シカゴの肌を刺すような冷たい秋風にも、キャンパスに吹き荒れる言葉の濁流にも、千代は歯を食いしばって必死に食らいつき続けていた。
数ヶ月が経つ頃には、日常の他愛のない会話は何とかこなせるようになり、カフェテリアで友人たちと談笑する機会も増えた。……しかし、学習が進むに連れて、大丈夫だと思っていた教科書にも手こずることが増えてきた。専門的な社会科学の学術英語、とりわけ講義で飛び交う容赦のない専門用語や統計学の解説には未だに手を焼き、現地の友人の助けを借りて毎夜のレポートをなんとかしのいでいるのが実情だった。
それでも、インクの染みで汚れたノートが英語の文字で埋まるにつれ、ゼミの講義での発言も少しずつ増えていった。キャンパスでの生活には、自分の力で一歩ずつ進んでいるという確かな手応えを感じ始めていた。
「自由の国、アメリカ」
あかりが生まれたあの輝かしい100年後の未来、その礎となったこの国は、確かにダイナミックで、誰もが自らの意志で、自らの人生を勝ち取っているように見えた。異国からはるばるやってきたうら若き東洋の留学生である千代を、排斥することなく温かく迎え入れてくれる親切な学生や教授も多かった。千代はその洗練された善意に、心から感謝していたのだ。
――だが、言葉が本質的に理解できるようになるにつれて、千代の胸の奥には、拭い去ることのできないある不気味な「違和感」が居座るようになった。
それはある日の放課後、ゼミの親切な白人のクラスメイトたちと、図書室のテラスで社会の仕組みについて議論を交わしていたときのことだった。
「チヨ、君がこれほど熱心に学んでいるのは本当に素晴らしいよ。東洋の未開な、小さな島国からわざわざやってきて、よく頑張っているね。安心していい、僕たちが君に、世界で最も進んだ本物の民主主義を教えてあげるからね」
屈託のない、淀みない100パーセントの「善意」の笑顔。
けれど千代は、その甘い言葉の裏に潜む、絶対的な冷ややかさと傲慢さに気づき、ハッと息を呑んだ。
(……ああ、これは、違う。私は彼らに、“対等な人間”として見られているのではないのね)
彼らの親切さは、対等な知性への敬意などではなかった。それはまるで、迷子になった哀れな子犬を優しくあやすかのような、どこか非対称で従属的な視線に基づいていた。彼らにとっての千代は、自分たちの施しによって「守ってやり、正しい道へと導いてやるべき、無知で非力な庇護対象」に過ぎなかったのだ。
寄宿舎の夜、その胸を焦がすような違和感を口にすると、同じようにアジアや、動乱の欧州の小国から来ていた他の留学生たちも、深く、苦しげに頷いた。
「気づいたかい、チヨ。この国の人々は確かに親切だ。だけどその親切はね、自分たちが絶対に『優位な側』に立っているという、強固な前提の上でしか発揮されない親切なんだよ。そこから一歩でも対等に立ち上がろうとすれば、彼らは顔色を変えるさ」
白人優位、強者優位に精緻に設計された社会。その見えない精神の檻を思い知らされた千代に、さらに決定的な、逃げ場のない衝撃が襲う。
ある日の午後、千代は大学の社会学の講義の一環として、シカゴの市街地へとフィールドワーク(現地調査)に赴いた。そこで千代が目にしたのは、言葉を失うほどの厳然たる、そして冷徹な事実だった。
街のあちこちに、明確な境界線が存在していた。
それは、いかなる法律の条文にも書かれていない、地図にも載っていない「境界線」だった。
通りを一本挟んだだけで、風景が、空気が、人間の色が完全に一変する。
黒人たちが身を寄せ合うようにして生きる、崩れかけたつぎはぎの煉瓦街。
そこから目と鼻の先にある、白人たちが優雅に暮らす、美しく整えられた並木道。
誰かがそこに、物理的な鉄柵を立てたわけではない。銃を持った兵士が監視しているわけでもない。
だが、不思議なほど、その境界線は一ミリも動かないのだ。
銀行は黒人の街への融資を組織的に渋り、不動産業者は「あなたに合うのはあっちの地域だ」と笑顔で別の場所を勧め、住民たちは「昔からこう決まっているから」と、さも当然のように説明する。
法律の条文よりも遥かに強固な、社会の集団心理そのものが作り上げた「見えない隔離の壁」。
千代は寒気に身を震わせ、アスファルトの上で思わず足を止めた。
(誰かが銃を突きつけて命令しているわけではないのに……どうして皆、恐ろしいほど同じように振る舞い、この境界線を維持しているの?)
