「僕は人前で喋るの、本当に苦手ですから。注目を浴びると蕁麻疹が出そうになる。というわけで、千代さん、一人で発表のほうはお願いしますねぇ」
直前になってそう言って、いつも通り丸めた背中で隅に引っ込んでしまった拓実を恨む暇もなく、千代は今、張り詰めた重苦しい空気が流れる大講義室の壇上に、ぽつんと一人で立っていた。
時は昭和20年代。女性が大学で研究を続け、ましてや教壇に立って独自の理論を発表すること自体が、世間的にも学界においても極めて異例な時代である。
すり鉢状になった広い講義室にずらりと並ぶ、煤けた黒い背広をまとった教授陣や、威圧的な視線を向ける男子学生たち。そこから放たれるのは、あからさまな好奇の眼差しや、「女性の学問ごっこ」と侮るような、冷ややかな値踏みの視線ばかりだった。それらが容赦なく、壇上の千代へと突き刺さる。
千代は緊張で冷たくなった手で、ポケットの中にある「あかりの筆箱」をそっと強く握りしめた。指先から、あかりの無邪気な笑顔と、あの「大丈夫!」という温かい声が流れ込んでくるような気がした。
千代は凛と顎を引き、深く息を吸い込んで、毅然とした声で話し始めた。
テーマは『埋もれた人材の活用について』。
日本が重んじてきた伝統的な家族観や美徳を尊重しつつも、それに縛られることなく、誰もが人生の選択肢を奪われずに能力を発揮し、働ける社会の仕組み。アメリカの留学先で見てきた最先端の福祉の光と、取り残された人々の影。そして、逆境から立ち上がるこれからの日本に必要な「新しい福祉」の理想論。
当然、大陸撤退後の傷跡が色濃く残る日本の実情とはあまりにも乖離した進歩的な内容に、客席からはざわざわと不穏で懐疑的な私語が漏れ聞こえてくる。だが、それらはすべて想定の範囲内だった。
千代の背後にそびえる大きな黒板には、この半年の間、拓実と共に頭を突き合わせ、泥をすするような思いで緻密に弾き出してきた確率統計の数式やグラフが、整然と並んでいる。
ただの夢物語ではない。数字という、誰にも歪められない冷徹な盾が、千代の思想の正しさを完璧に裏付けていた。
「――以上で、私の方からの報告を終わります。ご質問、ご意見があればお受けいたします」
一息つき、千代は周囲を見渡した。
予測していた通り、すぐさま手厳しい、怒号に近い批判が相次いで浴びせられる。
「あまりにも現実を無視した夢物語だ!」「計算の辻褄が合うだけで、生身の人間はそんな機械のようには動かない!」「そんな制度を作れば、国を支える家庭の美徳や形が壊れてしまうのではないか!」
千代は引き締まった表情を崩さず、拓実と何度も重ねた分析結果を基に、毅然と言葉を返し続けた。感情的な反論には、冷静な数字と論理で返す。そのために、あの風変わりな数学者と日々議論を戦わせてきたのだ。
しかし――。
最前列の中央に座る、学界の重鎮であり、数々の国家政策にも関わってきた老教授が、ゆっくりと手を挙げて口を開いた瞬間、会場の空気は一瞬で氷結した。
「ま、考え方自体は悪くない。女性の発表としては、大したものだ。……だがね、これでは実際の社会では、一銭の役にも立てんよ」
心臓を直接握られたかのように、千代の顔が引きつった。
老教授の言葉には、先ほどの若手研究者たちのような感情的な敵意や見下しは一切なかった。だからこそ、そこにはどこまでも静かで、重く、逃げ場のない「知性」の圧倒的な説得力があった。
「君は多数の一次資料を基に分析したという。確かに、女性一人でこれだけのデータを集め、処理するのは並大抵の苦労ではなかったろう。その努力と情熱は認めよう。だがね……」
老教授は手元の資料の、とある一ページを人差し指でトントンと叩いた。
