夜の公園に漂う、張り詰めたような沈黙。
それをそっと破るように、きっちりとした背広に身を包んだ拓実が、寒空にきらめく無数の星々を見上げながら、ぽつり、と呟いた。
「……君は、本当にまっすぐ進んでいるんだねぇ。どうしてそんなに迷いなく、遠くを目指して、前だけを向いて進めるのかなぁ」
いつになく真剣で、どこか寂しげなその横顔を見つめ、千代は夜風に衣擦れの音を響かせながら、小さく、温かい吐息をこぼした。
冷たい風が頬を撫でていく。けれど不思議と、寒さは感じなかった。胸の奥に秘め続けてきた、自分の全ての原動力であり、誰にも明かしたことのなかった魂の聖域を、今なら――この人にだけは話せる、そんな確信が千代の背中を押していた。
「……約束が、あるんです」
「約束?」
拓実が視線を星空から下ろし、丸メガネの奥の瞳で千代を見つめる。
「はい。女学校時代の、大切な親友がいるんです。彼女は家族と離れて一人で、あの激動の時代にA町へとやってきました。女中見習いとして必死に働きながら、私と同じ女学校に通っていたんです。どれだけ過酷で、寂しい思いをしていたか知れないのに……彼女は私と全然違って、いつも太陽のように明るくて、元気で、でも、少しだけおっちょこちょいで。だんだん仲良くなって、気づいたらいつも一緒にいました」
千代の脳裏に、あの暑い夏の夜、夜空を彩った花火の光に照らされた、あかりの弾けるような笑顔が鮮やかに、色褪せることなく蘇る。
「彼女と一緒に、将来はこんなことをしたいね、こんな風に誰もが笑い合える優しい世の中になったらいいよねと、夢中になって、たくさんたくさん話していました。……でも、彼女はどうしようもない大きな事情で、ある日突然、私の手の届かないほど遠くへ行ってしまいました。……私はね、菱元さん。いつか、彼女がどこかで私を見つけてくれた時……『あかり、あの時二人で話した通りの、誰もが笑い合える優しい世の中になったよ!』って、胸を張って笑顔で伝えたいんです。それが、私のすべての学問の、私の人生の原点なんです」
千代は溢れそうになる感情を堪え、震える視線をまっすぐに拓実へと向けた。
「そのために、私なりにできることを必死に、死に物狂いでやってきたつもりです。それが今、周囲に温かい仲間が増えて、ようやく実を結びつつある。私はとても幸せで、恵まれた環境にいるはずなんです。なのに……それなのに、私の心は激しく乱れてしまっている。……原因は、あなたです」
「僕……?」
「はい。私とも、私の親友とも全く違う、だらしなくて、自分勝手で、干し芋ばかりかじっているあなたが……何をしていても、私の頭の中に現れて、どうしても消えてくれない。あなたのいない隣が、こんなにも冷たくて寂しい。……私は、どうすればいいのですか?」
瞳に大粒の涙を浮かべながら、胸の奥底に澱のように溜まっていた本音をぶつける千代。
訪れたのは、張り詰めた、長い長い沈黙だった。吹き抜ける冷たい夜風の音だけが、二人の間を通り抜け、梢を揺らす。
やがて、拓実がゆっくりと、深く息を吸い込んで口を開いた。丸メガネの奥の瞳が、これまでのどの瞬間よりも深く、真摯に千代を捉えていた。
「一緒になろう、千代さん」
「……え」
あまりにも唐突な、かつ最も望んでいた言葉に、千代の思考が完全に停止する。拓実は首元を少し緩めると、いつものように、けれどどこかぎこちないボソボソとした口調で続けた。
「……いやね、そうすればさ、僕が君の研究をどれだけ手伝って深夜まで一緒にいたって、周囲からなんの疑問も持たれないでしょう? いちいち二つの研究室を行き来する必要もなくなって、移動時間のロスも完璧に防げる。これは、これからの僕たちの、数理社会学の未来にとって、極めて合理的で、かつ最適な提案だと……」
