千代は自由の国アメリカで、幾多の困難を乗り越えながら着実にその歩みを進めていた。
ようやく現地のスピード感あふれる言葉の濁流にも馴染み、かつて岡谷閣下から贈られた上品な訪問着をきっかけにして、大学の老教授たちや、明日の世界を担う新しい仲間たちとの間に、学問を通じた確かなリスペクトの絆を築き始めていた。
しかしその一方で、この国が持つ眩いばかりの富と自由の裏側――善良な人々が「そういうものだから」と無自覚に受け入れている、人種や階層による構造的な格差、そして冷徹な隔離システムといった「影」の厳然たる事実も、千代は日々、フィールドワークを通じて目の当たりにし続けていた。
(人間を、社会のシステムを、内側の構造や人々の意識の根底から変えなければ、どれだけ表面上の平和を繕っても、またいつかあの狂気と破滅の時代がやってくる……)
大学での学びをさらに深め、己の知性を研ぎ澄ましていた、ある鮮やかな秋の日のことだった。
黄金色や真紅に染まった木々が絵画のように美しい、キャンパスの広場を歩いていた千代は、ふと、並木道のベンチの近くに佇む、一人の小太りな男の姿に目を留めた。
仕立ての緩いスーツに身を包み、どこか酷く疲弊した様子で遠くを見つめているその男。少し白髪が増え、以前よりも随分と年を召したように見えたが、その奥にある、すべてを見透かすような理知的で鋭い眼光を、千代が見間違えるはずがなかった。
「……シラルド先生!」
千代の声が秋の澄んだ空気に響く。男はハッとしたようにゆっくりと振り返った。その丸みのある柔和な顔に一瞬の驚きが走り、やがて記憶のピースが合致したように、確信に満ちた目へと変わっていく。
「おお……あなたは。そうか、日本の、チヨさんか……! まさか、こんな海の向こうのキャンパスで君に会えるとは」
二人は黄金色の葉が舞い落ちるベンチに並んで腰掛け、静かに言葉を交わした。あの緊迫した昭和10年の夜、世界の暴走を止めるために国境も立場も超えて共闘した、稀代の天才科学者と一人の少女の、奇跡的な再会だった。
「……そうか。アカリはもう、ここにはいないんだね」
シラルドが、あかりの屈託のない笑顔を思い出すように寂しそうに呟くと、千代は寂しさを湛えつつも、どこか誇らしげに優しく頷いた。
「はい。彼女は、自分が本来生きるべき100年後の未来へと帰っていきました。それと同時に、あの時私たちが授かっていた、世界を救うための不思議な力もすべて消え去りました。これからは、奇跡の力や魔法に甘えるのではなく、私たちは自分の足で、人間の知力で歩んでいかなければなりません。……だからこそ、私はこの世界の仕組みを根本から解き明かすために、社会学を修めにここへ来たのです」
千代の、少しのブレもない真っ直ぐな瞳。それを見つめていたシラルドは、ふっと力なく視線を落とすと、深く、苦渋に満ちた表情でその丸い肩を落とした。
「君たちには……ずっと、深くお詫びしなければならないと、胸を痛めていたんだ。あの日、君たちが懸命に未来の悪魔の兵器を止めてくれたというのに……。結局、ロビンは大統領からの絶対的な厳命に抗えず、再び兵器の開発室へと戻り、それを完成させてしまった。世界は結局、私たちの手によって『核』という制御不能の怪物を受け入れてしまったんだ。君たちのあの尊い努力を思うと、私は……科学者として、己の無力さと罪深さに押しつぶされそうになる」
世界を正しい平和へ導くために、あの日、歴史を変えたはずだった。しかし、国家という巨大な狂気のシステムは、個人の意志など容易く飲み込み、結局は同じように恐ろしい絶対的な破壊兵器を求めてしまった。科学の進歩が人類を滅ぼす引き金になるという矛盾に苛まれ、絶望の淵にいるシラルド。そんな彼に、千代はそっと、優しく首を振った。
「先生。アップルハイム先生も、決して悪意でそれを作ったのではないはずです。きっと最後まで、国家の重圧の中で深く、深く悩まれたのだと思います。……国家のシステムや、そこに生きる人々の意識そのものが変わらなければ、人間というものは結局、何度でも同じ過ち、同じ恐ろしい選択を繰り返してしまう。私はアメリカに来て、その構造の恐ろしさを痛いほど学びました」