「たとえば、この中にある『A町』の自治体の生活困窮率に関する資料だ。確かに君たちの引いた数式上、数字としては寸分の狂いもない。だがね、同じA町の中でも、駅周辺の拓けた市街地と、道も舗装されていない険しい山間部では、住民の生活様式も、困窮の度合いも、望む生き方も全く異なる。にもかかわらず、君たちのデータはそれらをすべて『A町』という一つの平均値として一括りに丸めてしまっている。格差や分断を減らしたい、人々の選択肢を増やしたいという君の高潔な願いは素晴らしいが……これでは、分析している君たち自身が、現場に確かにある個人の本当の『差』と『痛み』を、都合よく無視していることにならないかね?」
「それは……」
千代の喉が、引き絞られたように詰まった。
「こういう社会の設計というのは、最初の条件設定が極めて重要なんだよ。恣意的なデータ操作だとは言わないが、自分たちの『こうあってほしい』という綺麗な願望に沿って甘く設計した仕組みを無理に社会に適用して、後で本当に困るのは誰だと思う?……そこに生きる、生身の市民だ。違うかね?」
言葉が出なかった。
頭を強い衝撃で殴られたかのような、息の止まる感覚だった。
アメリカで「善良な人々が、無自覚に他者を排除しているシステムのいびつさ」に憤り、社会の構造を自らの手で解き明かすと誓ったはずなのに。自分自身が、いつの間にか研究室の机の上で弾き出した「綺麗な数字」だけに囚われ、山間部でその日を必死に生きる人々の本当の暮らしを、「見落として」しまっていたのだ。
「ま、これはまだ、学問としては未完成以前、というところかな。……だが、視点は非常に面白い。大いに精進したまえ」
「……ありがとうございました」
千代は消え入りそうな、絞り出すような声でそう言うと、深く、深く頭を下げた。
パラパラと、同情の混ざったまばらな拍手が響く講義室。壇上から降りる千代の膝は、経験したことのない悔しさと自己嫌悪で、小刻みに震えていた。
講義室の壁際で待っていた拓実は、いつもの眠そうな目を完全に消し、今まで見せたこともないほど固く、険しい表情で千代を迎えた。
彼は分かっていたのだ。自分が感じていた「サンプル数が足りない」「もう少し精査を」という直感が、まさにこの「現場のグラデーションの欠落」という最大の弱点を指していたのだと。そして、それに気づきながらも、千代の勢いに押されて検証を急いでしまった自分自身の甘さにも、静かに憤っていた。
帰路につくため、重い足取りで廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「立花君」
振り返ると、先ほどの老教授が立っていた。千代は強張る身体をどうにか律して、一礼する。
「君は、本当に社会を良くしたいのだろう」
「……はい」
「ならば、机の上だけで社会を作ろうとしてはならん。紙の上の数字は、人間そのものではないのだから」
「……」
「現場へ行きなさい。泥をかぶり、風の冷たさを知り、人々の息遣いを聞くんだ。君の学問は、そこからようやく本物になる」
老教授はそれだけ言うと、静かに立ち去っていった。
悔しさと、己の未熟さ。そしてそれ以上に、自らの進むべき道を示されたことへの、熱い情熱が千代の目頭を激しく熱くさせる。
だが、千代は唇を血がにじむほど強く噛み締め、絶対に涙をこぼさなかった。ここで泣いてしまえば、それこそ自分の思想が「女の甘え」だと認めることになってしまうから。
(負けない……。まだ、ここからだ。あかりなら、きっと『こっから、こっから!』って、お腹を抱えて笑い飛ばしてくれるはずだもの……)
千代は、小さく、けれどもう誰にも解くことのできないほど固い拳を、コートのポケットの中でギュッと握りしめた。
突きつけられた冷徹な現実を血肉に変え、二人の研究は、ここからさらに血の通った、生身の人間を救うための「本物の学問」へと深化していくことになる。