リバティ島に立つ自由の女神を遠くに臨み、ついにアメリカの地に降り立ったとき、千代の胸はこれまでにない激しい高鳴りに満ちていた。
見上げるほどにどこまでも高く、吸い込まれそうなほど青い空。行き交う、様々な肌の色、様々な瞳の色の人々。聞こえてくる、全く異なるイントネーションの言葉の数々。
「ここで私は学ぶ。あかりが待つ未来を、もっと優しく、誰もが笑い合える場所にするために」
期待と決意、そして何よりあかりへの誓いを詰め込んだ古びた革のカバンを抱きしめ、千代は念願だった最先端の大学へと通い始めた。
――だが、現実は決して、希望に満ち溢れるだけの世界ではなかった。
最初の、そして最も高く分厚い壁として千代の前に立ちはだかったのは、やはり「言葉」だった。
「留学したい」と意を決して岡谷閣下や永守さんに伝えたあの日から、千代の死に物狂いの猛勉強は始まっていた。女学校を卒業するまでの間、千代は毎日のように岡谷邸へと通い詰めた。岡谷が自身の大使館人脈から極秘裏に紹介してくれた一流の英国人教師から、マンツーマンで英語の徹底的なレクチャーを受けたのだ。それは名門女子大に入学してからも続く過酷な特別レッスンだった。
おかげで、教科書を読み解くことも、丁寧な日常の挨拶を交わすことも問題はなかった。自分でも、人並み以上の自信とプライドを密かに胸に抱いていたのだ。
しかし、「形式として美しく整えられた言語」と、目の前の生きた人間たちによって「実際に話されている言語」の間には、絶望的なまでの底知れないギャップがあった。
キャンパスのみずみずしい芝生の上、現地の学生たちが弾んだ声を上げて笑い合い、凄まじいスピードで独特のスラングやジョークを交えながら交わすマシンガンのような会話。それは、岡谷邸の静かな応接室で習った、淑女のための美しく澄んだ英語とは、全くの別物だった。
(……速い。何を言っているのか、半分も……いや、三割も聞き取れない……)
講義の内容は、事前に教科書を文字通り暗記するほど予習していくことで、何とか必死についていける。自分の意思を、たどたどしくても正確に伝えることだってできる。だからこそ、あの時、岡谷閣下が用意してくれた環境と講師には、今でも涙が出るほど感謝していた。もしあの圧倒的な準備期間がなければ、今頃は授業の教室の椅子に座ることすら許されず、絶望にへたり込んでいただろう。
けれど、それだけでは、対等な人間としてこの社会にコミットするには決定的に足りないのだ。
現地の仲間の輪に入り、他愛のない冗談に声を上げて笑い、激しい政治や哲学の議論を対等に交わす。そんな話し方は、今の千代にはどうしてもできなかった。声をかけようとしては、文法的な正しさを気にするあまり言葉が喉の奥で硬く詰まる。会話の輪の少し外側で、内容も分からぬまま引きつった笑みを浮かべることしかできない自分。その輪から一歩遠ざかるたびに、強烈な疎外感と、凍りつくような孤独が千代の小さな身体を襲った。
かつて、あの激動の夜。プリキュアの任務としてニューヨークの地へ潜入したときのことが、皮肉な鮮明さで脳裏をよぎる。
あの時は、母の形見の懐中時計――「クロノス」という、あまりにも特殊で完璧すぎる通訳者が常に隣にいた。何もしなくても、相手の言葉が濁りなき日本語として頭に流れ込み、こちらの拙い言葉が完璧なネイティブの英語として相手に伝わっていたのだ。
(あの時は……プリキュアの力に、私は甘えていたのね)
今は、もうあの奇跡の力はない。世界を救うキュアパストとしての変身能力も、言葉と心を繋ぐ魔法も、何一つ残されていない。ただの未熟な、異国からはるばるやってきた日本人女性として、自分の華奢な足だけでこの広大な大陸に立っているのだ。
さらに、千代を精神的に追い詰めたのは言葉の壁だけではなかった。
千代が目指す「社会学」の専門講義に出席するためには、それ以外のあらゆる膨大な基礎教養――難解な西洋哲学、入り組んだ世界歴史、自然科学、そして毎週のように課される、何十ページもの英語のレポートの提出が義務付けられていた。
毎日、両手で抱えるほどの辞書を片手に、夜中を過ぎて東の空が白むまで洋書と格闘し、文字通り泥のように、気を失うようにしてベッドに倒れ込む日々。
「ハロー、チヨ。今日も難しい顔をして机に向かってるのね」
ある日の講義の合間、クラスメイトの親切なブロンドの少女が、カフェテリアで気さくに声をかけてくれた。
「あ……、イエス。少し、次の予習が難しくて……その、キャッチアップが……」
それ以上の言葉が、どうしても続かない。もっと気の利いた、彼女の着ている素敵な服を褒めるようなお喋りをしたいのに、頭の中で文法を必死に組み立てているうちに、沈黙に耐えかねた少女は「あはは、無理しないでね。またね、チヨ」と困ったような苦笑いを残して去っていってしまった。
ぽつんと取り残された、シカゴのキャンパスのベンチ。大陸の冷たい秋の風が、千代の熱を持った頬を容赦なく撫でる。悔しさと情けなさで、視界がじんわりと滲んでいく。
『あはは! まあ何とかなるでしょ!』
――その時、不意に、優しく弾けるようなあのあかりの声が耳の奥で聞こえた気がした。
あかりはいつも、何の根拠もないのに『大丈夫!』『とにかくやるよー!』なんて言って笑っていた。隣にいた頃は、「もう、あかりは少しは先のことを考えたらどうかな……」といつもハラハラしながら呆れていたけれど、今になって、この暗闇の中でようやく思い知る。
あの脳天気な、向こう見ずなまでに前向きな言葉に、自分はどれだけ救われていたか。どれだけ、折れそうな背中を強く押されていたか。
『千代ちゃん、がんばれ!』
幻聴だと分かっていても、胸の奥の冷え切っていた場所が、じんわりと、確かに熱くなっていく。
千代は震える手でカバンの中から、古びた筆箱をそっと取り出した。女学校時代にあかりが使っていたものを「お守り」として千代が岡谷から頂いたのだ。その筆箱を見つめ、あかりの太陽のような笑顔を思い浮かべる。
「……うん。負けないよ、あかり」
千代は溢れそうになる涙を手の甲で手荒に拭い、小さく呟いてペンを握る手にぐっと力を込めた。
魔法の力は、もうない。けれど、この足で歩むと、自分の意志で決めた道だ。岡谷閣下や永守さん、そして創お兄さんが繋いでくれた、この奇跡のようなチャンスを絶対に無駄になどするものか。
千代は深く深く息を吸い込み、冷たい風を胸に満たすと、膝の上の分厚い社会学の教科書を再び力強く開いた。キャンパスに飛び交う英語の激しい濁流の中へ、今度は借り物の魔法ではなく、自分自身の本物の「知性」と「意志」で飛び込んでいくために、千代のペンがノートの上に力強い音を響かせ始めた。