チェンジヒストリープリキュア   作:RBうじざね

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『仮説の夜、計算外の因果』

ある夜。大学の閉門時間をとうに過ぎ、静まり返った研究室で、千代はひとり黙々と机に向かっていた。

あの失敗に終わった発表以来、彼女は泥臭いフィールドワークを積み重ね、留学時代の知人を頼って海外からも新しい資料を取り寄せ、膨大な情報を集め続けていた。

様々な社会事例から、共通する普遍的な要素は何かを探り出す。例外的なケースに突き当たれば、それを引き起こしている特異な因子は何なのか。仮説を立てては、それを理学部研究室の菱元拓実に渡し、数式やデータに落とし込もらって検証する。人々の生の声と統計データが本当に一致しているのかを、ひとつひとつ紐解いていく。

気の遠くなるような、あまりにも膨大で地道な作業。それでも千代は、未来を掴み取るためにペンを動かし続けていた。

 

今日は、菱元がその検証データを届けてくれる手はずになっていた。

「昼に数学の勉強会があるから、そっちに行く前後に資料をまとめるよ。だからちょっと遅れる」

あらかじめそう聞いてはいたものの、時計の針はすでに夕刻を指している。さすがに遅れすぎだろう。

(もうちょっとだけ、待ってみましょう……)

そう思いつつも、目の前にある未整理のレポートの山を見てしまうと、じっとしていられないのが千代の性分だった。「ちょっとだけ」のつもりで再開した作業は、そのまま数時間に及び、今に至っている。

「……ふぅ」

ようやく一息つき、ペンを置いたその瞬間。急激に視界がぐにゃりと歪んだ。

「え……?」

世界が反転する感覚の中、千代の身体は糸が切れたように床へと崩れ落ちた。

 

 

同じ頃、菱元拓実は大きな風呂敷包みを抱え、千代の待つ研究室へと急いでいた。

昼の勉強会が予想以上に長引いたことに加え、検証データの計算式に一箇所どうしても納得がいかない部分を見つけてしまい、その再計算と資料作成が遅れに遅れてしまったのだ。

「さすがに、この時間まで待ってはいないよねぇ……」

そう呟きながらも大学へ向かうと、夜闇に浮かぶ千代の研究室の窓に、ぽつりとオレンジ色の明かりが灯っているのが見えた。

「……あれ、まだやってるのかぁ」

少し驚きつつ、顔見知りの守衛さんに事情を話して構内へ通してもらう。

静まり返った廊下を歩き、千代の研究室へ近づいたその時――中で『ガタン』という鈍い音が響いた。

(おや、本の山でも崩れたのかな?)

特に深く考えず研究室のドアを開けた菱元は、次の瞬間、目を見開いて硬直した。

机のすぐ横で、千代がぐったりと突っ伏して倒れ込んでいる。

 

「!? 千代さん! 大丈夫ですか!?」

 

抱えていた資料を放り出し、慌てて駆け寄る。

息はあるが、呼びかけても焦点が合わず、意識が混沌としているようだった。

「……あ、菱元、さん。私……」

「動かないで。どこか痛いところはありますか?」

「……わかり、ません……」

しばらく手を握って様子を見たが、どこかを強く打ち付けた様子はない。菱元はホッと息を吐くと、ゆっくりと千代の身体を起こし、部屋の隅にある古ぼけたソファへと横たわらせた。そして、備品の毛布を優しく肩までかける。

 

「ごめんなさい……急に、身体の力が抜けてしまって」

「もしかして、昨日から一日中ずっとここにいたの? ……食事は? ちゃんと摂りました?」

「……いえ」

千代が申し訳なさそうに視線を外すと、菱元は眉をひそめて小さくため息をついた。

「それじゃあ、身体が持つわけないよ。ちょっと待ってて」

 

菱元はコップに水を汲んで千代に飲ませると、コートを羽織り直した。

「一日何も食べてないんでしょ? 何か食べられるものを探してくるから、大人しく休んでてよ」

そう言って、足早に部屋を飛び出していく。彼が向かったのは、大学の正門にほど近い、千代が暮らしている教職員の宿舎だった。あそこなら、管理人がいるはずだ。

 

夜路を走り、宿舎の重い木製のドアを激しく叩く。

「……はいはい、こんな夜更けに、どちら様だい?」

怪訝な顔をして現れたのは、住み込みで働いている年配の女性だった。

「……見ない顔だねぇ。どこの方だい?」

「夜分遅くにすみません、理学部の者なんですが、資料を届けに参りました。」

菱元はいつもの飄々とした態度を完全に捨て、真面目な口調で名刺を差し出した。

「立花さんにデータを届けに研究室へ伺ったのですが……彼女、過労で倒れてしまって。今は意識もしっかりして落ち着きましたが、一日中何も食べていないようなのです。何か、少しでもお腹に入るようなものを分けていただけないでしょうか」

 

「そりゃ大変だ! 誰が倒れたって?」

「立花さんです。社会学の……」

「ああ、千代さんかい! ここから通ってる、いつも真面目な子だね。……よし、わかった。今すぐ温かいものを作って持っていくから、あんたは急いで研究室に戻って、千代さんの側にいてやりな!」

「ありがとうございます、おばちゃん。お願いします」

深く頭を下げ、菱元は再び研究室へと引き返した。

 

 

部屋に戻ると、千代はすやすやと小さな寝息を立てていた。

毛布にくるまり、普段の凛とした強さをすっかり無くして眠る彼女の穏やかな寝顔を、菱元は静かに見つめる。いつも社会の矛盾に舌鋒鋭く立ち向かう彼女が、自分の前で見せる無防備な姿。その横顔に、菱元は思わず胸が締め付けられるような感覚を覚え、まじまじと見入ってしまった。

