あの発表会での大失敗から、千代と拓実は再び、以前にも増した圧倒的な熱量で研究に没頭していた。
千代は教授の助手としての実務を黙々とこなしながら、自身の研究をさらに一歩先へと進めるための道を模索していた。あの日、学界の重鎮である老教授から鋭く突きつけられた、自らの致命的な弱点。それを克服するため、千代は自分の作り上げた「机上の理論」をあえて一度脇に置いた。そして、自ら外へ出て人々と触れ合う「フィールドワーク」を、何よりも重視するようになったのだ。
しかし、それは暖房の効いた部屋で綺麗に整理された数字を扱うよりも、遥かに骨の折れる、地道で泥臭い活動だった。
舗装もされていないぬかるんだ山間部へ何度も足を運び、冷たい風の吹き付ける掘立小屋のような家で貧困にあえぐ家庭の生の声を聞く。数字やグラフには決して表れることのない、日々の生活の細かな機微や、人々が漏らす小さなため息を、千代は一言も聞き漏らさないよう、かじかむ指先でノートに克明に書き留めていった。
「いやー、僕はね、基本的には陽の光を浴びずに部屋の隅で数式だけを眺めていたい人間なんですけどねぇ……」
そう言ってはボソボソと文句を垂れる、極端に出不精な拓実だったが、なんだかんだと言いながらも、いつも千代の後ろを、お弁当や測量道具の詰まった大きなリュックを背負ってついてきた。
千代が現場の切実な声を拾い集め、拓実がその場で、その地域が抱える特殊な因子や地理的障壁を数式へと組み込んでいく。泥にまみれ、風に吹かれながら、二人の共同戦線は、より強固なものへと鍛え上げられていった。
あの日以来、大学の廊下ですれ違う際、他の若手研究者や保守的な学生から冷ややかな視線を向けられたり、陰口を叩かれたりすることも少なくはなかった。だが、千代はもう、そんなものに微塵も怯まなかった。
二人は目立つような大きな学会発表こそ一時的に控えていたが、フィールドワークで得られた確かな「事実」と、それを数学的に証明した小レポートを、地道に、そして丁寧に作成しては、学内で発表し続けていた。
そんなある日の夕方。泥にまみれた日々が半年ほど過ぎた頃だった。
助手の仕事を終えた千代は、あの発表会で最も手厳しい指摘を突きつけてきた、学会の重鎮である老教授に個人研究室へと呼び出された。
緊張で背筋をピンと伸ばす千代の前に、老教授は静かに一枚のレポートを置いた。それは、千代たちが数日前に提出した、最新のフィールドワークの報告書だった。
「この小レポート、拝見させてもらったよ。……実際に自分の足で現場を歩き回らなければ決して見えてこない事実が、そこには克明に、そして何より愛着を持って書かれていたね」
老教授の、穏やかながらも深い重みのある言葉に、千代は一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
「はい……。あの発表会の時、教授が仰ってくださった通り、以前の私の考えはあまりにも浅はかで、独りよがりでした。机の上の綺麗な数字だけで、複雑な社会やそこに生きる人間を救おうなどと、あまりにも傲慢だったのです。ですから今は、未熟な理論を掲げるよりも、まずは冷徹に実情を把握することに努めております」
千代が率直に、かつ真摯に己の非を認めて答えると、老教授はふっと眉尻を下げて、優しく目を細めた。
「なるほどね……。確かに、君たちの提示するシステムとしての理論は、まだまだ粗削りで未完成だ。突っ込みどころも多い。……だがね、立花さん。君のその『考え』は、おそらく君一人だけで終わるものではないかもしれないね」
「……え?」
千代が小首を傾げると、老教授は白髪交じりの頭を静かに揺らした。
「発信し続けなさい。確かに今、校内では君の急進的な福祉意見に対する批判や反発も多い。だがね、君が投げかけた小さな波紋は、私たちが思っている以上に、確実にこの古い大学の中に広がっているよ。最近ではね、君たちのレポートを読んで『確かに一理ある、ならば自分たちの専門分野ならどう考えるか』と、別の角度から新しい社会保障や労働のあり方を自主的に述べ始める、若手研究者や学生たちの動きがポツポツと出てきているようだ。君のあの日の発表は、学術的には大失敗だったかもしれない。だがね……君は明らかに、この頑なな大学の中にいる誰かの『意識』を、確かに変えたんだよ」
老教授はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる、夕暮れ時の静かなキャンパスを見つめた。
「社会というものはね、戦争や革命のように、一夜にして暴力的にひっくり返ることもある。だが、多くの場合……こうして誰かが踏み出した小さな一歩から、知らず知らずのうちに意識が伝播し、いつの間にか、以前より少しだけ良い方へと変わっているものだ。君は君の、正しいと信じる道を、そのまま真っ直ぐに進みなさい」
「教授……」
千代は突き上げるような嬉しさと安堵で胸がいっぱいになり、視界が涙で滲むのを必死にこらえた。
あかりが命がけで繋いでくれた、空襲のなかったこの平和な、美しい戦後の世界で。自分もまた、かつての偉大な先人たちのように、誰かの意識を変える「最初の一歩」になれていたのだ。
たとえプリキュアのような奇跡の魔法は持たずとも、人間が紡ぐ言葉と情熱が、確かに未来を、世界を少しずつ動かしている。
その時、コンコン、と遠慮がちなノックの音が部屋に響き、扉がぬっと開いて丸メガネの男が顔を出した。現地でさらに分析を重ねた補足資料を届けにきた、拓実だった。
「あ、失礼します。……先生、どうも。あの時は手厳しいお言葉、ありがとうございました」
拓実はのんびりと教授に軽く頭を下げると、千代に向き直った。
「千代さん、言われてた補足資料、今できましたよ。……そういえば今度、B市の沿岸部の方にフィールドワークに行くんでしょ? あそこ、今の時期は魚が死ぬほど美味いらしいんですよねぇ」
たった今まで部屋を満たしていた張り詰めた空気が、拓実のいつもの、あまりにもマイペースな一言で一気に霧散し、和やかなものへと変わる。千代はあきれ果てたように、けれど愛おしさを隠せずにクスリと笑った。
「菱元さん。面倒な調理をしなければならない魚は、合理的ではないとお好きじゃないのではなくて?」
「いやいや、僕が現地で網を引いて、包丁で魚をさばくわけじゃないですからねぇ。地元の食堂で、美味しく煮魚にされたものが出てくるなら、僕は大歓迎なんですけどねぇ」
「もう、本当にあなたという人は……」
やれやれと大袈裟に首を振る千代の姿を、老教授もまた、声を立てずに温かい苦笑いで見守っていた。
「菱元君。君も、本当に良い共同研究者を得たな」
「いやぁ、僕の方は、行き倒れていたところを千代さんに拾われたんですけどねぇ」
拓実の軽口を聞きながら、研究室を出て、オレンジ色に染まる夕暮れの廊下を並んで歩く。
千代はコートのポケットの中で、あかりの筆箱にそっと触れた。
本当に、少しずつではあるけれど。
千代が植えた小さな理想の種は、この日本にしっかりと根を張り、周囲の人々の心を、そして冷徹な社会の仕組みを、優しく変え始めていた。
隣を歩く、相変わらずだらしなく、けれど誰よりも自分の魂の本質を理解し、支えてくれる最高に頼もしい数学者の歩幅に合わせながら、千代は新しい未来へと続く確かな足跡を、また一歩、力強く刻み出していくのだった。