千代はベンチから静かに立ち上がり、シラルドの目を真っ直ぐに見据えた。その佇まいには、かつて守られるだけだった少女の影はなく、一人の気高き学徒としてのオーラが宿っていた。
「でも、先生。私はそれが世界のすべてだとは思いません。絶望する必要なんて、どこにもないのです。……現に、見てください。本来の歴史なら戦争に敗れ、焦土と化していたはずの日本から、私がこうして生きて海を渡り、今、この国で新しい未来の形を学んでいます。私たちの選択によって、少なくともあの最悪の破滅のシナリオは書き換わった。それが、あの夜の私たちの選択が『すべて無駄ではなかった』という、何よりの動かぬ証明ですから」
千代の言葉は、単なる感情的な慰めや気休めではなかった。社会の光と影を冷徹に見つめ、それでもなお人間の可能性を信じようとする、社会学者としての冷静で、地についた力強い「希望のロジック」だった。
シラルドは、脳天を打たれたようにハッとして目を見開いた。千代の瞳の奥にある、あの頃から変わらぬ揺るぎない魂の光。それを見つめているうちに、天才科学者の凍りついていた心がゆっくりと融解していく。やがて彼の顔に、かつて千代たちに見せてくれたような、穏やかで理知的な微笑みが戻ってきた。
「……はは、一本取られたな。君にそう言ってもらえれば、私の不甲斐ない心の荷物も、少し軽くなるよ。やはり君たちはいつも、私が見失いかける最も大切なことを気付かせてくれる」
シラルドは深く息を吸い込み、どこか晴れ晴れとした顔で立ち上がると、ふと手元の懐中時計に目を落とした。そして、「ああ、いけない」と困ったように目元を細めた。
「本当は君と、朝まででも語り合いたいところなのだが……残念なことに、これから次の研究機関との打合せに向かわねばならなくてね。約束の時間が迫っているんだ」
「まあ……そうだったのですね。お忙しい中、引き止めてしまってすみません」
「いや、君とまた会えて本当に良かった…。君と再会できたこの時間は、どんな重要な研究会議よりも私にとって価値のあるものだったよ」
シラルドは名残惜しそうに遠くを眺めながら、並木道の脇に停めてあった一台の古い黒塗りの車へと、千代と並んでゆっくり歩を進めた。
車のドアに手をかけ、出発の前に窓を大きく開けると、彼は上着のポケットから一枚の丁寧な名刺を取り出し、千代へと手渡した。
「この広大な異国での生活だ、まだ言葉や習慣で困ることも多いだろう。何かあったらいつでも、どんな小さなことでも私を頼って連絡してくれ。私は、君たちが紡ぐこれからの未来を、いつでも心から応援しているよ。……未来の社会学者さん」
「ありがとうございます、シラルド先生。あなたにいただいた知恵を、私は絶対に無駄にしません。どうか、お元気で」
エンジンが静かにかかり、ゆっくりと動き出した車を見送りながら、千代は秋風に髪を揺らし、その姿が完全に見えなくなるまで、何度も、何度も手を振り続けた。
車窓の向こうで、シラルドもまた、何度も千代に向かって手を振っていた。去り行くその背中を見送りながら、千代は、彼がこれからどのような人生の後半戦を歩むのか、この時はまだ知る由もなかった。
だが後に彼は、核兵器という怪物から人類を守るため、物理学の世界から「生物の命を救う学問(生物物理学)」へと劇的な転身を遂げ、科学の知性を平和のために結びつける運動に、その生涯のすべてを捧げることになる。あの高潔な科学者の魂の転換点には、間違いなく、このキャンパスで交わした東洋の少女との、短くも濃密な再会があったのだ。
(先生。私たちは、人間は、絶対に諦めません。あなたが、そして多くの人たちが命がけで繋いでくれたこの世界を、今度は私たちの世代の力で、もっと優しく、もっとまっとうにしてみせます)
抜けるように高い秋の澄んだ青空を見上げながら、千代は胸の中で、そっとあかりの笑顔を思い浮かべる。そして、自分が持ち帰るべき日本の未来への誓いを、より一層強く、深くその胸に刻み込むのだった。