(……いかんいかん、僕は一体何を考えてるんだ)

慌ててブンブンと首を振って目線を外した、その時だった。

 

「……菱元、さん。戻られたのですか……」

千代がうっすらと目を覚ました。

(まさか、見つめられていたことに気づかれたか!?)と、内心で猛烈に狼狽した菱元は、あからさまに視線を泳がせながら早口で応えた。

「あ、あー……うん。教員宿舎のおばちゃんに頼んだらね、何か食べ物を作ってここまで持ってきてくれるってさぁ」

「……そうですか。何から何まで、本当にありがとうございます」

 

弱々しく微笑む千代に、菱元は少し調子を取り戻し、つい先程の気恥ずかしさを誤魔化すように腕を組んで先生のように説教を始めた。

「それにしてもさぁ、いくら忙しくても、ちゃんと食べなきゃダメだなぁ。僕たち研究者はね、脳という非常に燃費の悪い器官を最大限に駆動させる、言わば『肉体労働者』だよ? 滋養の管理には、もっと厳密に気を配らなきゃあ」

 

普段、研究室の片隅で偏食ばかりして、お世辞にも滋養に気を配っているとは思えない菱元に堂々と説教され、千代は可笑しさを堪えながらも、「……はい。すみませんでした」と素直に縮こまるしかなかった。

 

やがて、宿舎のおばちゃんが湯気の立つお粥と梅干しをお盆に乗せてやってきた。

「こんな時間まで、本当にすみません……」

「いいんだよ、千代さん。無事で本当に良かった。あんたは真面目すぎてね、一つのことにのめり込むと他が一切見えなくなる。気をつけなきゃダメだよ」

「はい……」

 

温かいお粥をゆっくりと平らげ、千代の顔にようやく血の気が戻ってきた。彼女はソファから立ち上がろうとして、床の風呂敷包みに目をやる。

「もうすっかり大丈夫です。菱元さん、その、お持ちいただいた検証資料をお預かりします。早速目を通さなくては」

「あ、それはダメだなぁ」

菱元はすかさず資料の包みを自分の背中に隠した。

「……え?」

 

「ここで資料を渡しちゃったら、君のことだから夜通し読み込んで、また朝方倒れちゃうかもしれないでしょう?だからこれは渡せないなぁ。明日、僕の方でもう少しだけデータを綺麗に整えて、改めて教授のところに預けておくから。いいから今は、しっかり休んで」

隣で荷物をまとめていたおばちゃんも、我が意を得たりと腰に手を当てた。

「千代さん、このお兄さんの言う通りだよ。私が責任を持って、あんたを宿舎から出さないからね!」

 

千代は二人の徹底した連携に降参し、苦笑交じりに頷いた。

「……わかりました。お言葉に甘えます」

おばちゃんに連れられ、ゆっくりと教職員住宅へと戻っていく千代。菱元はその小さな後ろ姿が夜の闇に消えるまで、窓辺から静かに見送るのだった。

 

 

翌々日。十分に静養を取り、すっかり元気になった千代は大学の研究室へと復帰した。

「教授、先日はご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした」

千代が深々と頭を下げると、教授は優しく笑ってパイプを置いた。

「まぁ、まずは無事で何よりだったよ。君の情熱は素晴らしいが、身体が資本だからね。これからは十分に気をつけなさい」

「はい。……あの、菱元さんから、私の分の資料をお預かりしていませんか?」

「菱元くん? いや、今日はまだ来ていないし、資料も預かっていないがねぇ」

 

(おかしいわね、明日には預けておくと言っていたのに……)

千代は首を傾げ、菱元の理学部へと電話をかけた。呼び出し音のあと、菱元の担当教授が電話口に出た。

「ああ、立花くん。すまんね、実は菱元くんなんだが、昨日から体調不良で大学を休んでいてねぇ」

「えっ!? 体調不良……!? もしかして、私のせいで過労に……!?」

 

青ざめる千代だったが、受話器の向こうの教授は、心底呆れたような声を上げた。

「いやいや、過労なんかじゃないんだよ。彼、いつも研究室で干し芋を食べているだろう? 昨日の朝、彼が『ううむ、いつもと明らかに違う不規則な味がする……』と呟いて、そのまま食べ進めていたらしくてね。しばらく経ったら、案の定、猛烈にお腹を壊して寝込んでしまってねぇ。まったく、あんなに何でもかんでも数式で計算したがるくせに、自分の食べ物をいつ頃買って、いつまでに悪くなるかという単純な時間計算はできんもんかねぇ」

 

「……、……そうで、あったのですか。お大事に、とお伝えください……」

カチャリ、と受話器を置いた千代は、しばらく呆然としたあと、ジワジワとこみ上げてくる可笑しさと怒りで肩を震わせた。

 

(まったく、何が『僕たちは脳を酷使する肉体労働者だ』ですの……!)

 

あんなに偉そうに説教をしておいて、自分は干し芋の状態の計算すらできずに寝込むなんて。

(本当に、まったくあの人は……)

千代はプンプンと憤りつつも、机の上の空っぽの隣の椅子を見つめ、彼がいない静かすぎる研究室に、ほんの少しの寂しさを覚える。

「……早く、戻ってきてくれないかしら」

窓の外の青空を見上げながら、千代は小さく呟き、再び自分の研究へとペンを走らせるのだった。

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