あかりが眩い光の中に溶け、本来あるべき「100年後の未来」へと帰っていってから、千代の心には、ぽっかりと底の抜けたような大きな穴が空いたままだった。
二人で何度も過ごした岡谷邸の部屋、世界の破滅を瀬戸際で止めたあの命がけの記憶、そして何より、暗闇さえも一瞬で照らし出すようなあかりの眩しい笑顔。それらすべてが、まるで泡沫の夢か幻であったかのように、昭和11年の平穏な日常は淡々と、しかし残酷なほど冷徹に流れていく。
千代は胸を焦がすような寂しさを必死に押し殺し、毎日の家事と女学校への通学を、ただ機械的に、黙々とこなすことで己を保っていた。
そんなある日の放課後。夕暮れ時の女学校の校門を出た千代の前で、一台の重厚な黒塗りの高級車が滑り込むようにして静かに停車した。
周囲の女学生たちが「まあ、どこのお家のかしら」と色めき立つ中、車の後部座席から降りてきたのは、見慣れた軍服姿の兄・創だった。あの激動の事件を生き抜き、見事に中尉へと昇進した兄の佇まいは、以前よりもどこか洗練され、国家の未来を担う男としての引き締まった空気を纏っている。
「千代。……岡谷さんが、お前とお話しをしたいとおっしゃっている。一緒に来てくれるか?」
兄の、ただ事ではない真剣な眼差し。それを見た瞬間、千代の胸の奥で、冷え切っていた火種がパチリと音を立てて爆ぜた。あかりと共に駆け抜けたあの戦いは、決して幻なんかじゃない。まだ終わってなどいないのだと、急速に速くなる鼓動を自覚しながら、千代は小さく、しかし力強く頷いて車に乗り込んだ。
行き先は、かつての日々を共にした、元首相・岡谷啓示の邸宅だった。
重厚な調度品が並ぶ応接室に通された千代を待っていたのは、岡谷だけではなかった。そこには、あの満州で不戦の奇跡を指揮した陸軍の天才、永守鉄志の姿もあったのだ。思わぬ重鎮たちの再会に、千代は小さく息を呑み、背筋を正した。
部屋を支配する重々しい沈黙を破り、岡谷が静かに、しかし父親のような深い声音で口を開いた。
「……先の事件において、国家のために命を賭して戦った軍人たちには、相応の恩賞と地位、予算を以て報いた。だが……軍籍を持たず、さらにその性質上、その存在を歴史の表舞台に決して出すことのできないあかりさんと、そして君の功績については、国家として何一つ報いることができていない。それが、私と永守の、どうしても拭えぬ心残りだったのだ」
傍らに立つ永守も深く頷き、眼鏡の奥の眼光を和らげて千代を真っ直ぐに見つめる。
「千代さん。君があの夜、どれほどの勇気を持って未来を護り抜いたか、私たちは片時も忘れてはいない。……何か、君がこれからやりたいことはないか? 進学でも、あるいは他の道でも構わない。今の私たちにできることなら、国家の裏の力を使ってでも、全力でその協力を惜しまないつもりだ」
最高権力者たちからの、破格の申し出。千代は一瞬、かつての控えめな自分に引きずられ、「私など、滅相もございません……」と言いかけた。
けれど、その言葉を喉の奥で強引に飲み込んだ。
目を閉じればすぐに浮かぶ、あかりが生きる、あの100年の遥かな未来の景色。誰もが笑い、誰もが自由に空を見上げられる、あかりの愛した世界。
(あかりが待つ未来を、もっと優しく、もっと良い社会にしたい。そのためには、守られるだけの子供のままじゃダメだ。私自身が強く、世界の仕組みを理解できるほど賢くならなければいけない……!)
千代は意を決し、両拳を固く握りしめると、国を動かす二人をまっすぐに見据えて言い放った。
「……では、不躾ながらお願いがございます。私、もう一度学びたいのです。今度はしっかりと、この社会の仕組みや構造を学ぶために……アメリカへ留学させていただけないでしょうか」
「アメリカ、だと……!?」
岡谷と永守が、同時に思わず目を見開いた。
この昭和の時代、若い女性が専門的な高等教育を望むだけでも珍しいことだ。それがまさか、一歩間違えれば一触即発の危機にあった海の向こうの国、最先端の資本主義国家であるアメリカへの留学だとは、酸いも甘いも噛み分けた二人にとっても完全に予想外だった。
「あかりのいる未来をより良くするために、私は『社会学』を修めたいのです。混迷する世界がどう動き、どうすれば人と国が手を取り合えるのか。アメリカはその研究の最前線だと、以前に特命を受けて渡米した際に確信したのです。お願いです、もう一度アメリカに…私に世界を学ばせてください」
千代の瞳の奥にある、一切の迷いがない揺るぎない覚悟。それを見た岡谷は、一瞬の沈黙のあと、ふっと相好を崩して低く愉快そうに笑った。
「っふ、ははは! 進学を希望するとは思っていたが……まさか、また海を渡ると言い出すとはな。さすがはあのあかりさんと共に、世界の運命を変えた娘だ。いいだろう、その意気や良し。……だがな、千代さん。何の後ろ盾もない日本の小娘が、いきなり渡米するというのは現実的ではない」
岡谷は身を乗り出し、机の上に肘をついて、厳しくも温かい目で具体的なアドバイスを授けた。
「まずは、日本の名門女子大学へ行きなさい。そこで基礎となる教養と、何より現地で舐められないための本物の英語を、死に物狂いで学ぶのだ。そして、その大学が持つ正式な留学枠に推薦されるだけの実力を、まずは自分の力で示してみせなさい。試験は自力で受かるんだ。その後の手続きや、向こうでの段取り、滞在費の裏回しは、この岡谷が責任を持ってなんとかしよう」
「はい……! ありがとうございます!」
その日から、千代の凄絶な猛勉強の日々が始まった。
周囲の華やかな同級生たちが、おめかしをして花嫁修業や将来の良き縁談に胸を躍らせ、流行りの小説に一喜一憂する中、千代は一人、図書室の片隅で埃を被った分厚い書物と格闘し、学問の基礎を貪るように頭に叩き込んだ。ノートは一週間で何冊も真っ黒に染まった。
その陰には、決して口には出さない、大人たちの手厚い隠れた支援があった。
岡谷は自身の邸宅に、外交官を育てるような一流のネイティブ英語講師を秘密裏に招き、千代に生きた英語と国際マナーを叩き込ませる環境を完全私費で整えた。さらに、今後の学費や留学資金の原資となる実質的な援助も、永守の計らいによって軍の機密費や岡谷の財閥コネクションから、すべて裏から綺麗に手配されていたのだ。
「あかり、見守っていてね。私、絶対にそっちへ行くから」
夜遅く、静まり返った部屋。机の上のスタンドライトのオレンジ色の灯りに照らされながら、千代はペンを握る、インクで汚れた手にぐっと力を込める。寂しさは、もう千代を立ち止まらせる重荷ではなく、未来へ進むための推進力に変わっていた。
そして努力は、最高の結果として結実する。
千代は見事に名門女子大学へと首席クラスの成績で合格。入学後も周囲を圧倒する勉学への執念を見せて頭角を現し、ついに数年後――誰もが羨む「アメリカ留学」という、あかりの待つ未来へと確実に繋がっている、栄光の切符をその手につかみ取るのだった。