「――本当に、それだけですか!?」
千代の鋭い、そしてじれったさに満ちた声が、拓実の言い訳を遮った。千代はみるみるうちに頬を真っ赤に染め、怒ったように、そして泣きそうになりながら拓実を睨みつける。
「本当に、本当に、そんな理由だけなのですか、菱元さん!?」
ここまで自分の弱さをさらけ出し、本心を伝えたというのに、なおも「合理性」という都合のいい盾の裏に逃げ込もうとする男に、千代の生真面目な怒りが爆発した。
すると拓実は、完全に観念した、というように両手を少し上げ、肩の力を抜いて困ったような苦笑いを浮かべた。
そして、きっちりとした背広のポケットからそっと手を抜き、千代の前へと差し出した。その手は、冷たい風のせいだけではなく、小さく震えていた。
「……違うよ、千代さん。君のあの、まっすぐで、頑ななまでの……世界で一番美しい魂のあり方に、僕は心底、惚れたんです。これは確率統計の数字なんかじゃ、一生かかっても計算できない。……君の隣にいたい。君と一緒に、これからの人生を歩んでいきたい。一緒になろう、千代さん」
その不器用で、けれどこれ以上ないほどに真っ直ぐな言葉が耳に届いた瞬間、千代の目から、堪えていた涙が堰を切ったようにぽろぽろと零れ落ちた。けれど、その涙に濡れた顔には、冬の寒さを一瞬で溶かすような、これ以上ないほど眩しい笑顔が咲き誇っていた。
「……はい。私も、あなたと一緒に、生きていきたいです」
しばらくの間、二人はただお互いの体温と存在を確かめ合うように、静かに星空の下で佇んでいた。
やがて、拓実がチラリと照れくさそうに周囲を見回し、人がいないことを確認してから、おずおずと右手を伸ばす。千代もまた、ほんの少し恥ずかしそうに視線を泳がせながらその手を差し出した。
二人の指が、ぎこちなく、探り合うように、けれど一度絡み合えば二度と解けないほどに強く、深く結ばれた。
涙を指先でそっと拭いながら、千代は少しだけ拗ねたように唇を尖らせる。
「……最初からはっきりそう言えばいいのに。効率的な動きや、無駄を省くことが何よりもお好きなのでしょう?」
「……それは、千代さん、君だって同じなんじゃないですかねぇ?」
「あら。こういう大切な瞬間は、殿方からはっきりと真意を伝えるべきです」
拓実は「やれやれ、なんでこういう都合の良い時だけ、古いジェンダーロールを持ち出すのかなぁ」と、いつものだらしない調子に戻り、左手で丸メガネの位置を直した。
「そういう窮屈な社会の規範をぶち壊して、誰もが自由な選択肢を持てる世の中にしようって、二人で研究している最中なんじゃないの?」
千代は組んだ指に少しだけぎゅっと力を込め、いたずらっぽく小悪魔のように微笑んだ。
「お言葉ですが、私は伝統や規律を否定なんかしていませんよ? 状況や時と場合、そして何より『本人の気持ち』によって、その規範を誰もが選べる自由があったら素敵よね、と提案しているだけです。今はこの古い形が、最も『合理的』なのです」
「……あちゃー。千代さん、そこは学問的に美しくないなぁ」
「ふふっ」
お互いの顔を見合わせ、どちらからともなく、冬の澄んだ空気の中に穏やかな笑い声が溶けていく。
100年後の未来、あかりが待つあの約束の場所を見据える千代の隣に、彼女の「今」の全てを愛し、共に支えてくれる、世界で唯一無二の伴侶が並んだ。
プリキュアとしての魔法の力は持たずとも、二人の人間の心が、確かな愛が、ここに新しい未来の軌跡を刻み始めたのだ。
二人の、少し風変わりで、けれど誰よりも温かく優しい人生の旅路が、冬の星々に見守られながら、今、静かに幕を開けるのだった。