の小田に電信を打て。『独ソ連合は撤退を開始した。我が軍の作戦は完了の見込み』とな」
それは、あかりたちプリキュアが命がけで掴み取った「奇跡」を、大人の政治と戦略という「現実の器」で方向づけ、100年の平和へと導く瞬間だった。
少女たちの見つめる列
満州の冷たい風が吹く岩山の上。
変身を解いた時任あかりと立花千代は、創や五郎、そしてクロノスたちと共に、並んで佇んでいた。
遠くの地平線で、夕日に照らされながら、続々と撤退していく異国の軍隊の長い、長い光の列。
それは、かつて歴史の闇に葬られ、怨念となって世界を滅ぼそうとした「悲しい幽霊たち」が、それぞれの故郷、それぞれの明日へと帰っていく、静かな救済の列のようでもあった。
「……帰っていくね、あかり」
「うん。みんな、自分のお家に帰るんだよ」
あかりは千代の手を、ぎゅっと握りしめる。
大人のリアリズムが持ちこたえ、子供の純粋な善意が歴史を動かした。世界線は今、誰も見たことのない「戦争のない、少しだけ優しい未来」へと向かって、静かに、しかし力強く回り始めた。
激闘の終わりを告げる静寂の中、少女たちの髪が満州の風に揺れていた――。