自由の国の眩しさと、その豊かさを支える徹底的な合理主義、そして同時にその裏に潜む人種、階層、冷徹な格差システム。アメリカ社会の双方の真実を知った千代の毎日は、それまで以上に緊迫した、凄まじい密度のものとなっていた。
千代が特に圧倒されたのは、アメリカ社会学の持つ強烈な「現場主義」と、それを裏付ける圧倒的なデータの力だった。
日本での社会学が多分に哲学教育的、あるいは「国家とはどうあるべきか」という机上の抽象論に寄りがちだったのに対し、この国では違った。移民が押し寄せる過酷なスラムの現状、工場の労働効率と人間の心理、都市の犯罪率といった「生々しい現実」を徹底的に数値化し、システムとして解剖しようとしていたのだ。
大学の講義と、その生データを分析する膨大なレポートに追われる日々。そんなある日、千代のもとに教授や学内のエリート学生たちが集まる、格式高い学術交流のパーティーへの招待状が届いた。
「チヨ! 今度のパーティー、何を着ていく? 私は親に頼んで、フランス仕立ての新しいイブニングドレスを新調してもらうの!」
寄宿舎の友人がベッドの上で目を輝かせてはしゃぐ横で、千代はベッドの片隅でひそかに頭を抱えていた。
(……どうしよう。ドレスなんて、持っていないわ。誰かに借りるわけにもいかないし……)
華やかな異国の社交場に、自分は何を着ていけばいいのか。場違いな格好をして、日本の、あるいは留学の段取りをしてくれた岡谷閣下や、永守たちの顔に泥を塗るようなことだけはしたくない。困り果てて自室のクローゼットの奥からトランクを開けたとき、千代はある丁重な包みの存在を思い出した。
それは、日本を発つ直前のこと。
裏舞台から国を動かすフィクサーとなった岡谷の私邸へ留学の挨拶に赴いた千代に、彼が自ら手渡してくれたものだった。
そのたとう紙を開いた千代は、その見事な染めと刺繍の美しさに息を呑んだ。それは、落ち着いた淡い藤色の中に、日本の四季の移ろいが繊細な金糸と絹糸で表現された、息を呑むほど上品で立派な着物――訪問着だった。
『閣下、このような素晴らしいお召し物、私には勿体なすぎます。万が一、異国の地で汚しでもしたら……』
と、あまりの重厚さに固辞しようとした千代に、岡谷はいつもの冷徹な政治家の顔を引っ込め、父親のような温かい微笑みを浮かべて言ったのだ。
『持っていきなさい、千代さん。海の向こうはね、君が思う以上に多様で、同時に“格式”と“出自”を厳格に重んじる世界だ。洋装の真似事で取り繕う必要はない。何か大切な時、君が“日本人”としての揺るぎない誇りを示すべき瞬間に、それはきっと君を助ける最大の盾になるさ』
トランクの底から丁寧に取り出した、ずっしりとした絹の重みに、千代の胸がじわりと熱くなった。
(閣下……ありがとうございます。今が、その時ですね)
パーティー当日。会場となったホールの豪奢な扉が開くと、そこには眩いばかりの別世界が広がっていた。
巨大なクリスタルのシャンデリアが放つ光の下、色とりどりのきらびやかなシルクのドレスに身を包んだ令嬢たちと、仕立ての良いスマートなタキシードを完璧に着こなした学生や教授たちが、クリスタルグラスを片手に談笑している。あの大戦が回避されたこの世界線では、まだ日米の間に戦争の足音は遠く、この場に集う誰もが、束の間の穏やかな時代の空気を無邪気に謳歌していた。
その華やかな喧騒の中に、千代が一歩を踏み入れた瞬間だった。
近くの学生たちが思わず会話を止め、ホールの入り口へ視線を注いだ。
「……あれが、日本の民族衣装か?」
「なんて美しいんだ……」
さざ波のような囁きが、またたく間に会場全体へと広がっていく。
千代が纏っていたのは、あの訪問着だった。
洋装の派手な原色とは一線を画す、奥ゆかしくも絶対的な気品を放つ藤色の色彩。職人の手によって一本一本紡がれた、歩くたびに微かに光を反射する織りと刺繍。洋装の輪の中に現れたそのあまりにも優美な姿は、いかなる高級ドレスの令嬢よりも強烈な存在感を放ち、会場の空気を一瞬で魅了してしまった。
「素晴らしい……! 単なる衣服というより、歴史と精神が編み込まれた、まるで歩く芸術品のようだ」
「知っているかい? あれが東洋の真珠、キモノの正装だよ」
