老教授が予言した通り、千代を取り巻く世界は、水面に落ちた一滴の雫が波紋を広げていくように、静かに、けれど確実に変貌を遂げていった。
千代が汗にまみれ、その足で泥臭く拾い集め続けた「選択肢のある社会福祉」の小レポートは、じわじわと学内に浸透し、頑なだった研究者たちの心を動かしていった。
気づけば、千代が所属する研究室には、彼女の掲げる血の通った思想に深く共鳴した仲間たちが、一人、また一人と集まるようになっていたのだ。彼らは千代の情熱に打たれ、険しい山間部や沿岸部への地道なフィールドワークにも率先して同行し、生の声が詰まった膨大な資料の分析も手際よく分担してくれた。また、研究室に頻繁に出入りするようになった若い学生たちも、未完成ながらも新鮮で、活き活きとした視線を千代に与えてくれた。
かつてアメリカの地で、たった一人、言葉の壁と冷徹な差別のシステムを前にして、己の無力さに絶望していたあの頃が、まるで遠い前世の出来事であるかのように思えた。
そこからさらに一年という月日が流れる頃には、千代の研究室は、彼女が目指す社会設計のシミュレーションを、ほぼ内部の精鋭たちだけで完結できるほどの、立派な組織へと成長を遂げていた。
かつてあれほど頼りきり、心細い時にはいつもその背中を追いかけていた菱元拓実の役割は、いつしか「最終的な総合確認」という一歩引いた位置づけになっていた。彼が、あの埃っぽい数理学の部屋からこちらの研究室へと気だるそうに顔を出す機会は、いつの間にか、目に見えて減っていった。
――だが、千代の胸の奥には、陽の光を遮る黒い霧のような、悶々とした暗い感情がいつからか居座り続けていた。
これ以上ないほどに恵まれているはずだった。自分の思想は確かに人々の意識を変え、仲間を増やし、形になりつつある。あかりが待っている未来へ向かって、自分が回すべき正しい歯車は、確実に回り始めているのだ。
なのに、なぜか心が満たされない。一人で研究室に残る夜、ふと静寂に包まれると、胸の奥がひどく寒く、何かが決定的に、致命的に欠け落ちているような寂しさに苛まれるのだった。
(どうして……? 私は一体、何を不満に思っているの?)
その疑問の明確な答えを、千代は恐ろしくて言葉にすることすらできなかった。認めそうになる「本当の望み」を、生真面目な理性が必死にせき止め、見ない振りをさせていた。
そんなある日の夜。その日も遅くまで書類の整理をこなし、すっかり静まり返った研究室に、ジリリリンと黒電話の鋭いベルが鳴り響いた。
受話器を取った千代の耳に飛び込んできたのは、低く、ボソボソとした、懐かしい男の声だった。その瞬間、ドクンと千代の胸が大きく跳ね上がった。
『あー、千代さん? 拓実です。……うん、まあ、ちょっとどんな様子かなと思ってねぇ。……今から少し、話、できないかな』
指定されたのは、大学の裏手にある夜の公園。街灯の鈍いオレンジ色の光が、冬を孕んだ冷たい夜気をぼんやりと照らし出している。
千代が小走りで待ち合わせ場所へと向かうと、色褪せた木製ベンチの近くに、見慣れた、けれどどこか見違えるような男の背中が立っていた。
「――菱元さん」
少し息を切らせて声をかけると、男がゆっくりと振り返った。千代は思わず、小さく目を見開いた。
顎にはうっすらといつもの無精髭が残っていたものの、彼はいつになく、仕立ての良い上質な背広を身に纏い、ネクタイをきっちりと締めて現れたのだ。いつもサイズが合っていないだらしないシャツや、墨汁のシミがついた袴姿ばかりを見ていた千代にとって、その「大人の男」としての小綺麗な佇まいは、心臓をくすぐるような新鮮な驚きだった。
「あ、千代さん。こんばんは。急に呼び出してすみませんねぇ」
拓実は少し照れくさそうに、丸メガネのブリッジを人差し指でくい、と押し上げた。
「……お久しぶりです、菱元さん。お元気でしたか?」
「ええ、まあ、それなりに。千代さんのほうの研究室、ずいぶん賑やかになっているみたいですねぇ。廊下を通るたび、楽しそうな声が聞こえてきますよ」
「はい。おかげさまで、私の拙い論文に耳を傾け、一緒に考えてくれる素晴らしい仲間が増えました。今は、私たちが最初に二人で徹夜して苦労していたデータの処理も、手際の良い方々が手伝ってくださっていて、研究の速度も格段に上がったんです」
千代は努めて明るく、何の問題もない順調な現状を報告した。
だが、その言葉を口にし、誇れば誇るほど、胸の奥の「悶々」とした痛みが疼きを増した。
今の千代の周りには、片付けが上手な人も、従順な学生も、手際よく計算をこなしてくれる優秀な仲間もたくさんいる。なのに――。
自分の拙い「理想の銃」に、確率統計という名の「最初の美しい弾丸」を込めてくれた、あの干し芋をボリボリとかじりながら天才的な数式を殴り書きした、やせっぽちのメガネの男。彼が隣にいないというただそれだけの事実が、世界のすべてを失ったかのように、こんなにも寂しい。
千代は、自分がこの一年間ずっと満たされなかった理由の正体を、この凍てつく夜の闇の中で、ついに認めざるを得なかった。私は、彼と並んで、泥をかぶりながら戦いたかったのだと。
しかし、自分から呼び出しておきながら、拓実はそこからなかなか次の言葉を発しようとはしなかった。
街灯の淡い光の下、いつになく整った衣服を着た拓実は、ただ静かに、何かを慈しむような深い眼差しで千代を見つめている。そして、背広のポケットの中で、何かを躊躇うように、ぎゅっと握りしめているようだった。
二人の間を、冬を連れてくる冷たい夜風が、木の葉を巻き上げながら静かに吹き抜けていった。