「――あの、もしもし。お嬢さん」
ふいに肩を優しく叩かれ、あかりはハッと目を覚ました。
「もう閉館の時間なんですが……大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、見覚えのある資料館の係員だった。
あかりは自分が、資料館の片隅にあるベンチでいつの間にか深く眠ってしまっていたことに気づく。頭がまだぼんやりとする中、促されるようにして資料館の外へ出た。
夕暮れ時の街風が、あかりの頬を撫でる。
ふと自分の体を見下ろすと、そこにあるのは光り輝くプリキュアのドレスでも、1935年の岡谷邸で着ていた着物でもない。ごく普通の、2026年の現代を生きる中学生の制服だった。
「ただいま……」
家のドアを開けると、見慣れたリビングの風景が広がっていた。
父親がソファに座ってテレビをつけており、手元では新聞を広げている。
テレビのニュースキャスターが、穏やかな声で告げる。
『――本日、日本の福祉制度の基礎となった「数理福祉学」の国際フォーラムが開催され、持続可能な社会保障について活発な議論が……』
さらに、父親が読んでいる新聞の一面には、歴史の教科書で見た「岡谷啓示」の、大往生を遂げた生涯を振り返る特集記事や、戦後の日米外交・貿易ビジネスの歴史が誇らしげに躍っていた。
歴史は、変わったのだ。あの大人たちが、本当に約束を守って、バトンを繋いでくれたのだ。
「おかえり。どうしたの、そんなに呆然として」
台所から顔を出した母親に、あかりは靴を脱ぎ捨てながら、心底から漏れ出るようにつぶやいた。
「ママ……私、ありえないくらい疲れた……」
そのまま自室のベッドへと倒れ込み、バタンと大の字になる。天井を見つめていたあかりは、次の瞬間、電気が走ったように跳ね起きた。
「あ、資料……っ!」
学校の課題のためにカバンに詰め込んでいたはずの、「A町の戦争の歴史」という重苦しい歴史解説本。それをあさるように引っ張り出す。
表紙の文字は、変わっていた。
そこには、優しいフォントで『A町のあゆみ』と書かれている。
不安と、祈るような期待で、あかりは狂ったようにページをめくった。
かつて、空襲の犠牲になった少女の遺品――あの黒焦げた「懐中時計」が載っていた、絶望のページ。
あかりの指が止まる。
そこに印刷されていたのは、上品な仕立ての和服を着て、優しく微笑む一人の白髪の老女の写真だった。
【地域が生んだ偉人:立花千代】
戦後、旧来の規範に縛られていた女性や社会的弱者の地位向上、国際交流、そしてデータに基づく持続可能な社会福祉の推進に生涯を捧げた社会学者。
生没年1921〜2009。享年・88歳。没年は――あかりが生まれる、ほんの数年前。
千代ちゃんは、生き延びた。あの戦争は起こらず、焼夷弾の雨に焼かれることなく、自分の意志で学び、自分の人生を、自分の足で最後まで堂々と生ききったのだ。
「よかった……。本当に、よかった……っ」
千代の幸福な生涯を知り、胸を撫で下ろす。しかし同時に、猛烈な寂しさと切なさが、あかりの胸を容赦なく締め付けた。
千代の没年は、あかりが生まれる前。
歴史が優しく修正されたこの世界において、あかりはもう、立花千代という女の子に会うことも、声を聴くことも、その温かい手を握ることも、逆立ちしても絶対に不可能なのだ。
「千代ちゃん……、千代ちゃん……っ!」
嬉しさ、寂しさ、そして二度と会えない悲しさ。あらゆる感情が一度に爆発し、あかりは本を胸に抱きしめたまま、ベッドの中で声を上げて号泣した。
◇
明日(フューチャー)を生きる
翌朝。
雲ひとつない五月の青空の下、あかりはいつもの通学路を、元気よく駆け抜けていた。
「おはよーっ!」
友達を見つけ、満面の笑顔で手を振る。
千代と別れた悲しさが、胸から完全に消え去ったわけじゃない。目を閉じれば、今でもあの岡谷邸の匂いや、みんなの声が鮮明に蘇る。
けれど、あかりの瞳には、もう涙はなかった。あるのは、まっすぐな前を向く意志だ。
(千代ちゃんたちが命がけで繋いでくれた、100年後のこの世界。……だったら私、この時代で、思いきり、しっかり頑張って生きなきゃね!)
あかりが未来の街を力強く一歩ずつ踏みしめ、未来のきらめきの中へ歩み進んでいく姿に重なるように、明るく、どこか切ない物語は静かに幕を閉じる――。
◇
まだ誰もいない、開館前の静まり返った資料館。
差し込む朝の光の中に、ひとつの展示ケースがあった。
中には、もう動くことのない、アンティークの美しい懐中時計。
キャプションには『地域の偉人・立花千代の愛用品』と書かれている。
その展示ケースの傍らに、一枚のセピア色の古ぼけた写真が飾られていた。
説明書きには『女学校時代の立花千代(右)』とだけある。
しかし、その古い写真に写っていたのは――。
戦前の清楚な女学校の制服に身を包み、カメラに向かって、これ以上ないほどの満面の、太陽のような笑顔を咲かせている、時任あかりの姿。
そしてその隣で、あかりにぐいぐいと腕を引っ張られ、少しだけ顔を赤くしながら、でも、心底幸せそうに、はにかんだ笑みを浮かべて手を組んでいる、若き日の立花千代の姿だった。
100年の時を超えて、二人の少女が確かにそこに存在し、世界を救ったという、世界で唯一の、気高き奇跡の証明。
その写真を、窓から差し込む現代の暖かい光が、優しく照らし続けていた。
『チェンジヒストリー プリキュア』――― 第1部 完