大学院へと進んだ千代は卒業後、そのまま大学の助手として働き、研究室にこもる日々を送っていた。
アメリカで浴びた最先端の社会学。人間を、社会を、システムから変えなければ、またいつかあの破滅がやってくる。千代の胸には、焦燥感にも似た情熱が渦巻いていた。
「旧来の家族観や規範の良さも尊重しながら、国家による福祉のシステムを整える……。誰もがもっと多くの選択肢を持てる社会。これを実証しなければ、現実を動かしている上層部の方々には納得してもらえない。でも、どうすれば……」
千代の「思想」はあまりにも時代を先取りしすぎていた。保守的な教授陣からは「現実を知らない理想論」と受け流され、何より、千代自身も自分の理想をどうやって「客観的な事実」として証明すればいいのか、暗礁に乗り上げていた。
そんなある日、軍を退役して新制中学校の数学教師となった兄・創が、大学の研究室に一人の男を連れてきた。
「千代、お前が『数字で社会を証明したい』って頭を抱えてるからさ。俺の教員仲間のツテで、一応、数学や統計を専門にしてる奴を連れてきたぞ。……まあ、まだペーペーの助手なんだが」
「お兄さん、本当ですか!?」
千代は目を輝かせて振り返った。あかりの教科書にあった、あの整然とした未来のデータを処理するような、理知的で隙のない数学者を想像して――。
しかし、そこに立っていた男を見て、千代は思わず言葉を失った。
「……あー。初めまして、立花さん。菱元、拓実、です」
ボソボソとした、蚊の鳴くような声。
針金のように痩せた体に、どこで買ったのか分からないほどサイズが合っていない、だらりとしたシャツと袴。度の強い丸メガネの奥の目は眠そうで、顎には剃り残した無精髭がうっすらと生えている。お世辞にも「時代の最先端を行く学者」には見えなかった。
(……本当に、大丈夫かしら、この人)
千代の顔に、あからさまな不安が浮かぶ。創は「まあ、見た目はアレだけどな」と苦笑いしているが、菱元は千代の視線など気にする風でもなく、研究室の机に雑然と積まれた千代の論文の束に、勝手に手を伸ばした。
「おい、菱元、失礼だぞ」という創の制止も耳に入らない様子で、菱元は不気味なほど素早い動作でページをめくっていく。
「……んん。これは面白いんだけどねぇ。」
不意に、菱元がぼんやりと呟いた。
「な、何かあるんですか?」
千代の眉が跳ね上がる。
菱元はメガネのブリッジをくいと上げ、千代を真っ向から見据えた。その瞳だけが、チラリと光ったように見えた。
「君の言っている『福祉』というのは、ただの慈善事業の焼き直しに見えちゃう気がするなぁ。国費をドブに捨てるのかと突っ込まれちゃうんじゃないかな。人間が、どれだけの生活水準にあれば、どれだけ生産性を上げるのか。この『理想』を、合理的な『コストとリターン』の計算式に落とし込んでいないのが惜しいよねぇ。これじゃあ、現実主義者の偉い方たちには、なかなか通じないんじゃないかなぁ」
千代は息を呑んだ。
この男、見た目は完全に冴えない風来坊なのに、千代が対話しようとしている相手の「本質」を、見抜いているように思えた。
「……じゃあ、どうすればいいの」
千代の声から、先ほどの侮りが消えていた。
菱元はだらしなく笑うと、懐からすり切れたノートと鉛筆を取り出し、千代の論文の余白に、素早く数式とグラフを書き殴り始めた。……が、あまりに独特な書き方で、正直言って読みにくい。
「君の思想は悪くない気はしているよ。むしろ、この国が生き残るための唯一の正解だったりしてね。だったら、僕がその『銃』に、統計学や数理モデルという名の『弾丸』を込めてあげるなんてできるかもしれないなぁ。お爺さんたちをうならせる、納得感のあるデータを渡してね」
独特な字で書かれた数式は、千代の頭の中にある「ぼんやりとした理想の社会構造」を、今までになく鮮やかに、論理的に裏付けられるのではないかと思わせた。
千代は自分の胸が、あのプリキュアとして戦っていた時と同じように、熱く高鳴るのを感じた。
「菱元さん。……ご協力いただけるんですよね。私が今考えていることをお話ししてもよろしいですか?」
「あ、ちょっと待って。僕、お腹空いてるんで、まずは学食で芋でも食べてきていいっすか」
こうして、のちに日本の戦後社会福祉の基礎に影響を与えることになる、若き二人の「風変わりな戦い」が幕を開けたのである。
◇
あの奇妙な出会いから数日。立花千代と菱元拓実の共同研究は、静かに、しかし確実にはじまっていた。
「資料がまとまったら、僕の研究室に届けてほしいなぁ」
別れ際に拓実からそう言われていた千代は、アメリカで得た知見と、日本で集められる限りの社会統計データを精一杯にまとめ上げ、彼が助手を務める数理学の教授の研究室を訪ねていた。
コンコン、と控えめに扉をノックすると、中から恰幅の良い、穏やかな初老の教授が顔を出した。