何より千代を戦慄させたのは、それが一部の悪辣な犯罪者による暴力ではなく、善良な人々による「当たり前の社会規範」として機能しているという事実だった。
キャンパスで千代に「頑張ってね」とパンを分けてくれた、あの善良な市民たちが、日曜日には教会で神に涙を流して祈りを捧げるような心優しい人々が、この残酷な人間隔離のシステムを「伝統的な当たり前の日常」として、何一つ疑問も持たずに受け入れ、内面化している。
かつて、昭和10年の日本で、千代は「女性だから」「子供だから」という旧習の規範に縛られて生きてきた。男たちの半歩後ろを歩み、慎み深く、周囲の空気を立てて生きる生き方――それはそれで一つの美しい徳目であると、千代は今でも変わらず思っている。
だが、そうではない。人間を縛る規範には、もっとおぞましい別の一面があるのではないか。別の可能性、別の自由な社会の姿があるはずだ。そう信じたからこそ、千代は遥々海を渡ってアメリカまでやってきたのだ。
だが、この最先端の国アメリカもまた、別の巨大で冷徹な「規範」によって、一部の人間の尊厳を平然と踏みつぶし、それを『自由』の美名で覆い隠していた。人間は、どれほど進んだ合理的な社会を作っても、これほどまでに平然と残酷になれるものなのか。
眩しいはずの「自由の国」の裏に広がる、深海よりも深い、暗黒の闇。
それは、かつて世界を救ったプリキュアの魔法でも、一人の少女の正義の怒りでも、決して打ち砕くことのできない、国家と歴史という名のあまりにも冷徹な檻だった。
フィールドワークから戻った薄暗い研究室で、千代は激しい眩暈と吐き気に襲われながら、机に両手をついた。目の前が暗転しそうになる。
ショックでガタガタと震える指先が、カバンの中にあった、あの古びた筆箱に触れた。あかりが残していってくれた、唯一のお守り。
『あはは、何とかなるでしょ! 大丈夫だって!』
脳裏に響く、あかりのあの無邪気で脳天気な声に、千代は涙をこらえながら、心の中で強く首を振った。
(何ともならないよ、あかり……。人間は、社会は、私たちの想像なんかより、もっと根深く濁っている。私たちが命をかけて戦争を止めたって、この人間の心にある闇が消えるわけじゃないんだ……!)
底知れない無力感と絶望に押しつぶされそうになりながらも、千代の瞳には、かつて満州の戦場で世界の破滅を前にしたときのような、鋭い、狂気にも似た「執念の光」が宿り始めていた。
「……だからこそ。だからこそ、私は学ばなければいけないんだ」
千代は溢れそうになる涙を手の甲で強引に拭い去り、机の上のノートを乱暴に開いた。
世界を一瞬でパッと変えてくれる便利な魔法なんて、もうどこにもない。正義の味方の力なんかじゃ、この歴史が積み上げてきた巨大な差別の構造は絶対に壊せない。
ならば、私は一人の人間として、この社会という名の醜く巨大な怪物の正体を、その精緻な仕組みを、学問のロジックという刃で解き明かしてやる。そして、この光と影の仕組みをすべて血肉に変えて、いつか帰る私の国・日本に、もっとまっとうで、誰もが尊厳を奪われない社会のシステムを、私の手で築いてみせる。
「見ていて、あかり。私は、あなたのいる未来に、絶対に絶望したりしない」
シカゴの空に重苦しい夕闇が迫る中、千代はただひたすらに、己の知性を研ぎ澄ますように、目の前の残酷な現実をペンで激しくノートに記録し始めるのだった。