チェンジヒストリープリキュア   作:RBうじざね

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『夕闇のキャンパス、魂を見抜く瞳』

研究発表会が終わり、濃密な夕闇がひたひたと包み込み始めた大学のキャンパスを、二人は並んで歩いていた。

講義室を出てからというもの、千代も拓実も、一言も言葉を発しないままだ。赤煉瓦の校舎に反射してコツコツと寂しく響く千代の靴の音だけが、急速に冷え込み始めた秋の空気の中に、虚しく吸い込まれては消えていく。

 

千代は前を向いたまま、きつく、血の気が引くほど唇を噛み締めていた。コートのポケットの中でぎゅっと拳を握りしめる両手には、まだ消えない悔しさと、己の慢心に対する憤りが生々しく滲んでいる。

 

その重苦しい沈黙の密度に耐えかねたように、隣を歩くだらしない体躯の男が、ボサボサの頭をぽりぽりと乱暴に掻きながら、意を決したように息を吐き、口を開いた。

 

「いやー……見事な、完膚なきまでの大失敗だったねぇ」

 

あまりにも直球すぎるデリカシーのない言葉に、千代はピクリと眉を跳ね上げたが、硬く強張った表情のまま、何も言い返さずにただ歩調を早めた。拓実は落ちてくる丸メガネの位置を人差し指でくい、と直しながら、いつも通りのんびりとした調子で言葉を続ける。

 

「まあ、保守的なあの講義室で、君のあの進歩的な理論が反発されること自体は、最初から想定どおりだったんだけどさぁ。それにしても、あのお爺さん教授もねぇ。もうちょっと言い方というか、優しく指摘してくれてもいいんじゃないかなぁ、なんて思っちゃったりしてねぇ」

 

「……いいえ」

 

遮るように、千代が低く、しかし驚くほど凛とした声を出した。その場にすっと足を止める。

 

「教授のご指摘は、どこまでも真っ当です。……すべては、私の未熟が招いた結果です。菱元さんにも、事前に『資料がまだ足りない』『精査が必要だ』とあれほど釘を刺されていたのに……。私は発表というチャンスを目の前にして完全に舞い上がり、自分の理想を綺麗に並べることばかりに躍起になっていました。現場で必死に生きている方々の、本当の暮らしを見落としていたのは、紛れもなく私の責任です。……菱元さんの半年の努力まで泥を塗るような真似をしてしまい、本当に、申し訳ありませんでした」

 

千代は拓実に向かって、深く、直角に頭を下げた。生真面目で、一度決めると妥協を許さない彼女は、この手痛い挫折の全責任を、すべて華奢なその背中に一人で背負い込もうとしていた。

 

拓実はそんな千代の頑なな頭頂部を見て、一瞬だけひどく困ったように眉を八の字に下げると、どうにかこの重苦しい空気を和らげようと、不器用に頬を引きつらせて笑ってみせた。

 

「いやいやいや、勘弁してくださいよぉ、頭を上げてください。これは二人でやってきた共同研究なんだから、僕だって完全に同罪、連帯責任ですよぉ。何より、千代さんを一人で冷たい壇上に立たせて、全部の弾を受けさせちゃった僕が一番悪いんですからねぇ」

 

「……」

 

「それにさ」

 

と、拓実はいつものだらしないトーンを一段落とし、少し真面目な声で囁いた。

 

「あの教授、最後の最後に『視点は非常に面白い、大いに精進したまえ』って、確かに言ってたでしょ? 意地悪な他の教授たちと違って、僕たちの研究そのものの価値は否定しなかった。だったら、ここから幾らでも、もっと強固な理論に作り直せばいいんじゃないっすかねぇ」

 

「……はい」

 

千代がゆっくりと顔を上げる。まっすぐに前を見据えたその瞳には、先ほどまでの自己嫌悪の闇は消え、挫折を力に変えて立ち上がろうとする、かつてないほどに鋭く、強い輝きが宿っていた。

 

「今度は……今度は絶対に、あんな言葉は言わせません。もっと徹底的に、現場の生きたデータをかき集めて、どんな権威でも言い逃れのできない、完璧な論理の弾丸を完成させてみせます」

