「混乱の極み」と称され、足の踏み場もなかった数理学の研究室は、今や立花千代と菱元拓実による「共同戦線」の秘密基地へと見事な変貌を遂げていた。
「さすがに、目の前に本の山が聳え立っていると、菱元さんの顔すら見えなくて議論に集中できません! 思考のノイズです!」という千代の猛抗議(という名の、問答無用かつ強制的な大掃除)が執行された結果である。
拓実のデスク周辺は、現在、千代がギリギリ眉をひそめずに済む程度の「妥協ライン」を保っていた。椅子の周囲を囲んでいた、今にも崩壊しそうだった「本の城壁」は半分ほどの高さに剪定され、地層のように重なり合っていた手書きのメモ用紙は、項目・年代ごとに美しく色分けされてファイリングされている。
そんな整理された空間で、二人の研究は驚くほどの化学反応を見せていた。
千代がアメリカで肌に触れて得た最先端の知見を元に、社会福祉の「思想と骨組み」を設計し、必要な歴史的資料や仮説を提供する。それを拓実が、まるで精緻な機械のような凄まじい速度で数式へと落とし込み、千代の打ち立てた人道的な仮説が、数理統計学的に本当に成立するのか否かを冷徹に検証していく。
当然、最初からすべてが綺麗に噛み合うわけではない。むしろ、ぶつかり合うことの方が多かった。
「んん〜、千代さん。この予測シミュレーション結果、君が声高に主張している仮説から、ちょっと右にズレちゃう気がするなぁ。ここの地域データ、隠れた『別の因子』が混ざり込んでノイズになってるんじゃない?」
「……本当ですね。重回帰分析の変数を見落としていました。では、ここの年齢層の実際の就労率と生活水準をもう一度精査して、論理の骨組みを再構築します!」
仮説を立てては分析し、矛盾が見つかれば一度壊して、また一から組み立て直す。
それは気の遠くなるような、果てしない螺旋の階段を上るような地道な作業だった。けれど、徹夜の明けた薄明るい朝、窓から差し込む朝焼けの中で、拓実の導き出した複雑な数式と、千代の思い描く「誰もが救われる社会の理想」がパズルの一片のようにピタリと一致したとき、二人の肌にゾワリと鳥肌が立つような、言葉にできない充実感が確かにそこにはあった。
それにしても――と、千代はふと万年筆を動かす手を止め、隣の男を横目で盗み見た。
ボリボリ、もぐもぐ、カリカリ。
拓実が研究の合間に口へ放り込んでいるのは、ある時は干からびた干し芋、ある時は煎り豆や小魚の煮干し。ひどい時には、どこから調達してきたのか、丸ごとのキュウリに赤味噌を直接つけただけのものを、今にも寝落ちしそうな半眼でかじっている。
「……菱元さん。お言葉ですが、もう少し、人間らしい温かくて栄養のあるものを召し上がったらどうですか? 脳の栄養が足りていないのではと心配になります」
「え? いや、だってこれ、面倒な火の調理をしなくてもそのまま、片手で食べられるでしょ? 顎をこうしてせっせと動かして噛んでる間はね、脳の血流が上がって活性化する気がするんですよねぇ。合理性の極みです」
「はあ、そうですか……。お野菜をそのままかじるのが、合理的、ですか……」
千代はまたしてもこめかみを押さえて頭痛を覚えたが、どれだけ呆れても、彼の圧倒的な計算力と冷徹な分析能力の前には、最終的に沈黙するしかなかった。
拓実の引くミリ単位の狂いもない数式は、千代の頭の中にある「誰もが自分の足で歩める、選択肢の多い優しい未来」という、一見するとただの夢物語に見える思想を、一分の隙もない論理の盾で守ってくれていた。彼は千代の「理想の矢」を、決して叩き落とされない強固な武器へと研ぎ澄ましてくれる存在だった。
二人がこうして机を並べて、数式と社会学の融合に没頭し始めてから、気づけば半年以上の月日が流れていた。
木々の葉が青々と茂り、集まった膨大なデータに確かな「手応え」と「確信」を抱き始めていた頃、数理学研究室を統括する老教授から、千代にとって願ってもない、千載一遇の提案が舞い込んだ。
「立花さん、それから菱元。近々、我が学部内での定例研究発表の場があるんだがね。そこで、君たちが今進めているこの『社会福祉思想と統計学の融合研究』を、中間報告として披露してみないかね? 学界にとっても、非常に面白い視点だと思うんだ」
「――はい! もちろん、喜んでやらせてください!」
教授の言葉が終わるか終わらないかのうちに、千代は目を輝かせ、膝の上でぎゅっと両拳を握りしめた。
アメリカの地で、東洋人の女学生だからとまともに議論すら聞いてもらえなかった、あの身を切るような悔しさ。日本に戻り、永守の墓前や岡谷の病室で「未来を作る」と誓ったあの決意。
自分の掲げる思想が、決して「若い女助手の甘い理想論」などで終わるものではなく、これからの新しい日本を、人々を救うための「本物の政策」になり得るのだと、まずはこの大学の気難しい学者たちに証明する、これ以上ない絶好の舞台だった。
メラメラと静かな情熱の炎を燃やす千代の横で、拓実だけはいつもと変わらず、丸メガネの奥の眠そうな目を少し細め、のんびりとした、しかし極めて冷静なトーンで釘を刺した。
「んん〜、千代さん。燃え上がる気持ちはとってもよく分かるんだけどねぇ。僕の感覚だと、まだ検証のためのサンプル数が少し心許ない気がするなぁ。もう少し時間をかけて資料を徹底的に精査して、頭の固いお爺さん教授たちがどこから、どんな重箱の隅をつつくような質問をしてきても大丈夫なように、完璧な裏付けを固めてからの方が安全じゃないかなぁ」
「大丈夫です、菱元さん! この半年の間に、私たちはそれこそ倒れる一歩手前まで検証を繰り返してきたんです。今の段階でも、頑迷な大人たちをぐうの音も出ないほど納得させられるだけの論理とデータは、もう十分に揃っています!」
千代の瞳には、一切の迷いがない、真っ直ぐな光が宿っていた。
「そう……? 君がそこまで言うなら、いいんだけどねぇ」
拓実はそれ以上、千代の勢いを無理に止めようとはしなかった。「じゃ、僕も発表用のグラフと数式の清書、手伝いますかねぇ」と、干し芋をモグモグと不器用に咀嚼しながら、すでに手元で計算用紙をめくり始めている。口は悪いが、彼はいつだって千代の決意を一番近くで支えてくれていた。
それからの千代の集中力は、まさに鬼気迫るものがあった。
少しでも完璧な、誰にも文句を言わせない発表にするため、研究室のソファで仮眠を取るだけの生活を送り、寝る間を惜しんで発表用の分厚いレジュメを急ピッチで仕上げていく。
疲労で意識が朦朧としかけるたび、かつてあかりが千代の手を握って、弾けるような笑顔で言ってくれた「千代なら、大丈夫!」というあの無敵の言葉が、今の千代の背中を、これでもかと強く、温かく押し続けてくれた。
そして、ついに。
学内の高名な教授陣や、鋭い審美眼を持つ研究者たちがずらりと席を並べ、冷ややかな視線を送る、学部内研究発表の当日を迎えるのだった。