クラスメイトの一人が、まるで自分のことのように得意げに周囲の学生に説明しているのが聞こえ、千代は頬がカッと熱くなるのを感じた。少し気恥ずかしくなりながらも、ドレスを着た友人たちと目が合うと、彼女たちは「最高にクールよ、チヨ!」と言いたげに照れくさそうな、しかし心からの称賛の笑顔を向けてくれた。
けれど、千代はただ珍しがられるため、東洋の神秘としてチヤホヤされるためにこれを受け取ったのではない。すっと背筋を伸ばし、凛とした表情を引き締めた。自分は、対等な研究者としてここにいるのだ。
千代は草履の音を静かに響かせながら、上品な足取りで、日頃から熱心に指導してくれている老教授たちのグループへと歩み寄り、完璧な所作で美しく一礼した。
「グッドイブニング、先生方。本日はお招きいただきありがとうございます」
「おお、チヨじゃないか! 素晴らしいね、実に美しいものだ!」
この大学の社会学部長でもある老教授が、眼鏡の位置を直しながら感嘆の声を上げた。
「その衣装の見事さもさることながら、君のその堂々とした佇まい、ブレない芯の強さが見事だ。……ここでの生活には、もう慣れたのかい?」
問われた千代は、怯むことなく、まっすぐに教授の青い目を見つめ返した。
「はい。毎日が大変刺激的です。特に、日本のような伝統的な共同体社会と違い、こちらのアメリカでは、『個人』が機能的なシステムの中でどのように流動的に動くかというダイナミズムを、生きたデータとして目の当たりにできます。合理主義がもたらす豊かさと自由には、本当に圧倒されるばかりです」
千代は一度言葉を区切った。脳裏に過ぎったのは、いつかあかりが何気なく話していた、遠い未来の言葉だった。「格差」「分断」――あの子が生きる100年後の世界では、当たり前のように語られているのだろう概念。この時代の誰もまだ、そこまで踏み込んで言葉にしてはいない。けれど、あかりの生きる未来をわずかにでも知る自分になら、この光の裏側を語ることができる。千代は聡明な瞳にさらに深い光を宿し、続けた。
「……ですが同時に、深く考えさせられてもおります。この国が誇る『徹底的な効率性と合理のシステム』は、時として、人間をただの数字に還元してしまう。それが、人種や階層といった、別の形の冷酷な『規範』や『分断』を社会の底辺に生み出しているようにも見えます。自由の光が強い分、その裏に落ちる影もまた、驚くほどに深いのだと学びました」
千代の口から淀みなく飛び出した、単なるお世辞や借り物の知識ではない、この数ヶ月間、自身の足と目で掴み取った鋭く客観的な「アメリカ社会への考察」。
さっきまで着物の美しさに目を奪われていた教授たちの顔つきが、一瞬で「老練な学者」のそれへと変わった。彼らはワイングラスを持った手を止め、深く頷き、千代の言葉に真剣な眼差しを向ける。
「ほう……。実に不思議な着眼点だな。まるで、まだ誰も足を踏み入れていない未開の領域を、一足飛びに覗き見ているようだ。我が校へ来る留学生の多くは、この国の物質的な長所に平伏するか、あるいは文化的な違和感から短所を突くだけの、どちらか極端な視点しか持たない。だがチヨ、君の言う『システムの合理性が生む新たな分断』というテーマは、今の学会のどの潮流とも違う。だからこそ、聞かせてほしい」
教授は快活に笑い、千代の肩をすくめて見せた。
「次回のゼミで、ぜひ君のレポートとして深く聞かせてくれ。議論のしがいがある」
「喜んで、先生。全力で準備いたします」
千代が品良く微笑むと、周囲で聞き耳を立てていたエリート学生たちも、もう彼女を「守るべき非力で珍しい東洋の少女」としては見ていなかった。一人の敬意を払うべき、そして油断ならない聡明な「対等の仲間」として、温かい拍手と共に、自らの輪の中に深く迎え入れていく。
(あかり、見てる?)
手渡されたグラスの向こう、華やかな笑い声が響く中で、千代は胸の中でそっと呟いた。
あかりがくれた、脳天気だけど絶対に諦めない「大丈夫!」の精神。そして、岡谷閣下たちが持たせてくれた、日本の美徳という名の強固な盾。
魔法の力は、もうない。プリキュアとして戦う日々は終わった。けれど千代は、自分自身の言葉と知性を武器に、この広大な異国の地に着実な独りの足跡を刻み、100年後の未来へと続く、新しくも決して切れない強い絆を紡ぎ始めていた。