 

「うん、その意気ですよ」

 

再び、二人の間に今度はどこか穏やかな沈黙が流れる。

パチ、パチ、と音を立てるようにして、キャンパスの古い鋳鉄の街灯にオレンジ色の灯火が点り始め、千代の端正な横顔を暖色に照らし出した。

その時だった。

 

「……君は、美しいね」

 

不意に、拓実の口から、吐息のようにぽつりとあまりにも突飛な言葉が零れ落ちた。

 

「……え」

 

千代は思わず目を見開いた。

あまりの衝撃に、思考が数秒間、完全に真っ白に停止する。

日頃、お世辞にも身だしなみに気を使うわけでもなく、干し芋や煮干しをボリボリとかじりながら、数式ばかりを眺めているこの風変わり極まりない数学者の口から、まさかそんな世俗的で甘い褒め言葉が出てくるなど、天地がひっくり返っても予想していなかったからだ。

 

しかし、拓実は千代の動揺など全く気にする風でもなく、ポケットに手を突っ込み、だらだらと歩調を戻しながら、まるで独り言のようにつぶやき続けた。

 

「いや、この半年、机を並べて一緒に研究しててずっと思ってたんだけどさ。君はなんか、いつもずっと、ここじゃない遠くを見ているっていうか……。他の誰も信じないような、まだ見ぬ未来をね、不思議なほどの確信をもってまっすぐに見つめて、歩こうとしている。……それが君の圧倒的な強さであり、同時に、今日みたいに足元の小石が見えなくなっちゃう脆さでもあるんだけどさ」

 

拓実はそこで一度足を止め、丸メガネの奥にある、いつもは眠そうな、しかし今は恐ろしく澄んだ理知的な瞳で、まっすぐに千代の目を見つめた。

 

「そういう、危うくて、だけどどうしようもなく真っ直ぐな魂のあり方を総じてね、僕は……これはもう『美しい』としか表現できないなぁって、思ったわけですよ。数式の調和を見た時と同じような、ね」

 

「……っ」

 

夕暮れの残光のせいだけではない、熱い血の波が、千代の耳元から頬にかけて一気に駆け上がる。

「ずっと遠くを見ている」――その言葉は、千代の胸の最も深く、誰にも触れさせない場所に隠していた真実を、正確に射抜いていた。

自分が、100年後の未来で待っている「あかり」のために戦っていることを、目の前の男は知るはずもない。それなのに、拓実は千代の生き方、その魂の輪郭を、あまりにも正確に見抜いていた。

 

千代は、胸の中でにわかに暴れ出した破裂しそうな鼓動を必死に隠すように、ぷい、と勢いよく顔を背けた。

 

「……いったい、何を唐突に、脈絡のないことを言っているのかさっぱり分かりません。菱元さんは、やはり少し……いえ、かなり変わっていらっしゃいます。脳の栄養がやはり偏っているんです」

 

早足で歩き出す千代の後ろで、拓実は「あ、ちょっと待ってくださいよぉ。今のは僕なりの、人生最大級の励ましの言葉なんですけどねぇ。やっぱり伝わりませんでしたかねぇ」と、相変わらずのだらしない声を上げながら、小走りで追ってくる。

 

(まったく……この人は、本当に何を言っているのかしら……)

 

千代は心の中で呆れたように、そして自分を落ち着かせるように呟いた。けれど、いつの間にか、ポケットの中で血がにじむほどきつく握りしめていた拳の力は、自然とほどけていた。

 

夜風に冷え切っていた胸の奥底に、じんわりと、消えることのない温かい灯火が灯るのを感じる。

 

これは、一人で背負うべき孤独な戦いではない。

目の前に広がる混沌とした、けれど愛おしい現実を、このどこか頼りなく、けれど誰よりも自分の本質を見てくれている数学者と共に、もう一度歩んでいこう。

千代は、こぼれそうになる微笑みを必死に噛み殺しながら、完全に夜の帳が下りた街路へと、力強く歩みを進めるのだった。

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