「おや、君は……立花さんかね? 菱元から話は伺っているよ。彼は中にいるから、さあ、案内しよう」
「先生、はじめまして。立花千代と申します。この度は、菱元さんに急なお願いを快くお引き受けいただき、本当にありがとうございます」
千代が丁寧に頭を下げると、教授は眼鏡の奥の目を細め、まじまじと千代の姿を見つめた。その視線に気づき、千代は小首を傾げる。
「……あの、先生。何か私の身なりにおかしなところでもございましたでしょうか?」
「いや、失礼。まさかあの菱元に、君のようなしっかりとしたお嬢さんが訪ねてくるとは思わなくてね」
「はあ……。私は社会学が専門で、数理の分野には疎いですし、まだまだ若輩で。学内外の研究者の方々の知り合いも少ないもので、兄の縁を頼るほかなく……」
「いやいや、そういう専門や人脈の話をしているわけではないんだがね……」
教授は「やれやれ」と苦笑いしている。千代がその真意を測りかねていると、教授の背後から、ぬっとだらしない影が現れた。
「あー、立花さんですか。資料、持ってきてくれたんですね」
度の強い丸メガネをくいと上げながら現れた拓実は、今日もどこか眠そうだった。
「はい、こちらに用意してきました」
「じゃ、こっちの僕の机でやりましょうか」
拓実の後を追って、千代は研究室の奥へと進む。――だが、彼のデスクの前に立った瞬間、千代の思考は完全に停止した。そこは、千代にとって「混乱の極み」でしかなかったからだ。
椅子の周囲には、まるで城壁か何かのように古びた専門書がうず高く積まれている。机の上は、数式やグラフが殴り書きされた無数のメモ用紙が、地層のように重なり合って乱雑に散らばっていた。ペン立てからはみ出た鉛筆、使い古された消しゴムのカス。
千代の生真面目な性格が、激しい警鐘を鳴らす。
「……あの、菱元さん。もしよろしければ、お片付け、手伝いましょうか?」
思わず本音が口から漏れていた。
すると、拓実は心底不思議そうに「え?」という顔をして、自分の周囲を見回した。
「片付け? いや、綺麗に片付いてるじゃないですか」
「これの……どこをどう見たら、片付いていると言うのですか?」
千代が呆然と問い詰めると、拓実はだらしないシャツの袖をまくり、大真面目な、しかしのんびりとした口調で説明を始めた。
「片付いてるんですよぉ。だって、僕がすぐ使いたい資料や本が、椅子の周り、半径一メートル以内にあるでしょ? 覚えておきたい数式やメモが、視線を動かすだけで、すぐに見れるでしょ? これ、移動と探す手間を最小限に抑える、僕なりの最適化された空間設計なんですけどなぁ」
「……」
もはや、あきれて声も出なかった。合理主義にも程がある。隣で聞いていた教授も、おでこを押さえながら深い溜息を吐いている。
「なるほど、菱元。お前のその『完璧に最適化された空間』なら、すぐにあれが出てくるわけだな?」
教授が意地悪く、拓実の机を指さした。
「じゃあ、あの資料はどこかな。先週の、私の講義で使った統計の基礎データだ」
拓実は「ええと、先週の……」と呟き、椅子の周りの本の山を崩さないように器用に体をよじり、地層のようなメモ用紙の束をガサゴソとあさり始めた。
だが、3分ほど探しても一向に見つかる気配がない。拓実は不意に探すのをやめると、頭をポリポリと掻きながら、悪びれもせずに言った。
「すんません先生。もう使わないと思って、どこに置いたか忘れました」
「やっぱりそうじゃないか!」
教授の鋭い突っ込みが飛ぶ。
(……やっぱり。本当に、本当にこの人で大丈夫かしら……)
千代はあまりの脱力感に、目の前がぐるぐると回るような眩暈(めまい)を覚えていた。アメリカの最先端の知性に触れ、永守の墓前で「私の学問で社会を変える」と固く誓ったはずなのに、まさかその第一歩が、この忘れん坊のやせメガネの男に預けられることになるとは。
「まあ、立花さん。彼の頭脳だけは本物だから、そこだけは信じてやっておくれ」
教授が同情を込めた声で声をかけてくれる。
「は、はい……」
千代はなんとか気力を振り絞り、カバンから持参した資料を取り出した。
「菱元さん。これが、私の集めたデータです。……どうか、よろしくお願いします」
「お、どれどれ……」
拓実が資料を受け取り、丁寧な字で書かれた千代の文字に目を落とした。
その瞬間。
拓実は資料をめくる手を止めた。初めて、その背筋がわずかに伸びた。
「……へえ」
「……んん、これは。思っていた以上に、面白い『銃』になりそうですねぇ……」
ぽつりと呟かれたその声には、さっきまでのボケた雰囲気は一切消え失せていた。
めまいを覚えるほどの混沌の中で、千代は再び、静かに胸が高鳴るのを感じていた。この風変わりな迷宮から、自分たちの未来が始まっていくのだと、確信しながら。