様々な学びを得てアメリカから帰国した千代は、日本の大学院へと進学し、さらに学問を深める道を選んでいた。
けれど、研究室にこもって文献と格闘する日々を本格的に始める前に、彼女にはどうしても訪れなければならない場所があった。
風に揺れる木々の葉が、カサカサと乾いた静かな擦れ合いの音を立てている。千代は、都心の喧騒から少し離れた、格式ある寺院の墓所へと足を運んでいた。
その日は、かつて日本を破滅の未来から救うために冷徹なまでの策謀を巡らせ、数年前に表舞台から去ったまま、人知れず静かにこの世を去った男――永守の命日だった。
「……永守さん。来るのが遅くなって、ごめんなさい。国を出る時も、帰ってきた今も……いままでのお礼を、ちゃんと言えないままでした」
幾重にも墓石が立ち並ぶ、影の落ちた細い小道を通り抜け、ようやく辿り着いた永守の墓所。その光景を目にした千代は、小さく目を見開いた。
墓石の前には、すでに色鮮やかで瑞々しい真新しい花が供えられ、すうっと細く白い煙を上げる線香が立てられていたのだ。かすかに漂う白檀の甘く厳かな香りが、秋の冷たい空気に乗って、静かに千代の鼻腔をくすぐる。
「驚いたな。君も来ていたのか」
不意に、背後から低く落ち着いた声がかけられた。
驚いて千代が勢いよく振り返ると、そこには見覚えのある二人の男が佇んでいた。
米田と本山だった。
かつての永守と同じく、日本の進路を巡る数々の修羅場を、命を賭して潜り抜けた男たちである。かつて身にまとっていた威圧感のある軍服ではなく、今は仕立ての良い上質な背広を着こなしている。二人の佇まいには、激動の時代が過ぎ去ったという時の移り変わりと、それぞれの新しい場所で今の日本を根底から支えている、大人の頼もしい落ち着きが漂っていた。
「米田さん、本山さん……! ご無沙汰しております」
「留学から帰ってきたのだね。風の噂に聞いていたよ。今は東京で、大学院で学んでいるそうじゃないか」
本山がふっと目元を和らげ、まるで我が子を迎えるような温かい眼差しを千代に向ける。自分たちの苛烈な戦いを陰から健気に支えてくれた少女が、無事に異国の地から戻り、こうして立派に自分の足で歩んでいることが、心底嬉しいようだった。
「はい。永守さんや岡谷閣下、皆さんが繋いでくださったチャンスですから。無駄にはできません。……あの、このお線香は、お二人が手向けられたのですか?」
千代の純粋な問いに、米田は一瞬だけ墓石の文字に視線を落とし、それから優しく、どこか諦めに似た苦笑を浮かべて首を振った。
「いや、我々ではないよ。……我々がここに到着したときには、既にこうして煙が上がっていた。ただ、この足跡の主には心当たりがあってね。……きっと、あいつさ」
米田の視線の先、乾いた土に残る深い靴跡を見て、千代の脳裏に一人の厳格な軍人の姿が鮮明に浮かび上がった。かつて理想のすれ違いから永守とたびたび激しく衝突し、しかし根底では同じ「国を守る」という大義のために命を燃やした男、小田。
いまや軍という組織は再編が進み、時代の濁流の中で表舞台から姿を消しつつある彼もまた、人目を忍ぶようにして、かつての好敵手の命日にこの場所を訪れていたのだろう。
平和主義者になりきれず、不器用にしか生きられなかった男たちの、彼らにしか分からない無骨な絆の形が、今も確かにそこに息づいていた。
「さあ、我々も手を合わせよう。彼も、君に会えて喜んでいるはずだ」
本山の穏やかな促しに、千代は深く頷いた。三人で静かに永守の墓前に並び、新しく線香を束ねて火を灯す。揺れる炎を消し、香炉へと立てて、三人は深く頭を下げた。
静寂の中、合わされた千代の手の中で、数珠の木珠がチリ、と小さく乾いた音を立てた。
(永守さん。世界は、あなたが命がけで守ったあの夜の後も、相変わらず不完全で、日々新しい争いの種が生まれています。アメリカで見てきた世界も、決して綺麗なことばかりではありませんでした。綺麗事だけでは救えない現実を、何度も突きつけられました。プリキュアの力を持たない、ただの人間である私には、世界を一瞬でパッと変えるような奇跡なんて起こせません。……だけど)
千代はきゅっと目を閉じ、胸の奥底で、灯火のように熱い誓いを刻み込んだ。
(私は、あかりが待つ未来のために、私の学問で、私の人生をしっかりと生ききります。誰かの犠牲の上に成り立つ平和ではなく、一人一人が自分の足で、自分の意志で歩める社会の仕組みを、今度は私が作ってみせます。……だから、見守っていてください。本当に、ありがとうございました)
ゆっくりと目を開けると、秋の柔らかな木漏れ日に照らされた墓石の文字が、心なしか穏やかに千代の決意を見守っているように見えた。
あれほど激しく、冷徹に、国の命運という巨大なチェス盤を動かしていた永守が、今はこうして、誰に邪魔されることもなく静かに眠っている。
千代の胸に、かつての激動の日々を想う切ない寂しさと、それ以上の、彼がようやく安息を得られたのだという深い安堵が広がっていった。
先人たちの、血を流すような戦いは、ここで静かに眠りについている。ならばここから先は、自分たちの世代が知恵を絞り、汗を流す戦いだ。
「さて、私たちはこれから少し、近くの店で昔話をしながらお茶でもしていくつもりだが、千代さんもどうだい? 積もる話もある」
本山の優しい誘いに、千代は胸を温めながらも、小さく、しかし毅然と微笑んだ。
「お誘いいただき、本当にありがとうございます。ですが……これから、すぐに大学院の研究室に戻る約束があるのです。……あかりの待つ未来を、一刻も早く、どうしても形にしたいものですから」
千代の目に宿る強い光を見て、米田と本山は互いに顔を見合わせ、満足そうに頷いた。
「そうか。ならば引き止めまい。あかりさんによろしく伝えてくれ。……いや、違ったな」
米田がかつて見せたことのないような、少し悪戯っぽく、それでいてこの上なく優しい笑みを浮かべて、千代の背中を押し出すように言った。
「彼女のいる未来によろしく、だったな」
「はい!」
千代は満面の笑みで答え、永守の墓所に最後にもう一礼した。
寺院の格式ある山門をくぐり、一歩を踏み出した千代の足取りは、秋の澄んだ風をまとい、さっきよりもずっと軽やかに、そして力強く未来へと向かっていた。