外は、世界を静寂で塗りつぶすような、しめやかな雨が降っている。
ガラス窓を濡らす水滴が不規則な軌跡を描いて流れ落ちていく中、白く無機質な病室には、遮るものもなくただ優しく雨音だけが染み込んでいた。静まり返った部屋に響くのは、ベッドに横たわる老人が刻む、細く、頼りなげな呼吸の音だけだった。
かつて一国の総理として激動の濁流の先頭に立ち、そして陰ながら少女たちの尊い戦いを守り抜いた庇護者、岡谷啓示。幾多の政敵と渡り合い、国家の命運をその背に背負い続けた偉大な政治家は今、静かにその生涯の幕を閉じようとしていた。
バタン、と静寂を破ってドアが勢いよく開く。
研究者の白衣の裾を大きくなびかせ、肩を激しく上下させた千代が、息を切らせて病室へと駆け込んできた。連絡を受けてから、文字通り形振り構わず走ってきたのだろう。
「岡谷、さん……っ!」
ベッドの傍らへと飛び込んだ千代の、引き裂かれそうな声。
岡谷は、薬のせいで重くなった瞼をゆっくりと持ち上げた。微かに濁り、掠れた瞳が千代の姿を捉えた瞬間、その厳格だった顔に、驚くほど優しく、穏やかな微笑みが浮かんだ。
千代は深く頭を下げ、白衣の胸元を握りしめながら声を震わせる。
「……来るのが遅れて、申し訳ありません……っ。もっと、早くに……っ」
「ああ……千代さん、か。……よく、来てくれたね……。随分と、立派に……なったなぁ……」
その声はかすれ、消え入りそうなほど微かだった。しかし、そこにはかつて国会を震撼させた最高権力者の威圧感などは微塵もなく、ただ一人の少女の成長を心から喜ぶ、父親のような無償の温かさに満ちていた。
千代は堪えきれずにベッドの横へと膝をつき、白いシーツの上に置かれた、かつてより何倍も細く、衰えてしまった岡谷の手を、こぼれ落ちる砂をかき集めるようにそっと両手で握りしめた。
「岡谷さん……今まで、本当に、本当にありがとうございました……。あかりのこと、私のアメリカ留学のこと。何から何まで、あなたが道を照らし、助けてくださった……。あなたがいなければ、今の私はありません……! 私の人生は、あなたが繋いでくださったものなんです……!」
溢れそうになる涙を必死に堪え、感謝を口にする千代。そんな彼女を愛おしそうに見つめながら、岡谷は繋がれた手を微かに動かし、ゆっくりと首を横に振った。
「いや……それは違うよ、千代さん。お礼を言うべきなのは……私のほうなんだ」
「え……?」
千代が涙で潤んだ目を瞬かせる。
岡谷は視線を天井へと彷徨わせ、遠い目をした。その瞳の奥には、彼がその生涯で最も愛した、懐かしいあの日のみずみずしい光景が広がっているようだった。彼は記憶の糸を手繰り寄せるように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……あかりさんが私の家にやってきて、まだ間もない頃のことだったな。……君たち二人で、庭の、大掃除をしていただろう」
千代の目が見開かれる。脳裏に、あの庭の草花の匂いと、あかりの弾けるような笑顔が鮮烈に蘇る。
「……一日中、あちこち掃除して…箒を振り回して……へとへとになってね。最後には二人で並んで、庭の片隅の木の下で、泥だらけのままぐっすりと眠っていた。……覚えているかい?」
「……っ! ご、ご覧になられていたのですか!?」
千代の頬が、羞恥と驚きで一瞬にして赤く染まる。涙のなかに戸惑いをにじませながら、千代はうつむいた。
「恥ずかしい……。あかりと二人で、汗と埃まみれになって、あんな姿を……」
「ふふ……、ふふふ……」
岡谷の胸が小さく上下し、低く、本当に楽しそうな笑い声が漏れた。
「私はね、縁側から君たち二人の姿を見ていたのさ。誰にも邪魔されない、最高の特等席からね。……そして、あの姿を見た時、私は深く、深く悟ったんだよ」
岡谷の瞳に、かつて一国を背負って戦い抜いた孤高の政治家としての、しかし同時に、最も純粋で揺るぎない「光」が宿った。
「連日、大人たちが重苦しい現実と、明日の見えない不安に押し潰されそうになっていた。誰もが疑心暗鬼になり、顔を曇らせていたあの時代に……君たちは前向きに、ただ明日を良くするために泥まみれになって汗を流し、そして、何の疑いもなく安心して眠っていた。……私はね、その寝顔を見て、心の底から救われたんだ」
千代の手を包む岡谷の手が、弱々しく、しかし確かな意思を持ってギュッと握り返される。老人の乾いた手の温もりが、千代の肌へと伝わってくる。
「『ああ、これだ』と。……国家だの、大義だの、難しい理屈はどうでもいい。我々大人が、政治が、命をかけて守るべきものは……あかりさんと君の、あの無垢な寝顔そのものなんだと。一生懸命に今日を頑張った子供らが、何の心配もなく、明日を信じて安心して眠れる世の中にしなきゃならん。……私はね、あの日、君たちの寝顔を見た瞬間から、一歩も迷わなくなった。何のためにこの命を擦り減らし、国を守るのかをね」
千代の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、岡谷の手を濡らしていく。
「だから……やはりお礼を言うのは、私のほうだ。千代さん、君たちが私に、最後まで戦い抜く勇気をくれたんだよ。……本当に、ありがとう……。私の人生を、意味のあるものにしてくれて……」
「岡谷さん……! 岡谷さん……っ!」
千代はもう、溢れる涙を止めることができなかった。岡谷の手を両手で包み込み、子供のように声を上げて号泣した。その涙は、去りゆく偉大な恩人への、言葉にならない感謝と深い哀悼の証明だった。
窓の外の雨の音が、世界の雑音をすべて消し去るように、優しく、どこまでも優しく病室を包み込んでいく。
岡谷は千代の泣き声と、その手の温もりをその身に受けながら、まるで大仕事を終えた父親が安堵したかのように、満足そうな笑みを湛えたまま、静かに、深く眠りについた。
千代はただ、その偉大な背中が残していってくれた温もりと、託された未来の重みを抱きしめるように、いつまでも、いつまでも涙を流し続けた。
(ほどなくして、日本の激動期を支えた巨星・岡谷啓示はこの世を去る。しかし彼が遺した「子供たちが安心して眠れる世界」への祈りは、千代という確かな希望へと引き継がれていった)